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東京都港区の歴史
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所在地 港区東麻布1-1-5 (心光寺)


港区登録有形民俗文化財
 お竹流し板
       平成5年(1993)3月23日指定

       お竹如来の縁起
 お堂にはお竹如来及び流し板をまつる
 寛永年間、江戸大伝馬町の名主佐久間勘解由家のところの下女お竹は荘内(山形県)出身にして生れつきいつくしみの心が深く、朝夕の自分の食事を貧しい人に施し、自らは水盤の隅に網を置いて、洗い流しの飯が溜ったものを食料としたという。信仰厚く常に念仏を怠らず、大往生をとげたというこの噺を聞いた5代将軍綱吉の生母桂昌院は、いたく心を動かされ、金欄の布に包まれた立派な箱にお竹さんが当時使った流し板をおさめて増上寺別院であった心光院に寄進され、その徳光を顕彰されたこのこと江戸名所図絵、三緑山志等に出つ。桂昌院御詠歌に
  ありがたや光と共に行く末は
      花のうてなにお竹大日
 一茶の俳句に
 雀子やお竹如来の流し元
 
雲の日やお竹如来の縄だすき
 また当時の浮世絵師春信 国芳 豊国ら多くの絵師によってお竹の姿が描かれた。なおこの御堂は秋田出身の神成志保氏の特志によって建立された。
 浄土宗 心光院
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所在地 港区東麻布1-22 (区立飯倉公園) 

港区登録文化財(旧跡)
 赤羽接遇所跡
             平成5年(1993)3月23日指定



 赤羽接遇所は、安政6年(1859)に、これまで講武所付属調練所であった地に設けられた外国人のための宿舎兼応接所である。同安政6年(1859)8月に作事奉行関出雲守行篤らによって建設された。
 黒の表門をもち、高い黒板塀で囲まれており、内部は間口十間、奥行二十間のものと、間口奥行各十間のものとの2棟の木造平屋家屋から成っていた。
 幕末にわが国を訪れたプロシアの使節オイレンブルグは、上陸後直ちにここを宿舎として日善修好通商条約を結び、またシーボルト父子やロシアの領事ゴシケビチなどもここに滞在し、幕末における外国人応接の舞台となった。
 昭和48年(1973)3月 東京都港区教育委員会



 飯倉という地名には、都内でも有数の古い由緒があって、歴史書「吾妻鏡」の寿永3年(1184)の条に源頼朝の寄附した土地として始めて現われる。そして集落は、それ以前の古代から確認され、穀倉あるいは芝公園の丸山にちなんで、飯倉の地名ができたといわれる。古くから街道筋となり、豪傑渡辺綱にかかわる伝説も生じた。
 室町時代には特に豊かだったと想像され、江戸時代にも四辻を中心に繁華で、付近には大名屋敷や、学者が住むので先生小路というところもあって、維新後は劇場ができたこともある。
 新町名は麻布台、東麻布に変わったが、今も公園や福祉会館などに飯倉の名を残している。なおこの飯倉公園は、戦後の区画整理事業によって建設されたものである。
  麻布地区総合支所地区活動推進課


所在地 港区芝浦1-11-16

港区指定有形文化財(建造物)
 旧協働会館
          平成21年(2009)10月27日指定



所在地 港区海岸3-14 (区立埠頭公園)

     南極探検について
 我が国で初めての南極探検は、明治43年(1910)白瀬矗(のぶ)隊長以下27名によるものです。
 まだ青く美しい海であったこの地芝浦を明治43年(1910)11月28日小帆船開南丸(204トン・野村直吉船長)にて出航し、70日あまりの後ニュージーランドのウェリントン港に入港しました。隊員の休息と燃料や水の補給をして明治44年(1911)2月11日同港を南氷洋に向け出航し、悪天候と戦いながら3月14日南緯74度16分に到達しました。この時南極圏は氷結期に入っていたのでそれ以上の前進は不可能であり、5月1日オーストラリアのシドニー港に回航しました。南極の夏を待つため6ヶ月あまりここに滞在して船の修理や食糧・防寒着等を整え、11月19日同港を出航し、明治45年(1912)1月16日南極大陸のホエール(鯨)湾に上陸しました。白瀬隊長以下5名は2台の犬ぞりで氷野を前進して苦難の末1月28日南緯80度5分、西経156度37分の地点に到達し、日章旗を立て、ここを「大和雪原」と命名しました。又、留守隊は沿岸の前人未踏の地域を探検しました。一行は天文気象等学術上多くの成果をあげ、6月20日全員元気に芝浦に帰港しました。



 この偉業を後世に伝えるため、25周年の出発記念日にあたる昭和11年(1936)11月28日にこの南極探検記念碑が建立されました。
 昭和59年(1984)10月東京都港区



          南極探検隊事蹟概要
明治43年(1910)11月28日南極探検隊長陸軍輜重兵中尉白瀬矗以下一行27名は204噸ノ小帆舩開南丸(元帥東卿平八郎命名)ニ搭乗シ舩長野村直吉是ヲ指揮シ當時ハ楢蒼海ナリシ此地黙ヲ抜錨シ一路南進ノ航程ヲ起シタリ狂瀾怒涛ヲ冒シ櫛風沐雨航走70餘日後ノ翌明治44年(1911)2月8日ニュージーランド、ウエリントン港ニ到着シ休息3日2月11日紀元節ノ佳晨ヲトシテ南氷洋ニ向ヒ難航更ニ50日3月14日南緯74度16分ニ到達シタリシモ既ニ南極圏内ハ結氷ノ時期ニ入リ前進不可能ナルヲ以テ一度背信スルノ止ムナキニ至リ5月1日濠洲シドニーニ回航シテ用舩ヲ修復シ再舉ノ準備ヲ整へ11月19日シドニー港ヲ解纜シテ第二次探検ノ途ニ上ル
明治45年(1912)1月16日南極大陸鯨湾頭ニ上陸シ白瀬隊長以下5名ノ突進隊ハ直南ノ氷野ヲ橇行シテ28日南緯80度5分西経156度37分ノ地黙ニ到達シ同地黙ヲ「大和雪原」ト命名シ日章旗を樹立シ学術エキ観測を終ヘテ同明治45年(1912)2月4日根■地鯨湾頭に歸還セリ 
又沿岸支隊ハ残餘ノ隊員ヲ以テ組織シ更ニ東航シテ同月23日エドワード7世洲ニ到達シ前人未到ノ地域ニ上陸シ海陸ノ探検ニ従事シタリ一行ハ此間「開南港」「大隈湾」「四人氷河」「したわし山」等二本男児ニ於テ最初ノ足跡ヲ南極地域ニ記録シ動物鉱物等ノ採集ヲナシ極地ニ於ける航海天文気象博物等ノ各学術上幾多ノ貢献ヲ遂ゲ6月20日此地黙ニ歸航シ祖國ヲ仰グ
按ズルニ往年欧米探検隊ノ列ニ入リテ日本男児ノ意気ヲ発揚シタル我南極探検隊ノ事蹟ハ最近米国南極探検家バード少将ニ依テ其足跡ヲ再確認サルヽアリ又近来本邦捕鯨舩ハ続々南氷洋ニ進出シ好成績ヲ示シツヽアリ往年ノ献身的努力ガ徒爾ナラザリシ證在タルヲ信ズ今茲25周年ノ出発記念日ヲ迎フルニ際シ此碑ヲ建立シ一ハ以テ壮烈勇敢ナル快挙ヲ後世ニ傳ヘ一ハ以テ後進青春ノ徒ニ探検思想鼓吹ノ指針タラシメント欲ス
 維時昭和11年(1936)11月28日
 南極探検25周年記念會
  総裁侯爵      大隈信常
  委員長文学博士  三宅雄二郎
   


     第一次並第二次南極探検隊参加者
隊長         白瀬矗     30才
学術部長      武田輝太郎  33才
衛生部長      三井所清造   34才
書記長          多田恵一     28才
秘書         村松進     26才
被服係        吉野義忠    23才
糧食係        西川源蔵    24才
賄長         渡邊近三郎  26才
輓犬係        山邊安之助  44才
輓犬係        花守信吉    33才
開南丸舩長      野村直吉     44才
一等運轉士      土屋友治     34才
機関長        清水光太郎   40才
三等運轉士     酒井兵太郎   44才
事務長       島義武       30才
水夫長       井上才次郎    31才
機関士       笹崎量平     27才
木工         安田伊三郎    32才
舵取         渡邊鬼太郎    29才
舵取         釜田儀作           27才
火夫         杉崎六五郎   36才
水夫         柴田兼治郎   20才
水夫         福島吉治     19才
     第一次南極探検隊参加者
一等運轉士    丹野善作    41才
舵取         佐藤市松    33才
火夫         高取壽美松    35才
賄係         三浦幸太郎   25才
     第二次南極探検隊参加者
学術部員      池田政吉    45才
写真部員      田泉保直    24才
見習運轉士     三宅幸彦    28才
火夫         濱崎三男作   28才
     南極探検後援会幹部
会長 侯爵     大隈重信
幹事 文学博士  三宅雄二郎
同           村上俊蔵
同           櫻井熊太郎
同           押川方義
同           池邊吉太郎
同           佐々木安五郎
同           田中弘之
事務長        堀内静学
主事         武見喜三
 
 この記念碑は、明治45年(1912)、白瀬矗中尉ら27人による我が国最初の南極大陸探検の壮挙を記念して、昭和11年(1936)に建てられたものです。
 その後、長い年月を経てペンギン像のくちばしや、つばさが損傷するなど、痛みが激しくなったため、港区が文化財を保存する立場から、その制作者である芸術院会員、彫刻家、故朝倉文夫先生の関係者に依頼し復元しました。
 昭和57年(1982)11月  東京都港区



「初代しらせ」特徴
主要寸法   134m×28m×14.5m×9.1m
          (長さ×幅×深さ×喫水)
最大速力   19ノット
          (1ノット=1海里=1.852km/h)
主機型式   ディーゼル電気推進
軸馬力     30.000馬力
乗員      本艦 約170名     観測隊員 約60名

「砕氷艦 初代しらせ」は1982年から2007年までの南極観測に使われました。1つのスクリュープロペラは4枚羽根構造となっています。



これは「砕氷艦 初代しらせ」のスクリュープロペラです。南極探検発祥の地を記念して海上自衛隊から港区へ貸与されました。
 平成21年(2009年)11月


所在地 港区港南4-5 (東京海洋大学)

長さ  136フィート 2インチ (41.2メートル)
幅   28フィート 6インチ (8.7メートル)
深さ  16フィート  7.5インチ (5.0メートル)
総トン数 444.25GT
3速成汽機303馬力・・・・・1基
汽缶・・・・・2基
搭載艇・・・・・6艇
最大搭載人員 81人(職員15人 部員26人 学生40人)
造船所 株式会社大阪鉄工所 桜島工場(1909年5月12日竣工)



 雲鷹丸は、東京水産大学の前身 農商務省水産講習所の第2代練習船である。初代練習船 快鷹丸(木造帆船 総トン数137.66トン)からその用務を引継ぎ、1909年5月30日出帆の第1次航海から1929年8月までほぼ20年間就航した。第33次航海を終了後に第3代練習船 白鷹丸(鋼製汽船 総トン数1,327.78トン)に実習航海を引継ぎ、当時の母校所在地であった越中島岸壁において係留練習船として学制の実習に供された。第二次世界大戦終了後の混乱期を経て、さらに学舎の移転等の諸事情により整備・管理が不十分なまま放置されていたが、昭和37年(1962)に喫水線上部の船体が現在の所在地に移設され、マスト・ヤード等の復元、船体及び整備等の補修が加えられ、現在に至っている。
 雲鷹丸の原型を再現するためには多くの補修及び整備が必要であるが、水産資料館に展示されている資料及び記録等が現役時代の英姿として参考に供することができよう。



 雲鷹丸は、学生の教育・実習を目的とした練習船であったが、試験操業、海洋調査等多目的の調査研究船としての機能をも兼ね備え、北洋及び南洋海域を含む広大かつ長期にわたる遠洋航海の航跡を残し、我国の水産業の発展・振興に多大なる貢献をした。これらの実績が評価され、現在この地に船体保存という形で継承されている。
 雲鷹丸で実習航海を修了した600余名の卒業生は、練磨された操船法・漁法のほか、基礎的な学理に基づく技術革新の知識を修得し、実社会に送り出された。そして彼らは、日本の漁業界を啓発主導し、幾多の功績をあげ、社会・産業の発展に大きく寄与した。また、搭載されて最高水準の漁撈及び観測機器による調査研究の成果は、海洋、漁場等に関する科学の基礎を確立するとともに、操船技術の革新、漁具、漁法の改良、開発等に活用された。また、船体構造、材料及び艤装仕様並びに運用要領等は、現在も貴重な海事史的価値として評価が高い。
 雲鷹丸は、1998年12月11日付けで文化財保護法の規定に基づく登録有形文化財に登録され、東京水産大学の教材・研究資料としてのみならず、国民全体の文化資産としてここに保存されることになった。


 
 登録有形文化財
〔登録番号第13-0042号 平成10年(1998)12月11日登録〕


所在地 港区高輪4-10-23 (高山稲荷神社)

 御祭神 宇迦御魂神(食物主宰産業神)
 例祭日 9月15日

高山稲荷神社は京都伏見稲荷大社の御分霊・正一位福聚稲荷大明神の御神霊を祭祀しております。往時の文献によれば今から凡そ500年前当地域に神社の建立を御勧請し神社を建立したと記されております。当時高輪の地形は小高い丘陵で社殿は二百数十段の石段の山峰に位置し山上の神社故高山神社と称されたと伝えられております。現在の社殿前方品川駅一帯は見晴らすかぎり海辺がつづき遠く房総方面より往き来する舟の目標となったものと記されております。



明治初期毛利公爵が当地に邸宅を構えるに及び同家より広大な敷地の寄進があり境内からの眺望は目を見張るものがあったと思われ明治天皇が京都より江戸への遷都に際して当所で御休息・御野立をなされたと伝えられております。
大正12年(1923)関東大震災後国道の拡張に伴い約15mの境内を失い参道も(旧参道は現在地北側約32m先の石畳道路に面しており南方へと向かって石段を昇った)現在の方位に移り増したが歴史の流れと共に社殿の損傷も著しく昭和の初期諸先輩の努力により高山神社奉賛会を設立し氏子一同の熱心なご協力により昭和6年(1931)9月吉日社殿の御造営を落成し現在の荘厳な新社殿を仰ぎ見るに至った。当社は古来高輪南町・下高輪町(旧中町)の鎮守の神として氏子町民の信望を集め毎年9月15日を期し賑やかに大祭の行事を執行致しております。
昭和63年(1988)に至り約60年間風雪に耐えた神社大鳥居並社殿内外の大改修の必要にせまられ茲に奉賛会会員並氏子一同の絶大なる御強力・御奉納により改修の完成を見るに至った。当神社は数百年来鎮守の神として氏子町民の守護神として信望を集め強いては全人類の平和と幸福を祈り国家の隆昌と子孫の繁栄に御加護下さる由緒ある神社です。
  昭和63年(1988)9月吉日建立 
          高山稲荷神社奉賛会



境内には『石燈籠(おしゃもじさま)(港区文化財)』があります。


History of The Takayama Shinto Shrine

  The Takayama Shinto Shrine was built at the end of 15th century on a hill near Shinagawa station.
There were some two hundred stone steps from the street up to the oratory.As the sea was just behind the station at that time the shrine was regarded as a landmark for ships.
  In the beginning  of the Meiji era(1868-1912)  it was moved to this site by Duke Mohri who contributed agood part of his land for the relocation of the shrine. It is said that Emperor Meiji once rasted here on his way from Kyoto to Tokyo. After a big earthquake in 1922 the shrine lost a parl of its grounds because of the expansion of an adjacent national road.
Later, in 1931, the oratory was rebuily by the parishoners.
  The god of The Takayama Shinto Shrine protects our neighbourhood, ensures our health and prosperity, and fosters peace throughout the world.


所在地 港区高輪4-10-23 (高山稲荷神社)

港区登録有形民俗文化財
 石燈籠(おしゃもじさま)
              平成6年(1994)3月22日指定

 「おしゃもじさま」は、縁結びの神として祀られているが、その名の由来はわかっていない。高輪の台地上にあった「石神社(別名『釈神社』)」が、高山稲荷神社に合祀されたもので、『江戸名所図会』によれば、石神横町(しゃくじんよこちょう)といわれていた。これを誤って里俗で「おしゃもじ横町」といったとされ、この名からつけられた名である可能性もある。
 このおしゃもじさまは、もとは切支丹燈籠で、一説には高輪海岸で処刑された外国人宣教師を供養するために建てられたといわれ、また海中より出土したともいわれる。切支丹の隠れ信仰があったことを物語る資料である。
  東京都港区教育委員会


所在地 港区高輪3 高輪4

 坂名の起源は伝わってない。ざくろの木があったためか、江戸時代はカギに曲がり、明治に直通して新坂と呼んだ。
  平成20年(2008)10月 港区


所在地 港区高輪4-1-18 (高輪ビル)

 巌谷小波宅邸跡碑
   昭和35年(1960)6月5日 日本童話協会他有志



所在地 港区高輪3丁目辺り 

港区登録文化財(旧跡)
 高縄原古戦場跡
 (高輪原古戦場跡)

              平成7年(1995)3月27日指定




所在地 港区高輪3-14-14 (光福寺)



港区登録有形民俗文化財
 ゆうれい地蔵
           平成4年(1992)3月30日指定



所在地 港区高輪3

 法螺坂・鯔坂とも書く。このへんの字(あざ)を洞村(ほらむら)と言った。洞村とは、昔ほら貝が出たとも、またくぼ地だから、洞という等様々な説がある。
 平成21年(2009)10月 港区


所在地 港区高輪3-16-16 (東禅寺)

港区指定有形文化財(絵画)
  羅漢図
      昭和58年(1983)10月18日指定

港区指定有形文化財(絵画)
  寒山拾得図(紙本墨画)
      平成元年(1989)10月25日指定

港区指定有形文化財(書跡)
  白隠彗鶴筆「金剛窟」(室号)
      平成22年(2010)10月27日指定

港区指定文化財(旧跡)
  大槻玄沢埋葬の地
      昭和58年(1983)10月18日指定



東禅寺は『最初のイギリス行使宿館跡』(都旧跡)です。


所在地 
港区高輪3-16-16 (東禅寺)

 都旧跡
最初のイギリス行使宿館跡
     昭和28年(1953)1月3日指定



 安政5年(1858)7月に締結された日英通商条約により、翌安政6年(1859)6月6日、イギリス初代公使オールコックらがここに駐在し、わが国最初のイギリス公使宿館となった。文久元年(1861)5月28日夜、水戸浪士の襲撃事件、文久2年(1862)5月29日夜警固士のイギリス人殺傷事件があったが、明治6年(1873)ごろまで使用された。
 当時、公使館に使用されたのは大玄関および書院と奥書院であったが、現在その一部である奥書院(5.4×9.0メートル)と玄関が旧時のままよく保存されており、その他は昭和初年(1926)に改築された。
 昭和44年(1969)10月1日建設 東京都教育委員会


所在地 港区高輪2-14-18 (高輪神社)







境内には『庚申塔』(港区文化財)、『力石』(港区文化財)があります。


所在地 港区高輪2-14-18 (高輪神社)

 港区登録有形文化財(歴史資料)
高輪神社の庚申塔
             平成6年(1994)3月22日登録


所在地 港区高輪2-14-18 (高輪神社)

港区登録有形民俗文化財
 高輪神社の力石
              平成9年(1997)3月11日指定

 社殿前の左右に一個ずつ置かれた力石です。力石は、腕力や体力を鍛えるために重い石を持ち上げて「力競べ」、あるいは「曲持ち」を行った際に使用した石で、江戸時代には、神社の祭礼などに奉納のため盛んに行われました。
 ひとつは「奉納」「五拾八貫目」「芝伊皿子町仁右衛門」「麻布□□町 喜三郎」の文字が刻まれた長径80センチメートル、短径46センチメートル、厚さ28センチメートルの安山岩製で、区内にある重量が刻まれた力石の中では最も重いものです。
 他のひとつは前者とほぼ同じ大きさですが、上部が一部剥落してます。「□拾貫目」「芝入横町 石右衛門」「芝田丁 岩右ヱ門」の文字が刻まれています。
 平成9年(1997)3月11日 港区教育委員会

 

所在地 港区南青山5-6-23 (青山スパイラル)

 都旧跡
高野長英隠れ家



ここは昔の青山百人町幕臣与力小島持ち家で質屋伊勢屋の離れ屋先生の隠れ家又最後の処である時は嘉永3年(1850)10月卅日夜であつたこの度青山善光寺の碑の再建に際しここを表彰する 1964年

This is the historic spot where CHOEI TAKANO hid himself on the night of October 30,1850(the third Year of Kaei).This was the detached house of Iseya,a pawnshop,owned in olden times by a Shogun's retainer at Hyakunincho,Aoyama.Here he concealed himself and breathed his last.
 October,1964


所在地 港区南麻布3-12

 古川を南に望む台地の端と斜面にあるとされる貝塚です。ハマグリ・サルボウなど海水産の貝殻からなる縄文時代前期の貝塚です。当時は海水がこのあたりまで入り込んでいたことを示しています。土器の形式としては黒浜式・諸磯式が多く出土しています。
 旧町名で本村町、今の南麻布3丁目の広い地域に広がっていたと考えられますが、近年の台地上の数ヶ所での試掘調査では、貝塚はまったく確認されていません。
 古川の谷を望む台地の南斜面で、日当たりもよく、原始・古代から生活の適地であったと考えられますが、現在では開発が進み、その痕跡をわざかながらも伝えるのはここだけになってしまいました。
 昭和48年(1973)3月 (平成19年〔2007〕8月立替)
 港区教育委員会


所在地 港区白金台5

 日糖坂ともいい、日東紡あるいは日本製糖の用地があったからと伝える。大正初年(1912)に開かれた坂と推定される。
 平成14年(2002)6月 港区


所在地 港区白金台3-17-5

誠滝山 妙圓寺(妙円寺)〔白金妙見〕


                                         御堂

山手七福神
  福禄寿
    寿老人
                                 


所在地 港区白金台2-12-30 (ハイクレスト白金台)

 三田上水は、江戸市街の拡大で増加した水の需要に応じるため、寛文4年(1664)に玉川上水の水を下北沢で分水したものです。
 中村八郎右衛門・磯野助六によって開かれたといわれ、代田、代々木、渋谷、目黒を経て現在の白金台、高輪、三田、芝地区に配水されました。享保7年(1772)に学舎室鳩巣の意見で本所(亀有)、青山、千川の各上水とともに廃止され、江戸の街を潤す水道は玉川上水、神田上水の両上水だけとなりました。しかし、三田上水は流域の村々の農業用水でもあったので、嘆願して廃止の翌々年から再び水を引くことを許され、三田用水と呼ばれて一宿十三ヵ村の用水として使用されました。
 当時の水道は自然に流れるだけでしたので、この付近では堤状に水路を残して通す工夫をしました。ほとんど失われてしまった三田用水路の貴重な遺構は、特に断面がわかるように残されています。また、水路の通っていた位置を示すための色違いのタイルを地上に並べて記念としています。
 昭和57年(1982)3月設置(平成19年〔2007〕2月立替)
 港区教育委員会 管理ハイクレスト白金台管理組合

                          大雄宝殿(だいおうほうでん)

所在地 港区白金台3-2-19 (瑞聖寺)

 禅宗 紫雲山 瑞聖寺

 山手七福神
  布袋尊

国指定重要文化財(建造物)
 瑞聖寺大雄宝殿
       通用門
一棟
          平成4年(1992)8月10日指定

 紫雲山瑞聖寺は、江戸で最初の黄檗宗の寺院で、寛文10年(1670)から建設に着手し、翌寛文11年(1671)諸堂が完成しました。創建伽藍は享保11年(1726)と延享2年(1745)の2回の火災で大きな被害を受けましたが、文化年間(1894~1818)に再び整備されました。
 大雄宝殿は黄檗宗寺院の中心的建物で、身舎の外側に裳階を廻らせ、身舎の屋根は入母屋造、本瓦葺で、寺格にふさわしい雄大な規模を持つ黄檗建築の仏殿です。棟札から宝暦7年(1757)の再建と推定され、その後、何度か修理が行なわれました。二重屋根の外観や細部意匠に黄檗建築の特徴を保ちながら、組物の簡略化、正面吹放部分の化粧軒裏天井、背面一間通りの吹放、内部の両脇に畳敷床を設けるなどの特徴があり、江戸市中に残された数少ない本格的仏堂建築と」して貴重な存在です。昭和60年(1985)から63年間にかけて解体修理が行われ、仏壇回りを除いて往時の雄大な姿が再現されています。
 紫雲山 瑞聖寺



港区指定有形文化財(絵画)
  涅槃図
        平成4年(1992)10月28日指定

港区指定有形文化財(絵画)
  涅槃図
        平成13年(2001)10月23日指定

港区指定有形文化財(彫刻)
 木造釈迦如来像阿難像・迦葉像
        昭和63年(1988)10月26日指定

港区指定有形文化財(書跡)
  瑞聖寺所蔵墨蹟
        平成2年(1990)10月24日指定

港区指定有形文化財(歴史資料)
  伝真柄直基所用 野郎頭兜
        平成9年(1997)10月14日指定

港区登録有形文化財(歴史資料)
  鉄牛禅師関係遺品
        平成13年(2001)2月14日指定


所在地 港区白金台

 今里村の地名のひとつである。その起源について特別の説は残っていない。
 平成20年(2008)10月 港区


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