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東京都港区の歴史
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                               山門
所在地 港区白金台1-1-47 (覚林寺)


                                         本堂

 港区指定有形文化財(建造物)
清正公堂及び山門
           平成19年(2007)10月23日指定

 覚林寺は弘化2年(1845)の大火で全焼し、山門は安政3年(1856)、清正公堂は慶応元年(1865)に再建されたものです。
 清正公堂は拝殿・幣殿・本殿からなる権現造形式です。拝殿は間口三間奥行三間、幣殿は間口一間奥行三間。本殿は土蔵造で明治中期頃の再建と考えられますが、伝統的な意匠をもちます。三門は覚林寺の表門で、木造・銅板葺の薬医門であり、両側に脇戸が付きます。斗に皿斗が付くほかは装飾的要素の少ない簡素な門です。
 清正公堂は本殿部分を土蔵造とする権現造で、近世の建物構成を継承しています。拝殿・幣殿は本格的な禅宗様形式を採用し、本殿も伝統的な意匠を引き継いでおり、近世以来の技術を伝えるものとして高く評価されます。また三門は現在の境内おいて最古の建築であり、同時期の建設になる清正公堂とともに、近世以来の境内の構成を伝えている貴重な建造物です。
 港区教育委員会



                            清正公堂

 山手七福神
   毘沙門天


                                      毘沙門堂


所在地 港区白金2-3-5

 港区指定有形民俗文化財
日限地蔵尊略縁起等版木
            平成9年(1997)10月14日指定


所在地 港区三田4-8-23

 妙荘山 薬王寺

 史 跡 

一、朝顔の井戸
 
 明治の書聖
一、中林悟竹の墓
 
 開蒙舎
一、御田小学校発詳の寺



所在地 港区三田4-12-15 (実相寺)

港区指定文化財(歴史資料及び有形民俗)
会津松平家由来 
  常香盤(香盤時計)
              平成21年(2009)10月27日指定





所在地 港区三田4-4-14 (明福寺)

 港区登録有形文化財(絵画)
絵本金地着色獅子図(襖貼付)
              平成9年(1997)3月11日指定





所在地 港区三田4-1-38 (大松寺)

港区指定有形文化財(絵画)
 絵本墨画五百羅漢図下絵
         狩野一信筆
            平成16年(2004)10月26日指定

港区指定有形文化財(彫刻)
 木造阿弥陀如来立像
            平成6年(1994)9月27日指定


所在地 港区三田1

 天祖神社を元神明というところから神明坂と呼んだ。馬場坂という説もあるが綱の手引坂との混同があるらしい。
  平成19年(2007)8月 港区


所在地 港区三田2-15-45 (慶應義塾大学)




             福沢諭吉胸像


                                    図書館旧館


              三田演説館

港区指定有形文化財(古文書)
 反町文書
       平成20年(2008)9月9日指定


所在地 港区三田2-15-45 (慶應義塾大学)

国指定重要文化財(建造物)
 慶應義塾図書館
     昭和44年(1969)3月12日 指定

 

 この建物は義塾創立50周年を記念し明治45年(1912)4月、工学博士曽禰達蔵、工学士中條精一郎両氏の設計監督によって完成したもので、外国人の手を全く借りずに造られた洋風煉瓦館としては一級品である。震災、戦災による被害を修復し、今日なお当初の遺構を留めている。煉瓦建築の少ない我が国にあって、建築史上貴重な存在である。
 様式    ゴシック式
 建築面積 684.4平方メートル
 


所在地 港区三田2-15-45 (慶應義塾大学)

    重要文化財 三田演説館の由来
 慶応義塾の三田演説館は、福澤諭吉先生によって建設されたわが国最初の演説会堂である。開館は明治8年(1875)5月1日、はじめはいまの塾監局の北端のあたりにあったが、大正13年(1924)に現在のところに移築された。



 構えは木造かわらぶき、なまこ壁で、日本独特の手法が用いられているけれども、本来アメリカから取り寄せた諸種の図面をもとにして造られたものであって、明治初期の洋風建築のきわめて珍しい遺構とされている。規模は床面積191平方メートル余、一部が2階造りになっていて、延面積は280平方メートル余りになる。
 福澤諭吉先生は晩年、この演説館について、「其規模こそ小なれ、日本開闢以来最第一着の建築、国民の記憶に存すべきものにして、幸いに無事に保存するを得ば、後五百年、一種の古跡として見物する人もある可し」としるしておられる。まさに、三田演説館はわか国文化史上の貴重な記念物というべきであろう。
 慶応義塾



此ノ演説館ハ明治8年(1875)5月1日福澤先生ガ世ニ率先シテ演説ノ法ヲ普及センガ為ニ創建サレタル我國最初ノモノニシテ大正4年(1915)東京府ノ史蹟ニ指定サルコレハ始メ慶応義塾塾監局建物ノ北端に位置セルモ大正13年(1924)火災ノ危険ヲ慮リ稲荷山ノ丘上ニ移サレ幸ニ太平洋戦ノ災禍ヲモ免ルルヲ得タリ然ルニ荒廃既ニ久シキヲ以テ幼稚舎同学ノ四四會有志相謀リ之ガ修復ニ及ベリ本館ニ■シ先生ノ曰ク「慶応義塾ノ演説館は其規模こそ小なれ日本開闢以来最第一着の建築國民の記憶に存す可きものにして幸に無事に保存することを得ば後五百年一種の古跡として見物する人もある可し」ト爾来僅ニ半世紀ニシテ日本文化史ノ一頁ヲ飾ル歴史的建物ノ一ニ敷ヘラルルニ至ル洵ニ先生ガ先見ノ明ニ服スルモノナリ
 昭和22年(1947)5月誌

所在地 港区白金台3-2-19 (瑞聖寺)

港区指定有形文化財(彫刻)
 木造釈迦如来
 阿難像あなんぞう
 迦葉像かしょうぞう
            昭和63年(1988)10月26日指定

 瑞聖寺は、黄檗宗寺院として江戸において初めて建立されたものです。開基は青木甲斐守重兼で、黄檗宗を日本に開宗した中国僧隠元の弟子である木庵性瑫が開山として招請され、漢文11年(1671)に落成しました。
 本尊釈迦如来坐像(寄木造)は、体部背面に金泥で記した「寛文十一辛亥」の銘があり、瑞聖寺開山のときの造像であったことがわかります。また、頭部内刳面に「音羽仏師祐運次郎兵衛」の墨書銘があり、京仏師の作とわかります。
 両脇侍の阿難・迦葉立像(寄木造)も、釈迦如来像の一具像として、保存もよく、伝存するのは貴重です。
 中国明時代の様式を伝えた、区内における稀有の作例として貴重です。
 法漁
釈迦如来像  像高 77.4センチメートル
          光背 142.0センチメートル
阿難像     像高 111.9センチメートル
迦葉像     像高 107.7センチメートル
  港区教育委員会

              明治学院記念館(港区文化財)

所在地 港区白金台1-2-37 (明治学院大学)




                   明治学院インブリー館


       明治学院礼拝堂(チャペル)(港区文化財)


                      明治学院校歌碑


          G.H.F.VERBECK(フルベッキ)の碑


港区登録有形民俗文化財
メーソン&ハムリン社製
   415型リードオルガン
           平成10年(1998)12月2日指定


所在地 港区白金台1-2-37 (明治学院大学)

港区指定有形文化財(建造物)
 明治学院記念館
             昭和54年(1979)10月23日指定



 島崎藤村が小説「桜の実の熟する時」の中で、「・・・新しく構内に出来た赤煉瓦の建物は、一部は神学部の教室で、一部は学校の図書館に成つて居た。まだペンキの香のする階段を上つて行つて二階の部屋へ出ると、そこに沢山並べた書架がある。一段高いところに書籍の掛りも居る。・・・書架で囲はれた明るい窓のところには小さな机が置いてある。そこへも捨吉は好きな書籍を借りて行つて腰掛けた・・・」と書いているのが、この赤煉瓦の建物である。1890年(明治23年)6月24日に献堂式が行われた。建築当初は、神学部の教室、教授室、ならびに図書館として使用されたが、長い歳月を経た現在は、記念館と呼ばれている。
 設計は、H・M・ランディス教授。赤煉瓦・瓦葺きのニ階建てで、当時アメリカで流行したネオゴシック様式。延面積は約235平方メートル。1894 年(明治24年)6月の大地震で大破し二階部分を木造に改造。木造部分は木材の骨組を真壁にし木骨を表に出し、煉瓦と木造との連繋構造は妙をえて高い評価を受けている。尖頭は1914年(大正3年)のサンダム館の火災時に類焼して改造されたもの。
 1923年(大正12年)の関東大震災では煉瓦の大煙突が崩壊、1966年(昭和41年)道路拡張のため現在地に移動復元した。1979年(昭和54年)、東京都港区の指定文化財となった。
     明治学院


所在地 港区白金台1-2-37 (明治学院大学)

 有形指定有形文化財(歴史資料)
明治学院インブリー館
       建設関係資料
             平成8年(1996)10月22日指定

 明治学院大学がこの白金の地に開校したのは、1887年(明治20年)9月15日であるが、開校までに普通学部校舎及び講堂のザンダム館と同部寄宿舎のヘボン館が建築されていた。
 引続き、神学部校舎兼図書館(現「記念館」)や、当時学院で教えた宣教師の住宅などの西洋館が相ついで建てられた。
 島崎藤村が小説『桜の実の熟する時』の中で、「向ふの講堂の前から敷地つヾきの庭へかけて三棟並んだ西洋館はいづれも捨吉が教を受ける亜米利加人の教授達の住居だ。白いスカアトを涼しい風に吹かせながら庭を歩いて居る先生方の奥さんも見える。」と書いている三棟の宣教師住宅は、構内西南隅(現高校校舎敷地)にあったもので、今は残っていない。
 この建物は、これらとは別に構内東北隅に建てられ、学院の宣教師住宅のうちただ一つ現存するものであり、ウィリアム・インブリー博士が長年住んだので、「インブリー館」と呼ばれてきた。1889年(明治22年)頃の建物で、木造瓦葺2階建、建築様式的には19世紀後半の亜米利加の住宅様式を反映している。
 1964年(昭和39年)現在地に曳屋され、1994年(平成6年)から建物調査、解体調査工事、1996年(平成8年)5月から組立工事を行い、1997年(平成9年)9月に全面修復が終わった。現在は木造銅板葺2階建で、延床面積は301.3平方メートル。同窓会本部等として利用されている。
     明治学院大学 


所在地 港区白金台1-2-37 (明治学院大学)

港区指定有形文化財(建造物)
 明治学院礼拝堂
            平成元年(1989)10月25日指定



 1903年(明治36年)建築のミラー記念礼拝堂が度重なる地震のため地盤沈下し破損、危険となったため、サンダム館2階の講堂が礼拝堂として使用されていた。ところが1914年(大正3年)11月24日にこのサンダム館も火災のため焼失し学院は礼拝を行う場所を失った。そこで、礼拝堂の建築が急がれた。
 井深梶之助総理とインブリー博士は、理事会に諮り建築資金の調達に奔走。米国プレスビテリアン(長老派)、リフォームド(改革派)の両ミッションに上申書を送り援助を懇請した。その結果、セベレンス氏からの寄附があり、それが資金にあてられた。
 ミラー記念礼拝堂の前例があるので、特に基礎工事を堅固にし、1915年(大正4年)11月30日に定礎式を行い、当時来朝中のプレスビテリアン外国伝道局主事スピーア博士が礎石をすえた。工事は順調に進行し、翌1916年(大正5年)3月落成。同3月27日には卒業式をかねて献堂式が行われた。建坪は約375平方メートル。建築様式は英国式、設計はウォーリス会社であった。
 その後学生数の増加に伴い狭隘となったので1920年代の末に両袖を拡張、十字架型とし、さらに講壇の一部を改造した。1966年(昭和41年)2月19日に、西独ヴァルカー社製作のパイプオルガンが設置され、奉献式が行われた。
     明治学院大学 


所在地 港区白金台1-2-37 (明治学院大学)

人の世の若き生命(いのち)のあさぼらけ
学院の鐘は響きてわれひとの胸うつところ
白金の丘に根深く記念樹の立てるを見よや
 
緑葉は香ひあふれて青年(わかもの)の思ひを伝ふ
心せよ学びの友よ新しき時代(ときよ)は待てり
もろともに遠く望みておのがじし道を開かむ
霄あらば霄を窮めむ壌(つち)あらば壌(つち)にも活きむ
 
ああ行けたたかへ雄雄しかれ
眼さめよ起てよ畏るるなかれ

          島崎藤村


所在地 港区高輪2-8-2 (承教寺)

 長祐山 承教寺


                                         山門


                                         本堂

 英一蝶墓
 大檀林跡
 二本榎の碑

港区指定有形文化財(絵画)
 英一蝶筆釈迦如来画像
          (絹本着色)
            昭和63年10月26日指定


所在地 港区高輪2-8-2 (承教寺)

東京都指定旧跡
  英一蝶墓
     昭和18年(1943)5月指定

 江戸中期の絵師、英派の始祖、本名は多賀信香、潮湖のち一蝶、北窓翁などと号した。承応元年(1652)大坂(京都ともいう)に生まれ、15歳(一説に8歳)のとき、伊勢亀山藩侍医となった父多賀白庵に従って江戸に移った。絵は狩野安信に師事し、また書、俳諧、音曲にも秀で、当時のいわゆる通人であった。
 元禄11年(1698)『当世百人一首』や『朝妻舟』の図などが将軍綱吉を風刺したとして、三宅島に配流となったが、在島12年ののち大赦により江戸に戻った。赦免の報を聞いた時、蝶が花に戯れる様を見て「一蝶」と号したという。
 軽妙酒脱な筆致で江戸市民や都市風俗を描くことを得意としたが、享保2年(1717)には風俗画廃業を宣言している。享保9年(1724)
1月13日、73歳で没した。
 平成20年(2008)12月設置 東京都教育委員会


所在地 港区高輪2-8-2 (承教寺)

 その昔、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を、「高縄手」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。
 誰いうとなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになりました。
 それがそのまま、「二本榎」(にほえのき)という地名となって続き、榎が枯れた後でも地名だけは残りました。
 戦後、地番変更で高輪何丁目などと地名が変りましたが、昭和42年(1967)に町内の黄梅院の境内に夫婦の榎を植樹し、石碑を立ててこの「二本榎」の町名をいつまでも忘れないようにしました。
 平成2年(1990)、「碑」をこの場所に移しましたが、二本の榎は黄梅院に大切に育てられています。
 この「碑」はこの町の住民にとって大切な象徴となっております。
 高輪二本榎町会


所在地 港区虎ノ門3-13-6 (天徳寺)

港区指定有形文化財(歴史資料)
 弥陀種子板碑
             昭和61年(1986)10月20日指定



 
 
 
 「板碑」は、鎌倉時代から戦国時代にかけて各地で造られた板状の石造物で、本来は先祖の供養など民間信仰によって立てられた塔婆の一種である。鎌倉時代には地方豪族や僧侶によって立てられたが、南北朝時代以後は庶民にまで広がり、その造立も民間信仰と密接に関連し、本来の仏教的色彩は薄れた。
 本板碑は、緑泥片岩(秩父青石)の一尊種子板碑で、高さ68cm、幅
29cm、頭部を山形に造り、その下に二段の切り込みを入れ、身部の幅は同等で変わらない。身部上半に蓮華座上に梵字「キリーク」(阿弥陀仏)を異字体で表し、下半には「永仁67月日」(西暦1298年)の銘を刻む。梵字が分断直截の薬研彫でやや浅く、年が草体で記されており、時代の特徴をよく示している。
 鎌倉時代の造立刻銘をもつ種子板碑の典型であり、港区内には稀少な存在である。
 昭和61年(1986)10月20日  東京都港区教育委員会

                                     長谷寺山門

所在地 港区西麻布2-21-34 (長谷寺)

大本山永平寺別院
 長谷寺


                                    長谷寺本堂
 
  麻布大観音
 当大本山永平寺別院長谷寺の十一面観世音菩薩は、昔から大和長谷寺・鎌倉長谷寺と同木同体のの日本三大長谷観音と称せられ、江戸時代の初めから東都一般民衆の信仰を集めておりましたが、惜しくも昭和20年(1945)の戦災で伽藍共々焼失いたしました。昭和52年(1977)、当時の監院職にあられた今の永平寺の丹羽禅師様が、格別のお努めをもって有縁の方々の合力を得、前後10年の歳月を閲して現在の麻布大観音及び大観音堂が再建されました。
 観音さまは、経に『一心にそのみ名を称せば、観世音菩薩は即時にその音声を観じて皆解脱することを得せしめん』とあるように、衆生救済の誓願を立て、慈悲の眼をもって衆生をを視、願いに応じて無量の福慧を与えたもう菩薩さまで、中で十一面観音さまは十一の面に人々の苦しみを救う力を秘めた観音さまであります。 
 御詠歌(江戸三十三ヵ所・第二十二番札所)
めぐり来てちかひぞあふぐふだらくの
       山もめぐみもふかきはせでら
・樟の一木彫、高さ三丈三尺(約十米)
・日本芸術院会員 大内青圃氏謹作

 
                    長谷寺観音堂                 麻布大観音


 境内墓地には『伊澤蘭軒墓』(港区文化財)、『黒田清輝墓・黒田清綱墓』、『井上馨墓』、『会津藩士墓』、『エノケン墓』、『坂本九墓』があります。


所在地 港区西麻布2-21-34 (長谷寺)

港区指定文化財(史跡)
  伊澤蘭軒墓
        昭和57年(1982)10月30日指定

 江戸時代後期の医師・文化人であり、とくに古書籍の考証に深い見識を示した伊澤信貞恬、号蘭軒は安永6年(1777)11月11日に江戸本郷で生まれました。儒学・医学・本草を学び、特に泉豊洲の塾では同窓に狩谷棭斎がおり、親交を結び、ともに考証学の道を歩みました。後に棭斎の孫女が蘭軒の子柏軒に嫁し、また柏軒の女が棭斎の養孫矩之に嫁し、姻戚関係をも重ねることとなりました。父信階のあとをうけて、備後福山藩主阿部氏の侍医となりましたが、足疾のため表医師にうつり、儒官を兼ねました。彼の校勘解題(古典の写本などを比べてその誤りや異同を調べ、できるだけ原本の)形を再現した解説書)の主なものとしては『医心方(いしんほう)』・『元板千金方(げんばんせんきんほう)』・『元板千金翼方(げんばんせんきんよくほう)』・『弘安本考経(こうあんぼんこうきょう)』とその跋(あとがき)が挙げられます。文政12年(1829)3月17日没。53歳。法名は芳桜軒自安心恬居士といいます。
 森鴎外は史伝小説『伊澤蘭軒』を執筆し、埋没していた蘭軒の業績を探し求め、明らかにしました。
  港区教育委員会


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