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東京都港区の歴史
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所在地 港区北青山3-3-16

 明治丗三年 我等の母校が此の地に建てられ大正を経て昭和十一年(1936)に至る丗六年の間、正大とまじめの校風のもとに師範学校および附属小学校から多くの人材を輩出した。
 母校は世田谷に移りなつかしい旧校舎は、やがて戦災を受け灰儘に帰して昔をしのぶ何物もなく、年とともに感慨に堪えない。
 学制頒布をみて百年 今や記念碑建設の念願がかない我等の喜びを後世に伝える。
 千九百七十二年十一月三日  
  東京府青山師範学校卒業生 同附属小学校卒業生
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所在地 港区北青山2-12-29 (海蔵寺)

 港区有形文化財(歴史資料)
海蔵寺の庚申塔
        平成7年(1995)3月27日指定



所在地 港区北青山1-7 

  御観兵榎
 この外苑の敷地は、もと陸軍の青山練兵場で、明治天皇の御台臨のもとにしばしば観兵式が行われ、なかでも明治23年(1890)2月11日の憲法発布観兵式や、明治39年(1906)4月30日の日露戦役凱旋観兵式などは、特に盛大でありました。聖徳記念絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)にその時の様子が描かれており、当時の盛儀が偲ばれます。明治天皇がご観兵される時は、いつもこの榎の西前方に御座所が設けられたので、この榎を「御観兵榎」と命名し永く保存しておりましたが、平成7年(1995)9月17日老令(樹齢200余年)の為台風12号余波の強風により倒木しました。遺木の一部は聖徳記念絵画館内に名木「ひとつばたご」の遺木と共に保存されております。
 平成8年(1996)1月、初代御観兵榎の自然実生木(推定樹齢60年)を苑内より移植し、「2代目御観兵榎」として植え継ぎました。
 平成8年(1996)1月吉日 明治神宮外苑



  「初代 御観兵榎」
 榎
にれ科えのき属、樹齢200余年と推定される。
 幹廻り、2.2メートル 高さ、9メートル
枝張り、16メートル
 碑石 
石材は伊豫(愛媛県)青石、天然石
 題字 
東郷平八郎書
明治38年(1905)日本開海戦においてロシアバルチック艦隊を壊滅させた、当時の連合艦隊司令長官 東郷神社の祭神

 


所在地 港区北青山1-7 (明治神宮外苑)

  明治神宮外苑之記碑
  石碑の題字 
「明治神宮外苑之記」
明治神宮奉賛会 総裁 閑院宮載仁親王殿下の篆書
  撰文
明治神宮奉賛会 会長 徳川家達
  石材
東北仙台産の板岩
高・地表4メートル 幅・1.8メートル 厚・0.36メートル


 
  碑文の大意
 明治45年(1912)7月30日に、明治天皇(第122代の天皇・今の天皇の曽祖父)、大正3年(1914)4月11日には、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)がお亡くなりになりました。これを伝え聞いた国民の間から、御二方の御神霊をお祀りして、御遺徳を永遠に追慕し、敬仰申し上げたいという機運が高まり、その真心が実って、大正9年(1920)11月1日、代々木の地に、明治神宮の御創建となったのであります。
 明治の時代は、日本の歴史を通じて、政治・経済・文化・スポーツ等の各方面において、驚くべき躍進を遂げ、近代国家としての基盤が確立されましたが、その原動力となられた天皇の偉大な御事蹟と御聖徳の数々を、永く後世に伝えたいものと、明治人外苑の造営が進められることになりました。
 これがため、明治神宮奉賛会が設けられ、天皇が御在世中、しばしば陸軍観兵式を行わせられ、又、御葬儀がとり行われた旧青山練兵場の現在地に、皇室の御下賜金をはじめとして、ひろく全国民の献金と、真心のこもった労働奉仕により、十余年の年月をかけて、大正15年(1926)10月に、明治神宮外苑は完成しました。
 苑内には、天皇・皇后御二方の御一代の御事蹟を、有名画家が描いた八十枚の大壁画が掲げられている白亜の殿堂、聖徳記念絵画館を中心に、野球場、競技場その他の多くの優れた運動施設が設けられ、御仁徳をお偲びしつつ、青少年の身心鍛錬の場として、或は遊歩を楽しむ人々の憩いの苑として、崇高森厳の気漲る内苑と相俟って造成されたもので、永く後世に残されるものであります。
 外苑造成工事全く成り、奉賛会より明治神宮に奉献するに当り、事情の概要を記し、後の世の人々に伝えるものであります。
 大正15年(1926)10月 明治神宮奉賛会 会長徳川家達


所在地 港区北青山2-1 (明治神宮外苑)

  銀杏並木
・いちょう(銀杏・公孫樹)
 銀杏は、現存する最も古い前世界の植物の1つです。地質学上、古生代の末期(1億5千年前、巨大の経yるうが棲息していた時代)に地球上にひろく分布し、生育していた樹種です。従って、その化石の発見は極地より南北両半球・中国・日本にまで及んでおります。氷河期の到来により、多くの地方では、銀杏樹は絶滅しましたが、温暖な気候を保ち得た中国では死滅を免れ、生育を続けて現在に至っております。
 日本の銀杏は、この中国より渡来した樹種で、現在では街路樹・防火樹・庭木としてひろく植えられており、「東京都の木」ともなっております。現在では東南アジア遺骸ではほとんど植えられておりません。
・並木の総本数は146本(雄木44本・雌木102本)



 4並列の銀杏の大木が作り出した、世界に誇り得る銀杏並木の景観。これを通し、正面に白亜の絵画館を望む人口自然美の素晴らしさ。若葉・青葉・黄葉・裸木と四季折々の美しさ。長年にわたる管理、手入れの良さが美事な樹形を作り出しております。
 この明治神宮外苑は大正15年(1926)10月22日の創建でありますが、その苑地造成に当り、青山通り正面からの直線主要道路は、左右舗道の両側に植樹帯を取り、銀杏樹をもって四条の並木を造成することになりました。
 これは、銀杏樹が、樹姿端正・樹高よろしく・緑量も豊富・気品高く・公害にも強く、威厳を保ちつつ年間を通しての来苑者に好景観を呈示し、外苑の広幅員街路の並木として最適なものとの考えによるものです。
 この外苑の銀杏樹が、この世に実生えたのは、造園界の泰斗・折下吉延博士(外苑造成時の庭園主任技師・昭和41年〔1966〕86歳で没)が、新宿御苑に奉職中の明治41年(1908)新宿御苑在来木の、銀杏樹から銀杏を採集し、これを種子として代々木の宮内省南豊島御料地内(現在の明治神宮内苑)の苗圃に蒔いたことによります。その後、苗圃の木々はすくすくと成長し、その数1600本にもなりました。
 外苑造苑に当り、この銀杏樹を採用することとなり、既に樹高6メートル内外に成長しいた、これら多数の中より候補樹を選抜し、更に並木として適格になるよう、年々樹形を整えてきたものを、大正12年(1923)に植栽したものです。
 直路四条の並木と、途中西折して女子学習院正門(現秩父宮ラグビー場)に至る二条の並木も同時に植えられております。最高24メートル・目通り周り2メートル80センチ、最低17メートル・目通り周り1メートル80センチのものを、樹高順に青山口より降り勾配に従って植えられております。絵画館を眺む見事な遠近法の活用です。

 昭和2年(1927)

 この銀杏が、苗圃で実生えてより実に八十有余年、外苑に植栽されてより早や70年、このように雄大に・見事な樹形を保ちつつ成長しております。銀杏樹は植生の環境、手入れが適当であれば、その成長量がいかに偉大であるかを、如実に物語っております。
 樹木の運命は、その立地の適不適によって決められるものでしょうが、よき所で、よく育てられ、よき場所に植えられた樹木ほど幸運なものはないでしょう。同じ時期に、おなじ苗圃で育てられてきた、これら多くの兄弟木は、世にも希なる幸運な樹木と言えましょう。今後幾百年、これら兄弟木の銀杏は生長に生長をつづけて老大成し、その偉大なる勇姿を発揮し、外苑々地と融和し、我々に美事な人工自然美を楽しませてくれることでしょう。
 平成御大礼の日 之を建つ 
 平成2年(1990)11月12日 明治神宮外苑


 
昭和63年(1988)


所在地 港区北青山3-5-17

  善光寺











 善光寺境内には『高野長英の碑』、『陸軍経理学校生徒隊慰霊碑』があります。

 


所在地 港区北青山3-5-17 (善光寺)

  高野長英の碑(1804-1850)
先生は岩手県水沢に生れ長崎でオランダ語と医学をおさめ西洋の科学と文化の進歩しておることを知り、発奮してこれらの学術を我国に早く広めようと貧苦の中に学徳を積んだ開国の先覚者であるその間に多くの門人を教え、又、訳書や著書八十餘を作ったが「夢物語」で幕府の疑いを受け遂に禁獄の身となり、47才で不幸な最後をとげた。最後の処は今の青山南町6丁目43の隠れ家で遺体の行方もわからなかったが明治31年先生に正四位が贈られたので、同郷人等が発起してこの寺に勝海舟の文の碑を建てた処、昭和戦災で大部分こわれた。よってここに残った元の碑の一部を保存し再建する。
 昭和39年(1964)10月



 To the memory of a learnedman,CHOEI TAKANO(1804-1850) who was born at Mizusawa in Iwate Prefecture,studied Dutch and Medicine at Nagasaki Seeing the progress of science and civilization in Europe souoght to diffuse the same throughout his own country.Though poor all his life,he was a pioneer eminent in learning and virtye who tried to open Japan to the world.He is the author of more than 80 books,especially "Yume-monogatari" (The Tale of My Dreams),for which he was put into prison.He died aged 47,in hideng at what is now 43,6 Chome,Minami-machi,Aoyama.Though his remains were never   found,on him was conferred the Senior Grade of the Forth Court Rank in 1893.His compatlots erected the monument with the inscription by Kaishu Katsu in the enclosure of this temple,but greater part of it was damaged during the War.This is a  new monument erected along side the remains of the old.
  October  1964 Aoyama Zenkoji


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