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東京都港区の歴史
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所在地 港区三田4-17-28 (区立三田台公園)

 

 昭和53年(1978)縄文、古墳時代の住居跡と貝塚断層が港区三田4丁目19番で発掘されました。

 

 これを永く保存すると共にその当時の生活環境を身近に理解していただくためこれらを再現しました。又、非常用の井戸、芝生広場、身障者の方も安心して利用していただくための施設等整備されていますので大切にあつかいましょう。
  港区役所

 


所在地 港区三田4-11-19 (玉鳳寺) 

 港区登録有形民俗文化財
化粧延命地蔵(おしろい地蔵)
          平成4年(1992)3月30日指定









所在地 港区芝公園4-2-8 (東京タワー)

南極観測ではたらいたカラフト犬の記念像
          1959年財団法人日本動物愛護協会



1956年11月 南極観測隊にソリ犬として同伴しその功績は大きかった
1958年2月  観測隊の引きあげのとき15頭は鎖につながれたまま残された
1959年1月  第三次観測隊が奇跡的にも生存していたタロー、ジローの2頭を発見収容したが他の13頭は餓死したものと思われる


所在地 港区芝公園3-1-13 (安蓮社) 

港区指定文化財(史跡)
  普光観智国師墓
           昭和55年(1980)11月15日指定

 観智国師は源誉存応といい、天文13年(1544)に武蔵国に生まれ、元和6年(1620)に増上寺においてその生涯を終えました。
 増上寺住職となったのは天正12年(1584)で、慶長4年(1599)には後陽成天皇から紫衣の勅許を得たほか、慶長15年(1610)7月には家康に斡旋により国師号を授けられ、これ以後、観智国師とよばれました。浄土宗としては異例の厚遇であり、この頃から増上寺は京都の本山知恩院と相並ぶ寺院として重んぜられるようになりました。また、この間、慶長10年(1605)から慶長17年(1612)にかけて、増上寺三門本堂経蔵などの堂宇の造営に努め、家康から寺領千石の寄付や、大蔵経三部の寄贈を受け、徳川家菩薩寺である増上寺を、政治的にも経済的にも確固たるものにして功績者です。
 平成22年(2010)12月 港区教育委員会


所在地 港区北青山2-12-29 (海蔵寺)

 港区有形文化財(歴史資料)
海蔵寺の庚申塔
        平成7年(1995)3月27日指定



所在地 港区南青山4-17-43 (王子グリーンヒルアパートメンツ)

 斉藤茂吉翁(1882~1953)は、日本の近代短歌史上に偉大な足跡を残しました。
 この地「港区南青山4-17-43」茂吉翁が明治40年(1907)から昭和20年(1945)4月までの約40年間居住し、病院経営にあたるかたわら、童馬山房と称し短歌の創作に専念されたところです。
  


あかあかと一本の道通りたり 
      霊剋るわが命なりけり

 

 この短歌は、大正2年(1913)、茂吉翁31歳の自筆の短歌で、当時の青山の景観と地震の境涯とを重ね合わせて詠んだものです。
  王子製紙株式会社


所在地 港区南青山4-28先

港区有形文化財(歴史資料)
 青山の庚申塔
           平成5年(1993)3月23日指定



 慶応元乙丑年(1865)建立のこの庚申塔は、

右 あをやま 内とうしん宿 ほりのうち
左 二十きおく□ 百人おく□ ぜんこうじ

と刻されているとおり、道しるべを兼ねている庚申塔で、当時この付近は草原で、道に迷う人が多かったために当地の山田、黒沢両氏によって建てられたものである。
 建立当時は、長谷寺方面から現在の青山通りに出るには、右へ行けば長者丸通りを経て、左へ行けば青山百人町を経て善光寺前へ出る道しかなく、この庚申塔も坂を上ってきて正面に見える方向に向いていた。
 60日に1度めぐってくる庚申の夜には、付近の人たちが山田氏宅に集まり、講の行事として庚申祭りを昭和の初期まで行っていた。
 昭和52年(1977)1月 東京都港区教育委員会


所在地 港区西麻布4-17-18

 内藤鳴雪が、旧麻布笄町のこの地に住んだのは、大正6年(1917)、71歳のときから没年の80歳までである。本名素行、松山藩士内藤同人の長男として、弘化4年(1847)、三田の松山藩江戸中屋敷に生まれ、11歳の時松山に帰り、藩校明教館で漢字を修め、後上京して昌平校に学んだ。
 文部省等の官吏歴任後、旧松山藩常盤会宿舎の監督となり、舎生であった正岡子規の影響を受けて、46歳から句作をはじめ、俳人として精進した。
 子規・高浜虚子中心の日本派最長老として「ホトトギス」をはじめ、多くの雑誌、新聞の俳句選者となり終始指導的役割を果たし、明治の俳句革新運動に大きな功績をのこした。古典的格調があり、平明温雅な句が多
い。
 
初冬の竹緑なり詩仙堂 鳴雪
 
  昭和53年(1978)1月 東京都港区教育委員会



所在地 港区六本木6-9 (六本木ヒルズ)

東京都指定旧跡
 毛利甲斐守邸跡
     昭和18年(1943)3月16日指定

 この地は、吉良邸討入りに加わった元赤穂藩士47人のうちの10人が預けられた長門長府藩毛利家麻布日ヶ窪上屋敷の一部である。中国地方の戦国大名毛利元就の孫に当たる秀元を初代とする毛利家は、現在の山口県下関市に藩庁を置いた外様大名(3万6千2百石)である。赤穂事件当時の3代藩主毛利綱元(1650~1709)は、56年間の在任中に家臣団の整備や財政の建て直しを図り、藩政を確立させるとともに、歌集『七石集』を著すなど、和漢の学に長じた名君として知られている。
 元禄15年(1702)12月15日、藩主毛利綱元は、家老田代要人を請取人として江戸詰藩士3百余人を大目付仙石伯耆守邸(現在の港区虎ノ門2丁目8)に遺わした。岡島八十右衛門常樹、吉田沢右衛門兼貞、武林唯七隆重、倉橋伝助武幸、間新六光風、村松喜兵衛秀直、杉野十兵次次房、勝田新左衛門武尭、前原伊助宗房、小野寺幸右衛門秀富の10人の日ヶ窪の江戸屋敷に収容された。
 元禄16年(1703)2月4日、幕府の裁きにより10人は、使番斉藤次左衛門利常(千7百石)、目付鈴木次郎左衛門福一(5百石)の立会いのもとに、この屋敷で武士の本懐を遂げた。この時、本藩である長州(萩)からも藩士が派遣されており、長府毛利家は、本来の保護を受ける立場であり、義士預りに慎重を期したことが伺える。



所在地 港区六本木6-16-46 (区立さくら坂公園)

 明治時代の軍人の典型とされる乃木将軍は、長府藩邸内の長屋で誕生しました。嘉永2年(1849)のことです。幼名は無人、成人して希典と言いました。
 この石碑は、昭和7年(1932)、かつての藩邸南西の隅に位置した北日ヶ窪児童遊園内に建立されましたが、このたび再開発事業により児童遊園周辺も整備されることとなり、北日ヶ窪児童遊園と六本木公園を統合して作られたこの公園に移設されました。
 移設 平成15年(2003)4月


所在地 港区元麻布3-10-5 (龍澤寺)

 江戸が東京都改称されてから、その行政区画の変遷は繁雑を極めた。
 明治11年(1878)7月22日、郡区町村編制法が発布され、11月2日には、芝・麻布・赤坂など15区と荏原などの6郡が置かれ、町村会、区会を開設することになったが、これは近代地方自治史上、画期的なことであった。
 これによって、明治6年(1873)12月以来、この龍澤寺の堂宇を借りて設置されていた第2大区12小区の区務所は、明治11年(1878)11月4日から、麻布区役所として開庁し、初代区長には前田利光が任命された。
 なお、芝区・麻布区・赤坂区は昭和22年(1947)3月15日、統合されて港区となった。
  昭和49年(1974)1月 東京都港区教育委員会



所在地 港区六本木5

 江戸時代のなかばまで、坂の東側に大名鳥居家の屋敷があった。元禄年間(1688~1703)ごろ開かれた道である。
  平成23年(2011)3月 港区



所在地 港区六本木5-11-16 (国際文化会館) 



 港区文化財(旧跡)
旧岩崎邸庭園
        平成17年(2005)10月25日指定
 


 現在の国際文化会館の庭園の前身は、昭和4年(1929)に三菱の4代目当主岩崎小弥太(1879~1945)が建設した岩崎家鳥居坂本邸の庭園です。この庭園は、京都の造園家「植治」の小川治兵衛の作庭によるものでした。「植治」の歴代当主小川治兵衛は数多くの庭園を作庭しており、近代日本作庭の先駆者として著名です。
 本庭園は、崖に面した南側と鳥居坂に面した東側に植栽が施され、その打つ側に池を設けた池泉回遊式の日本庭園であり、入口部の岩組なども優れています。また、昭和5年の岩崎邸実測平面図と比較しても、作庭当初の姿を大筋において残していることがわかります。
 岩崎邸は昭和20年(1945)5月の九州で焼失し、その後昭和30年(1955)には国際文化会館が建設されました。この建物は前川國男・吉村順三・坂倉準三の共同設計による戦後日本の優れた建築ですが、旧岩崎邸の庭園との調和を最大限に考慮する姿勢が認められます。
 本庭園は、近代日本庭園として優れたものであるととものい、国際文化会館と調和した景観を作り出している点からも高く評価されます。
  港区教育委員会 



多度津藩主京極壱岐守の江戸屋敷



所在地 港区麻布十番2 港区元麻布3


 樹木が暗いほどおい茂った坂であったという。以前の宮村(町)を通るため宮村坂ともいった。
  平成16年(2004)9月 港区


所在地 港区元麻布1 港区元麻布2


 源経基(みなもとのつねもと)などの伝説をもち、古来、植えつがれている一本松が、坂の南側にあるための名である。
  平成23年(2011)3月 港区


所在地 港区麻布十番2 港区元麻布1

 大国坂とも書く。坂の中腹、北側に大黒天(港区七福神のひとつ)をまつる大法寺があったために呼んだ坂名である。
  平成21年(2009)2月 港区


所在地 港区元麻布1-3-27

  一本松


江戸砂子によれば
天慶2年西紀939年ごろ六孫源経基平将門を征伏しての皈途此所に来り民家に宿す 宿の主粟飯を柏の葉に盛りさゝぐ翌日出立の時に京家の冠装束を松の木にかけて行ったので冠の松と云い又一本松とも云う
 注 古樹は明治9辰年焼失に付き植継
    昭和20年(1945)4月又焼失に付き植継



所在地 港区元麻布1-1-10 (大法寺)

港七福神
 大黒天
     麻布一本松大法寺



所在地 港区元麻布1-2-12 (賢崇寺)

 港区指定文化財(史跡)
肥前佐賀藩主鍋島家墓所
          昭和62年(1987)10月28日指定



 賢崇寺は、肥前佐賀藩主鍋島勝茂が、寛永12年(1635)疱瘡で死んだ嗣子忠直の菩提を弔うたまに忠直を開基として創建したお寺で、忠直の戒名「興国院殿敬英賢崇大居士」より、興国山賢崇寺と名づけられ、江戸における鍋島家の菩提寺となった。
 鍋島家墓所は、約千百㎡の範囲に画然として墓域を形成しており、開基忠直、初代勝茂、9代斉直、初代小城藩主元茂(忠直兄)とその夫人達など一族の五輪塔の墓が並んでいる。各墓へは、参拝用の門をもつ石造の格子状の垣を巡らして聖域を形作り、各門の前両側には石燈籠が配されている。門の扉は既に失われているが、江戸時代の有力な大名家の墓の形態をよく遺している。とくに、墓石のすべてが五輪塔に統一されていることは興味深い。
 勝茂の墓の裏には、勝茂の死に際して殉死した重臣たちの板石状の墓30基が整然と並んでいる。これは、殉死という江戸初期の武士の遺風を知るうえで貴重である。
 昭和62年(1987)10月28日 東京都港区教育委員会



所在地 港区元麻布1-5-17

 江戸幕府は、慶応元年(1865)4月から、プロシアの外交使節の宿舎として、芝日本榎の広岳院をあてていましたが、翌慶応2年(1866)3月、麻布仙台坂脇のこの場所にあった春桃院(現在は南麻布に移転)に移しました。
 神奈川(横浜)駐在のプロシア領事として来日していたマックス・フォン・ブラントは、慶応3年3月に日本駐在の代理公使に昇任し、江戸に出て幕府と交渉するとき、ここを宿舎とし、事務を執りました。そこで、ここが江戸におけるプロシア公使館となりました。
 公使館として使用された建物は、本堂続きの127坪(419.1㎡)および山寄りの51坪(168.3㎡)の建物であったという記録が残されています。
 昭和50年(1975)1月 (平成21年〔2009〕1月建替)
 港区教育委員会



所在地 港区南麻布3-1-15 (天真寺)

港区指定有形文化財(絵画)
 一の谷・屋島合戦図屏風
      昭和57年(1982)10月30日指定

港区指定有形文化財(絵画)
 絵本着色出山釈迦図
      平成17年(2005)10月25日指定

港区指定有形文化財(古文書)
 松平不昧・月潭書状
      昭和54年(1979)10月23日指定

港区指定有形文化財(歴史資料)
 大巓宗碩関係資料
      平成15年(2003)10月14日指定

港区有形文化財(歴史資料)
 大巓宗碩関係資料
      平成14年(2002)3月15日指定

港区指定文化財(歴史資料及び絵画)
 松平不昧関係遺品
      昭和58年(1983)10月18日指定
      平成15年(2003)10月14日追加

山道入口には『中山範士之碑』があります。


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