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東京都港区の歴史
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所在地 港区虎ノ門1-1-28先

『 虎ノ門遺跡 』  虎ノ門会
                   
          昭和二十七年九月建之



此地ハ往芳の虎ノ門の旧蹟なり乃ち慶長年間江戸城増築の砌りの内外廓三十六門の一として嵎伐負ふてハ笑ふ慴伏する虎ノ門乃名は全国■顕赫■■■滄葉變じて往時を偲ぶ一片の石すらここ又止め寸因って地元有志旧史を按じて慈こ斯石を鎮めて永く史蹟保存の意を表すと云ふ

昭和二十七年九月 町名改称三周年膺りて   
     虎ノ門会
                       青山 石勝 刻  



所在地 港区三田4-19-15 (NTTデータ三田ビル)

 伊皿子貝塚は、NTTデータ三田ビルの建設に伴って大規模な発掘調査が行なわれ、明らかとなりました。
 伊皿子貝塚は、縄文時代後期(紀元前4,000年ぐらい~紀元前400年ぐらい)の保存状態の良い大規模なもので貴重な遺跡となっています。また、縄文時代だけでなく弥生時代(紀元前400年ぐらい~3世紀中頃)、古墳時代(3世紀後半~7世紀中頃)の住居跡など発掘されています。
 出土した土器などは、港郷土資料館に展示されている他、NTTデータ三田ビル北側丘の上にある区立三田台公園には、伊皿子貝塚遺跡で発見された縄文時代の住居跡が復元されていたり、貝塚の断面が展示されています。


所在地 港区白金台5-21-5

国指定天然記念物及び史跡
 旧白金御料地
     昭和24年(1949)4月12日指定

 白金教育園は、中世の時代に白金長者とよばれる豪族が館を構えたのがはじまりです。江戸時代は高松藩主松平讃岐守の下屋敷、明治時代は陸海軍の火薬庫、大正時代は白金御料地と移り変わり、昭和24年(1949)に国の「天然記念物及び史跡」に指定されるとともに国立自然教育園となりまいた。



所在地 港区高輪2-13-8

 ここに展示されている石は、江戸時代に、高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられたものです。
 平成7年(1995)、高輪2丁目20番地の区有施設建設用地内の遺跡の発掘調査で出土しました。
 石垣には、主に相模湾岸から伊豆半島周辺で採石された安山岩が用いられました。
 発掘調査では3段の石積みを確認しましたが、最上段は江戸時代の終わり頃に積みなおされたものと考えられます。正面の小ぶりの石が積み直されたものです。3段目から下の石垣は現地でそのまま保存されています。
 平成13年(2001)5月 港区教育委員会


東海道高輪風景 橋本貞秀画 文久2年(1862) 港区立みなと図書館所蔵


東都三十六景 高輪海岸
広重(歌川広重二代) 文久2年(1862)


所在地 港区高輪2・3

むかし蔦葛(つたかずら・桂は当て字)がはびこっていた。かつらをかぶった僧が品川からの帰途急死したからともいう。
 平成15年(2003年)3月 


所在地 港区白金台5-21-9 (東京都庭園美術館)

 東京都指定有形文化財(建造物)
  旧朝香宮邸
     平成5年(1993)3月22日指定

 朝香宮家の本邸として、昭和8年(1933)5月に竣工した建物である。一部内装の基本設計はフランスの装飾美術家アンリ・ラパンが担当し、実施設計は宮内省内匠寮工務課技師の権藤要吉らが分担して行った。
 建物の規模は地上2階(一部、中3階)、地下1階。建築面積1,048.29平方メートル。主体構造は鉄筋コンクリート造である。
 建物は昭和22年(1947)まで朝香宮の本邸として使われていたが、室内装飾には20世紀の始めの最も先進的で、最後の装飾芸術であったアール・デコ様式が随所に採用され、新鮮で華やかな意匠に満ちていた。
 現在は美術館として使用されたいるが、内部の改造は僅少でアール・デコ様式を正確に留め、昭和初期の東京における文化受容の様相をうかがうことができる貴重な歴史的建造物である。なお、室内のガラス装飾は装飾工芸家ルネ・ラリックの作品として有名である。
 東京都教育委員会


所在地 港区新橋3-16-3 (港区立生涯学習センター)

港区指定有形文化財(歴史資料)
 桜田学校設立奉賀帳
          平成16年(2004)10月26日指定





所在地 港区西新橋2-10-13 (南桜公園)

 南桜公園の周辺は、江戸時代には多くの大名屋敷があった場所で、幕末には老中の堀田正睦の中屋敷でした。江戸時代の大名屋敷地には、町名はなく明治5年(1872)に南佐久間町2丁目となり、その後の昭和7年(1932)に田村町3丁目と改称されました。現在の西新橋2丁目となったのは昭和47年(1972)のことです。
 また明治時代からこの一帯は、日本でもっとも早く西洋家具の製造が行われた場所であり、高級家具の『芝家具』の名で全国に知られていました。
 公園やこの周辺の『南桜』の名称は、江戸時代以前にこのあたりから北方に桜田村があったことから南桜といわれたようです。



 公園の設置は、昭和4年(1929)に関東大震災の帝都震災復興事業により小学校に隣接して開設され、昭和25年(1950)に東京都から港区に移管されました。その後、桜小学校の廃校などを経て、面積を拡大して都市計画決定された街区公園として、平成14年(2002)から再整備を開始しました。この公園の中には、かつての小学校の名残である、二宮尊徳像や石碑、石段などを移設し、サクラなどの大きな樹木を残してあります。
 「御府内往還其外沿革図書」から編成(文久2年〔1862〕)



所在地 港区西新橋3-14-3

真言宗智山派 鏡照院



 摂末社 末廣稲荷


所在地 港区東新橋2-17 (区立汐留西公園) 

   転車台基礎石
 明治5年(1872)9月12日、わが国の近代化の象徴ともいえる新橋と横浜を結ぶ鉄道が開業しました。「新橋停車場(新橋駅)は、日本最初の鉄道の始発駅であるとともに、その後全国へとレールを延ばした鉄道の歴史の始発駅でもありました。大正3年(1914)、東京駅の開業により、新橋駅は日本最大の貨物駅「汐留駅」として生まれ変わり、昭和61年(1986)、国鉄民営化に伴い廃止されるまで重要な貨物駅としてその役割を担ってきました。



 汐留地区の開発計画が進む中、平成3年(1991)から始められた地区の遺跡発掘調査によって、地中に駅舎の基礎である石積みと135mのホームが残されていることが明らかになるとともに、機関車方向転換用の転車台の基礎や構内にあった様々な施設の跡が次々と発見されました。この転車台の基礎は、現在の「ゆりかもめ」が新橋駅を発車してすぐにほぼ90度右に曲がる所の左手あたりで発掘されたものです。直径12.5mほどで、発掘された時は凝灰岩製の切石が三段に積み上げられ、底の面には排水用の溝がつけられたコンクリートが打たれていました。



 発掘された位置や規模から、転車台は明治4年(1871)12月23日に着工され、翌明治5年(1872)6月20日に竣工した開業当時の転車台に相当することがわかりました。この転車台は大正3年(1914)前後まで使用されたと考えられています。
 このたび、公園整備にあたり転車台基礎石の再利用について検討を行いましたが、大半は風化が進み使用に耐えないことが判明しました。このため、比較的風化の進んでいない最下段の切石のみを輪郭部に使用し、転車台の基礎の形状を再現したデザインとしました。
 日本の近代化を支えた遺産のひとつがここによみがえりました。


所在地 港区東新橋1-5-3 (旧新橋停車場)
 
   0哩標識
1870年4月25日(明治3年3月25日)、測量の起点となる第一杭がこの場所に打ち込まれました。1936年(昭和11年)に日本の鉄道発祥の地として0哩標識と約3mの軌道を復元しました。1958年(昭和33年)10月14日、旧国鉄によって『0哩標識』は鉄道記念物に指定され、1965年(昭和40年)5月12日、『旧新橋横浜間鉄道創設起点跡』として国の指定史跡に認定されました。


 
This spot is where the first stake was driben at the survey starting point on 25 April 1870.In 1936,the government railways reproduced Mile Marker Zero with a short section of the original track as the cirthplace of Japanese railways.The former Japanese National Railways (JNR) designated Mile Marker Zero as a Railway Mrmorial on 14 October 1958.On 12 May 1965,the government designated it as a national historic site called the Original Starting Point of the Former Shimbashi-Yokohama Railway.


所在地 港区東新橋1-5-3 (旧新橋停車場)

    プラットホーム Platform
 構造 Structure
プラットホームは「盛土式石積」という構造で作られています。両側面の真下には、溝状に地面を掘って基礎石を敷詰め、その上に切石を石垣のように積んで土留め壁が作られ、内側には土が詰められました。基礎石には龍野藩脇坂家・仙台藩伊達家両屋敷の礎石などが使われました。切石は笠石を含めて6段あり、地表には笠石を含めた上3段が出ていました。最下段部分は小口面を揃えて横に並ばせ、2段目から小口面と長手面を交互に並べて積んでいます。ただし、一律的に小口面と長手面が交互になっているわけではなく、2・3段目では小口面が続く個所もあり、4・5段目では長手面が並ぶ個所もあります。

The platform was built with a compacted earth retaining wall structure.A trench was dug directlybelow both plarform edges and filled with small river boulders.Coursesof cut stone were laid on top of this foundation to build retaining walls and the space between the two parallel walls was filled with compacted earth.Stone from the foundations of the abandoned on-site residences of Lord (daimyo) Wakisaka of the Tatsuno fief and Lord Date of the Sendai fief was recycled for use in the platform foundations.The platform walls were six courses of stone high including the capstones but only the top three courses were visible above ground.The lowest course is conposed entirely of header stones running at right angles to the row.Stretchers and headers are laid alternately from the second course.However,the regular alternation is sometimes ineonsistent-there are sections of continuous headers in the second and third courses,and sections of continuous stretchers in the fourth and fifth courses.

 規模 Size
プラットホームの全長は151.5m、幅は9.1mありました。再現されたのはそのうち駅舎よりの25mです。遺跡指定の範囲に残されているプラットホームの遺構は35mです。
The length of the unearthed platform is 151.5 meters with a width of 9.1 meters.The first 25 meters of the platform behind the station building have been reproduced.Another 10 meters of the original platform remains buried within the designated historic site.


所在地 港区東新橋1-5-3 (旧新橋停車場)

創業当時、枕木やレールの台座(チェアー)は小石や砂の混じった土を被せられ、レールの頭だけが地表に出ていました。レール断面は上下対照のI型で、双頭レールといいます。この復元軌道の半分は小石を被せて当時に近い状態を再現し、残りは枕木や台座が見えるようにしました。双頭レールは錬鉄製で、1873年にイギリスのダーリントンで作られ、官設鉄道使われたあと、新潟県柏崎市の製油所で使われたもので、新日本石油株式会社、新日本石油加工株式会社の両社からご寄贈いただきました。



The original track formed of symmetrical double-headed I-section wrought-iron rails secured to wooden sleepers by cairs and buried in a mixed ballast of sand,gravel,and earth.Unlike modern tracks,only the head of the rail appeared above ground level.The rails in this restoration were manufactured in Darlington in Great Britain in 1873.After use by the early governmant railways,they spent long years in service as industrial tracks in an oil refinery in Kashiwaaki City,Niigata Prefecture,before being generaously donated to this exhibition by Nippon Oil Corporation and Nippon Petroleum Processing Co.Ltd.


所在地 港区元赤坂2-2 (明治神宮外苑)
 
  明治記念館

ホームページ → http://www.meijikinenkan.gr.jp/

 明治記念館には『憲法記念館碑』があります。









所在地 港区元赤坂2-2 (明治神宮外苑 明治記念館

  憲法記念館碑
本館は元赤坂假皇居内に在りて帝国憲法制定の当時会議場として明治天皇を日ロ親臨あらせ給ひし御殿を■■其の後假皇居御取毀ち■をり之を当年枢密院議長た■し伊藤公■賜はりしかむ公■大井村各自邸に移し恩賜館■名■け■れしを明治神宮外苑造営■あ■り公爵伊藤博邦君より寄贈■■を此の地に移したるものなり
 大正15年(1926)7月 明治神宮奉賛会






所在地 港区北青山1-7 

  御観兵榎
 この外苑の敷地は、もと陸軍の青山練兵場で、明治天皇の御台臨のもとにしばしば観兵式が行われ、なかでも明治23年(1890)2月11日の憲法発布観兵式や、明治39年(1906)4月30日の日露戦役凱旋観兵式などは、特に盛大でありました。聖徳記念絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)にその時の様子が描かれており、当時の盛儀が偲ばれます。明治天皇がご観兵される時は、いつもこの榎の西前方に御座所が設けられたので、この榎を「御観兵榎」と命名し永く保存しておりましたが、平成7年(1995)9月17日老令(樹齢200余年)の為台風12号余波の強風により倒木しました。遺木の一部は聖徳記念絵画館内に名木「ひとつばたご」の遺木と共に保存されております。
 平成8年(1996)1月、初代御観兵榎の自然実生木(推定樹齢60年)を苑内より移植し、「2代目御観兵榎」として植え継ぎました。
 平成8年(1996)1月吉日 明治神宮外苑



  「初代 御観兵榎」
 榎
にれ科えのき属、樹齢200余年と推定される。
 幹廻り、2.2メートル 高さ、9メートル
枝張り、16メートル
 碑石 
石材は伊豫(愛媛県)青石、天然石
 題字 
東郷平八郎書
明治38年(1905)日本開海戦においてロシアバルチック艦隊を壊滅させた、当時の連合艦隊司令長官 東郷神社の祭神

 


所在地 港区北青山1-7 (明治神宮外苑)

  明治神宮外苑之記碑
  石碑の題字 
「明治神宮外苑之記」
明治神宮奉賛会 総裁 閑院宮載仁親王殿下の篆書
  撰文
明治神宮奉賛会 会長 徳川家達
  石材
東北仙台産の板岩
高・地表4メートル 幅・1.8メートル 厚・0.36メートル


 
  碑文の大意
 明治45年(1912)7月30日に、明治天皇(第122代の天皇・今の天皇の曽祖父)、大正3年(1914)4月11日には、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)がお亡くなりになりました。これを伝え聞いた国民の間から、御二方の御神霊をお祀りして、御遺徳を永遠に追慕し、敬仰申し上げたいという機運が高まり、その真心が実って、大正9年(1920)11月1日、代々木の地に、明治神宮の御創建となったのであります。
 明治の時代は、日本の歴史を通じて、政治・経済・文化・スポーツ等の各方面において、驚くべき躍進を遂げ、近代国家としての基盤が確立されましたが、その原動力となられた天皇の偉大な御事蹟と御聖徳の数々を、永く後世に伝えたいものと、明治人外苑の造営が進められることになりました。
 これがため、明治神宮奉賛会が設けられ、天皇が御在世中、しばしば陸軍観兵式を行わせられ、又、御葬儀がとり行われた旧青山練兵場の現在地に、皇室の御下賜金をはじめとして、ひろく全国民の献金と、真心のこもった労働奉仕により、十余年の年月をかけて、大正15年(1926)10月に、明治神宮外苑は完成しました。
 苑内には、天皇・皇后御二方の御一代の御事蹟を、有名画家が描いた八十枚の大壁画が掲げられている白亜の殿堂、聖徳記念絵画館を中心に、野球場、競技場その他の多くの優れた運動施設が設けられ、御仁徳をお偲びしつつ、青少年の身心鍛錬の場として、或は遊歩を楽しむ人々の憩いの苑として、崇高森厳の気漲る内苑と相俟って造成されたもので、永く後世に残されるものであります。
 外苑造成工事全く成り、奉賛会より明治神宮に奉献するに当り、事情の概要を記し、後の世の人々に伝えるものであります。
 大正15年(1926)10月 明治神宮奉賛会 会長徳川家達


所在地 港区北青山2-1 (明治神宮外苑)

  銀杏並木
・いちょう(銀杏・公孫樹)
 銀杏は、現存する最も古い前世界の植物の1つです。地質学上、古生代の末期(1億5千年前、巨大の経yるうが棲息していた時代)に地球上にひろく分布し、生育していた樹種です。従って、その化石の発見は極地より南北両半球・中国・日本にまで及んでおります。氷河期の到来により、多くの地方では、銀杏樹は絶滅しましたが、温暖な気候を保ち得た中国では死滅を免れ、生育を続けて現在に至っております。
 日本の銀杏は、この中国より渡来した樹種で、現在では街路樹・防火樹・庭木としてひろく植えられており、「東京都の木」ともなっております。現在では東南アジア遺骸ではほとんど植えられておりません。
・並木の総本数は146本(雄木44本・雌木102本)



 4並列の銀杏の大木が作り出した、世界に誇り得る銀杏並木の景観。これを通し、正面に白亜の絵画館を望む人口自然美の素晴らしさ。若葉・青葉・黄葉・裸木と四季折々の美しさ。長年にわたる管理、手入れの良さが美事な樹形を作り出しております。
 この明治神宮外苑は大正15年(1926)10月22日の創建でありますが、その苑地造成に当り、青山通り正面からの直線主要道路は、左右舗道の両側に植樹帯を取り、銀杏樹をもって四条の並木を造成することになりました。
 これは、銀杏樹が、樹姿端正・樹高よろしく・緑量も豊富・気品高く・公害にも強く、威厳を保ちつつ年間を通しての来苑者に好景観を呈示し、外苑の広幅員街路の並木として最適なものとの考えによるものです。
 この外苑の銀杏樹が、この世に実生えたのは、造園界の泰斗・折下吉延博士(外苑造成時の庭園主任技師・昭和41年〔1966〕86歳で没)が、新宿御苑に奉職中の明治41年(1908)新宿御苑在来木の、銀杏樹から銀杏を採集し、これを種子として代々木の宮内省南豊島御料地内(現在の明治神宮内苑)の苗圃に蒔いたことによります。その後、苗圃の木々はすくすくと成長し、その数1600本にもなりました。
 外苑造苑に当り、この銀杏樹を採用することとなり、既に樹高6メートル内外に成長しいた、これら多数の中より候補樹を選抜し、更に並木として適格になるよう、年々樹形を整えてきたものを、大正12年(1923)に植栽したものです。
 直路四条の並木と、途中西折して女子学習院正門(現秩父宮ラグビー場)に至る二条の並木も同時に植えられております。最高24メートル・目通り周り2メートル80センチ、最低17メートル・目通り周り1メートル80センチのものを、樹高順に青山口より降り勾配に従って植えられております。絵画館を眺む見事な遠近法の活用です。

 昭和2年(1927)

 この銀杏が、苗圃で実生えてより実に八十有余年、外苑に植栽されてより早や70年、このように雄大に・見事な樹形を保ちつつ成長しております。銀杏樹は植生の環境、手入れが適当であれば、その成長量がいかに偉大であるかを、如実に物語っております。
 樹木の運命は、その立地の適不適によって決められるものでしょうが、よき所で、よく育てられ、よき場所に植えられた樹木ほど幸運なものはないでしょう。同じ時期に、おなじ苗圃で育てられてきた、これら多くの兄弟木は、世にも希なる幸運な樹木と言えましょう。今後幾百年、これら兄弟木の銀杏は生長に生長をつづけて老大成し、その偉大なる勇姿を発揮し、外苑々地と融和し、我々に美事な人工自然美を楽しませてくれることでしょう。
 平成御大礼の日 之を建つ 
 平成2年(1990)11月12日 明治神宮外苑


 
昭和63年(1988)


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