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東京都港区の歴史
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所在地 東京都港区虎ノ門1-2-7

東京都選定歴史的建造物
 虎ノ門金刀比羅宮
     設計者 伊東忠太   
     建築年 昭和26年(1951)



  御祭神 大物主神 崇徳天皇

 讃岐丸亀藩主の京極高和が領地・讃岐の金刀比羅大神を、万治3年(1660)に三田の江戸藩邸に邸内社として勧請、その後延宝7年(1679)に現在の地虎ノ門に移る。こんびら人気が高まった文化年間に京極家では毎月10日に限り一般の参詣を許し、大変賑わったといわれる。



 社殿は権現造りで、第二次世界大戦により焼失したが、拝殿、弊殿の部分は昭和26年(1951)に再建された。ともに総尾州檜造り、銅板葺きである。日本最初の建築史家、伊東忠太の設計校閲いよる建物で、我が国古来の建築技法が随所に用いられている。
 なお、弊殿の奥の本殿は、昭和58年(1983)に復興されたもので、鉄筋コンクリート造、銅板葺きとなっている。
  東京都生活文化局
 


 港区指定有形(建造物)
虎ノ門金刀比羅宮の銅鳥居
     平成13年(2001)10月23日指定



 港区登録有形民俗文化財
虎ノ門金刀比羅宮の百度石
     平成9年(1997)3月11日登録

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所在地 港区虎ノ門2

江戸時代中期以前には、海が眺望できた坂である。南側に松平大和守(幕末には川越藩)邸があって、大和坂ともいった。
                    平成20年(2008)6月






所在地 港区虎ノ門2-9-16 (日本消防会館)

 元禄のころ、このあたりに大目付、仙石伯耆守の屋敷があった。大目付とは老中の配下にあって政務を監督し、諸大名の行動を監察した役職である。
 元禄15年(1702)12月15日朝、大石良雄以下47名の赤穂浪士が本所吉良邸に討入り、主君浅野内匠頭の無念を晴らし武士の本懐を遂げた。
 吉良邸を引きあげて芝泉岳寺にある主君の墓前に向かう途中、大石良雄は部下2名の者を仙石伯耆守邸に差し向け自首させた。その際に両名の義士は邸内の井戸で洗足して座敷にあがったと言う。



 この史実をもとにこの井戸を作り、校正にあまねく伝承するものである。
 昭和56年(1981)11月吉日 財団法人日本消防協会


所在地 港区虎ノ門2-10・赤坂1-10

江戸時代のはじめ高輪の東禅寺が
嶺南庵としてここにあり、開山嶺南和尚の名をとったがいつしか嶺が霊となった。
 平成11年(1999)11月 港区


所在地 港区虎ノ門3-10-10 (栄閑院 猿寺)



 杉田玄白(1733~1817)は江戸中期の蘭方医、蘭学の祖である。若狭小浜藩の藩医過ぎた甫仙の子、名は翼、字は子鳳、号は鷧斎、九幸翁など。江戸に生まれ、西玄哲に外科、西幸作にオランダ外科を学んだ。前野良沢桂川甫周らとオランダ語解剖書を翻訳した『解体新書』は日本医学史上画期的な文献である。文化12年(1815)に脱稿した『蘭学事始』は『解体新書』翻訳の苦心談を回想した点で有名である。このほか「形影夜話」「野叟独語」などの著書がある。
 昭和43年(1968)3月1日建設 東京都教育委員会



所在地 港区虎ノ門5-10-14 (西久保八幡神社)

 港区虎ノ門飯倉交差点の北側にあたる台地の先端に西久保八幡神社があります。この社殿の裏手斜面に貝塚が形成されており、都心部に良好な状態でのこる貝塚と言えます。
 本貝塚が知られたのは昭和のはじめ頃に遡りますが、正式調査を経ぬまま今日にいたっていました。昭和57年(1982)度の都心部遺跡調査団による分布調査で存在が確認され、調査が行われました。
 台地の縁辺から斜面にかけて、縄文時代後期前葉から後葉にかけての混土貝層が二枚発見されました。また、貝層上には縄文時代晩期の遺物包含層、貝層下には縄文時代前期の遺物包含層が確認されています。調査範囲が狭いにもかかわらず、貝層からは縄文時代後期中葉の完形の精製浅鉢土器や精製深鉢土器、粗製深鉢時が数個出土しており、E・Sモースが発掘した品川区大井の国指定史跡大森貝塚出土品(重要文化財)との比較資料として重要です。
 平成22年(2010)3月  東京都教育委員会

      

         Nishikubo Hachiman Kaizuka
 It is in the beginning of the Showa Era that kitchen midden under this section became known,however,it had been dubjected to no academic excavations until very recently.The site was identified as is in the framework of inbestigation on destribution conducted in 1982 by the Central metropolitan area remains investigation group,subsequently new reseatches were conducted.
 2 layers of shells miwed with soil from an early to a late stage of the Late Jomon Period were found from edges to slope of the identified above the layers of shells,while a layer comprising relics from the Early Jomon Period below them.Although the range of investigation was limited,several fine-made shallow,fine-made deep and roughly made deep bowl-shaped clay vessels were excavated.These clay vessels are important as reference materials compared to excavated relics(Immportant Cultural Assets)from a state-designated historic site Omori kichen midden.
 Tokyo Metropolitan Board of Education


所在地 港区虎ノ門

江戸の中心部に市街がひらけて以来、その大半を眺望することができたために名づけられた坂である。
 平成23年(2011)1月  港区


所在地 港区虎ノ門3-10-8 (興昭院)

 知相山 興昭院

  港区有形民俗文化財
石造閻魔王像(こんにゃく閻魔)
        
    平成4年(1992)3月30日指定



 石造閻魔王像は、天保9年(1838)刊行の『東都歳事記』正月16日の条に『閻魔参り』として真向かいの栄立院の木造閻魔(現存せず)とともに記載されている。
 この閻魔は、眼病に霊験あらたかとして信仰され、祈願者の願いが成就した時には、そのお礼として「こんにゃく」を供えるならわしとなっていた。現在その風習は失われているが、当時の民間信仰を知る貴重な像である。
 像高はおよそ105cm、風化が進んでいるが、筍を持ち、上方に開いた方形の冠をつけ、口を開いた忿怒の相であることはわずかにうかがい知ることができる。
 平成4年(1992)3月30日 港区教育委員会


所在地 港区虎ノ門3-25-1 (光明寺)

港区指定文化財(旧跡)
 明和の大火死者供養墓
          平成22年(2010)10月27日指定

 明和9年(1772)2月29日の午後、目黒行人坂の大円寺より出火した火事は、強い西南の風に勢いを増し、麻布・芝から江戸城郭内・京橋・日本橋・神田・本郷・下谷・浅草などに延焼、千住まで達して、翌晦日の午後にようやく鎮火しました。いわゆる「目黒行人坂火事」で、明暦3年(1657)1月18日の「振袖火事」以来の江戸の大火であったといわれています。この火事で類焼した大名屋敷は169、町数は934、橋は170、寺は382にのぼったと記録にあります。死者は1万4700人、ほかに行方不明者も4000人を超えています。
 光明寺の過去帳によれば、境内の山の上に避難した男女90人が焼死し、寺の本堂・勝手・諸堂も残らず焼失したとあります。この供養墓は、この惨事に心を痛めた当時の住職が、焼死者の供養のために建立したものです。のちに墓は山の上から現在地に移されましたが、火災による惨事を現在まで記憶にとどめるものとして貴重です。
 平成22年(2010)10月27日  港区教育委員会



          焼死人の墓
 この墓は、明和9年(1772)の「明和の大火」で亡くなられた多くの方を偲んで、当時の住職が建立したものです。
 光明寺の過去帳に次の様に記載されています。
 「2月29日、朝方、南大風にて、目黒行人坂、浄土宗の寺より出火して千住まで焼失致し候、当寺本堂、勝手、諸堂残らず焼失つかまつり候、山上に焼死人の数、〆男女90年。
 寺社御奉行、土屋能登守殿、御見分なり。」



       光明寺と梅
 天承19年(1591)、徳川家康と親交のあった光明寺第17世住職証高が、境内の紅梅に和歌を添えて献上し、家康をたいそう喜ばせた。そのことを縁として、毎年正月の幕府への寺社献上の第一番として光明寺の梅が献上された。
 正保2年(1645)、3代将軍徳川家光が光明寺に立ち寄った際、家康が光明寺の梅を喜んだ故事を聞き、山号を梅上山と改めるよう命ぜられた。これにより、以後、梅上山光明寺と称するようになった。
 以上、 『寺社書上』 より抜粋


港区登録有形文化財(歴史資料)
 板碑
    平成7年(1995)3月27日指定

                                    天徳寺山門

所在地 港区虎ノ門3-13-6 (天徳寺)

 浄土宗
   光明山 和合院 天徳寺


                                     天徳寺本堂

 浄土宗江戸四ヶ寺触頭
江戸三十三観音霊場20番札所



港区指定有形文化財(絵画)
 阿弥陀三尊図(絹本着色)
             昭和62年(1987)10月28日指定

港区指定有形文化財(歴史資料)
 弥陀種子板碑
             昭和61年(1986)10月20日指定

境内には『
弥陀種子板碑』(港区文化財)、『河井荃廬墓』、『高芙蓉墓』があります。



所在地 港区虎ノ門3-13-6 (天徳寺)

   河井荃廬 明治4年(1871)~昭和20年(1945)
 初名は得、字は子得、のち名を仙郎と改む。別に蟫巣、九節丈人と號し、堂號を繼述堂、寶書龕といった。京都の人。篆刻は始め篠田芥津に就いて浙派の風を學び、ついで上海の呉昌碩に從學した。以後秦漢の古典から近代の鄧石如・呉譲之・趙之謙等を博渉融會して別幟を樹て、明治、大正、昭和の印壇に君臨した。その作風は高邁な識見と金石學の深い造詣に裏打ちされた高古な古典主義を特色とする。金石書畫の鑑識に精しく、著名な碑帖の將来、明清の書畫の審定紹介に先驅的な貢献を果たし、趙之謙藝術の發掘研究の第一人者でもある。中國文化界との交流も深く、西冷印社創設の發起人として盡力した。昭和20年(1945)3月10日の空襲に遭難、享年74。
   天徳寺

 

所在地 港区虎ノ門3-13-6 (天徳寺)

         高芙蓉  享保3年(1722)~天明4年(1784)
 名は孺皮、芙蓉と號した。堂號を菡萏居といい、冰壑山人、三嶽道者、中嶽畫史とも號した。姓は大島氏、逸記と通稱す。甲斐の人。父尤軒の業醫を厭って弱冠京都に遊學し、名流諸儒と訂交した。特に池大雅、柴野栗山、韓天壽、柳里恭等と心契の交を結び、詩書畫篆刻を善くし、經學國典に通じ、傍ら弓馬の技を修めた。
 篆刻は尤も力を用い、當時徐々に舶載された古銅印譜、明清名家の印譜に學んで、明末俗流の流行する我國篆壇に新風を吹き込み、寛綽高石の作風を樹立し、印聖と稱せられた。天明4年(1784)4月20日江戸に卒す。享年63。
 墓石は、池大雅、大典竺當、韓大年、初世藏六、稲毛直道、二世藏六等が結縁した名碑である。
   天徳寺



所在地 港区虎ノ門3-13-6 (天徳寺)

港区指定有形文化財(歴史資料)
 弥陀種子板碑
             昭和61年(1986)10月20日指定



 
 
 
 「板碑」は、鎌倉時代から戦国時代にかけて各地で造られた板状の石造物で、本来は先祖の供養など民間信仰によって立てられた塔婆の一種である。鎌倉時代には地方豪族や僧侶によって立てられたが、南北朝時代以後は庶民にまで広がり、その造立も民間信仰と密接に関連し、本来の仏教的色彩は薄れた。
 本板碑は、緑泥片岩(秩父青石)の一尊種子板碑で、高さ68cm、幅
29cm、頭部を山形に造り、その下に二段の切り込みを入れ、身部の幅は同等で変わらない。身部上半に蓮華座上に梵字「キリーク」(阿弥陀仏)を異字体で表し、下半には「永仁67月日」(西暦1298年)の銘を刻む。梵字が分断直截の薬研彫でやや浅く、年が草体で記されており、時代の特徴をよく示している。
 鎌倉時代の造立刻銘をもつ種子板碑の典型であり、港区内には稀少な存在である。
 昭和61年(1986)10月20日  東京都港区教育委員会


所在地 港区虎ノ門1-2-7 (虎ノ門金刀比羅宮)

 港区指定有形(建造物)
虎ノ門金刀比羅宮の銅鳥居
     平成13年(2001)10月23日指定



 この銅鳥居は、虎門外の讃岐丸亀藩京極家(約5万石の大名)の江戸屋敷に勧請された金毘羅宮(現金刀比羅宮)の鳥居です。文政4年(1821)10月に奉納された明神型鳥居で、「金刀比羅大神」の扁額が掲げられています。円柱には青竜・玄武・朱雀・白虎の霊鳥・霊獣が飾られ、下部には奉納関係者の名前が刻まれています。願主・世話人の多くは芝地域の商人と職人でしたが、江戸市中の地名・人名もみられます。
江戸出は諸藩邸の神仏を一般に公開し、賽銭収入も期待されていたようです。
 江戸庶民の信仰を反映したこの派手な鳥居は、当時の人々の宗教的・文化的活動の実態を示す貴重なものです。 
  港区教育委員会



所在地 港区虎ノ門1-2-7 (虎ノ門金刀比羅宮)

港区登録有形民俗文化財
虎ノ門金刀比羅宮の百度石
     平成9年(1997)3月11日登録



 百度石は、いわゆる「お百度参り」の際に用いられたもので、神殿とこの石の間を往復して願掛けをしました。願掛けの一種である「お百度参り」は、江戸時代に盛んに行われましたが、特に都市部に目立つ個人祈願の一形態で、その多くは病気治癒の願掛けであったといわれます。
正面に「百度石」、背面には「大願成就 願主□心道 元治元甲子年(1864)12月吉日」の銘があり、願がかなえられたお礼に建てられたものであることがわかります。
 こうした百度石が保存されているのは、区内では非常に珍しく貴重です。
 港区教育委員会


所在地 港区虎ノ門1-1-28先

『 虎ノ門遺跡 』  虎ノ門会
                   
          昭和二十七年九月建之



此地ハ往芳の虎ノ門の旧蹟なり乃ち慶長年間江戸城増築の砌りの内外廓三十六門の一として嵎伐負ふてハ笑ふ慴伏する虎ノ門乃名は全国■顕赫■■■滄葉變じて往時を偲ぶ一片の石すらここ又止め寸因って地元有志旧史を按じて慈こ斯石を鎮めて永く史蹟保存の意を表すと云ふ

昭和二十七年九月 町名改称三周年膺りて   
     虎ノ門会
                       青山 石勝 刻  



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