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東京都港区の歴史
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所在地 港区東新橋1-5 

 この建物は、1872年(明治5年)10月14日(太陽暦)に開業した日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置に、できるだけ忠実に再現したものです。
新橋停車場駅舎は、アメリカ人 R・P・ブリジェンスの設計により、1871年(明治4年)5月に着工、1871年12月に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、鉄道開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向かって、偉容を誇っていました。
1914年(大正3年)、新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り、それまでの烏森駅が新橋の名を引き継いで現在の新橋駅となり、貨物専用駅となった旧駅は汐留駅と改称、物流の大拠点として戦前戦後を通じて東京の経済活動を支えました。
文明開化の象徴として親しまれた旧駅舎は、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災に際して火災のため焼失し、1934年(昭和9年)から始まった汐留駅改良工事のため、残存していたプラットホームや構内の諸施設も解体されました。
1986年(昭和61年)、汐留駅はその使命を終えて廃止され、跡地の再開発工事に先立つ埋蔵文化財の発掘調査が1991年(平成3年)から行われた結果、旧新橋停車場駅舎とプラットホームの一部の遺構が史跡『旧新橋停車場跡』として国の指定を受け、この史跡を保護しつつわが国鉄道発祥の往時を偲ぶために、駅舎を再建することになったものです。
 旧新橋停車場地内には『創業時の線路』、『プラットホーム』、『0哩標識』があり、近隣の区立汐留西公園
には『転車台基礎石』があります。



This building reproduces the external appearance of the first Shimbashi Stasion theTokyo terminus of Japan's first railway line opend on 14 October 1872,as faithfully as possible on its original site.The first station buildeng was designed by the American architect R.P.Bridgens(1819-1891).Construction started in May 1871 and was completed in December of the same year.Western-style buildings were still rare in Tokyo at that time,but the station's imposing design symbolized Japan's medernization in tandem with the westernied rebuilding of Ginza Dori soon after the opening of the railway.
The pssenger-terminal functions of Shimbashi Station were transferred to the new Tokyo Station when it was opened in 1914 and Shimbashi Station was renamed Shiodome Station and became a freight terminal.The Shimbashi Station name was transferred to Karasumori Station,which still remains as today's Shimbashi Station.In its new role as a freight terminal,Shiodome played a pivotal part in Japan's subsequent economic growth.
Unfortunately,the magnificent  old station building in Shiodome,which had symbolezed Japan's westernization movement during the Meiji period(1868-1912),was destroyed by fire follwing the Great Kanto Earthquake on 1 September 1923.Renovationo works in Shiodome freight terminal from 1934 onwards resulted in the demolition of the old remaining plartforms and original structures not destroyed by the 1923 fire.
Follwing the closure of Shiodome freight terminal in 1986,archaeological excavation in 1991 led to the discovery of the station site and the unearthing of the platforms and foundations of the first Shimbashi Station building.On 10 December 1996,the Japanese government designated the remains of the station building and part of the platform as the Old Shimbashi Station Historic Site.
This reproduction of the first station building has been built to conserve and display these historic remains and to commemorate the birthplace of reilways in Japan.
The dotted line shows the extent of the government-designated Old Shinbashi Station Historic Site.

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所在地 港区虎ノ門3-25-1 (光明寺)

港区指定文化財(旧跡)
 明和の大火死者供養墓
          平成22年(2010)10月27日指定

 明和9年(1772)2月29日の午後、目黒行人坂の大円寺より出火した火事は、強い西南の風に勢いを増し、麻布・芝から江戸城郭内・京橋・日本橋・神田・本郷・下谷・浅草などに延焼、千住まで達して、翌晦日の午後にようやく鎮火しました。いわゆる「目黒行人坂火事」で、明暦3年(1657)1月18日の「振袖火事」以来の江戸の大火であったといわれています。この火事で類焼した大名屋敷は169、町数は934、橋は170、寺は382にのぼったと記録にあります。死者は1万4700人、ほかに行方不明者も4000人を超えています。
 光明寺の過去帳によれば、境内の山の上に避難した男女90人が焼死し、寺の本堂・勝手・諸堂も残らず焼失したとあります。この供養墓は、この惨事に心を痛めた当時の住職が、焼死者の供養のために建立したものです。のちに墓は山の上から現在地に移されましたが、火災による惨事を現在まで記憶にとどめるものとして貴重です。
 平成22年(2010)10月27日  港区教育委員会



          焼死人の墓
 この墓は、明和9年(1772)の「明和の大火」で亡くなられた多くの方を偲んで、当時の住職が建立したものです。
 光明寺の過去帳に次の様に記載されています。
 「2月29日、朝方、南大風にて、目黒行人坂、浄土宗の寺より出火して千住まで焼失致し候、当寺本堂、勝手、諸堂残らず焼失つかまつり候、山上に焼死人の数、〆男女90年。
 寺社御奉行、土屋能登守殿、御見分なり。」



       光明寺と梅
 天承19年(1591)、徳川家康と親交のあった光明寺第17世住職証高が、境内の紅梅に和歌を添えて献上し、家康をたいそう喜ばせた。そのことを縁として、毎年正月の幕府への寺社献上の第一番として光明寺の梅が献上された。
 正保2年(1645)、3代将軍徳川家光が光明寺に立ち寄った際、家康が光明寺の梅を喜んだ故事を聞き、山号を梅上山と改めるよう命ぜられた。これにより、以後、梅上山光明寺と称するようになった。
 以上、 『寺社書上』 より抜粋


港区登録有形文化財(歴史資料)
 板碑
    平成7年(1995)3月27日指定

                                    天徳寺山門

所在地 港区虎ノ門3-13-6 (天徳寺)

 浄土宗
   光明山 和合院 天徳寺


                                     天徳寺本堂

 浄土宗江戸四ヶ寺触頭
江戸三十三観音霊場20番札所



港区指定有形文化財(絵画)
 阿弥陀三尊図(絹本着色)
             昭和62年(1987)10月28日指定

港区指定有形文化財(歴史資料)
 弥陀種子板碑
             昭和61年(1986)10月20日指定

境内には『
弥陀種子板碑』(港区文化財)、『河井荃廬墓』、『高芙蓉墓』があります。



所在地 港区虎ノ門3-13-6 (天徳寺)

   河井荃廬 明治4年(1871)~昭和20年(1945)
 初名は得、字は子得、のち名を仙郎と改む。別に蟫巣、九節丈人と號し、堂號を繼述堂、寶書龕といった。京都の人。篆刻は始め篠田芥津に就いて浙派の風を學び、ついで上海の呉昌碩に從學した。以後秦漢の古典から近代の鄧石如・呉譲之・趙之謙等を博渉融會して別幟を樹て、明治、大正、昭和の印壇に君臨した。その作風は高邁な識見と金石學の深い造詣に裏打ちされた高古な古典主義を特色とする。金石書畫の鑑識に精しく、著名な碑帖の將来、明清の書畫の審定紹介に先驅的な貢献を果たし、趙之謙藝術の發掘研究の第一人者でもある。中國文化界との交流も深く、西冷印社創設の發起人として盡力した。昭和20年(1945)3月10日の空襲に遭難、享年74。
   天徳寺

 

所在地 港区虎ノ門3-13-6 (天徳寺)

         高芙蓉  享保3年(1722)~天明4年(1784)
 名は孺皮、芙蓉と號した。堂號を菡萏居といい、冰壑山人、三嶽道者、中嶽畫史とも號した。姓は大島氏、逸記と通稱す。甲斐の人。父尤軒の業醫を厭って弱冠京都に遊學し、名流諸儒と訂交した。特に池大雅、柴野栗山、韓天壽、柳里恭等と心契の交を結び、詩書畫篆刻を善くし、經學國典に通じ、傍ら弓馬の技を修めた。
 篆刻は尤も力を用い、當時徐々に舶載された古銅印譜、明清名家の印譜に學んで、明末俗流の流行する我國篆壇に新風を吹き込み、寛綽高石の作風を樹立し、印聖と稱せられた。天明4年(1784)4月20日江戸に卒す。享年63。
 墓石は、池大雅、大典竺當、韓大年、初世藏六、稲毛直道、二世藏六等が結縁した名碑である。
   天徳寺



所在地 港区芝大門1-1-3 (日本赤十字社 本社)

 日本赤十字社(にっぽんせきじゅうじしゃ)は、昭和27年(1952)に制定された日本赤十字社法によって設立された特殊法人。前身は、明治10年(1877)西南の役の時、佐野常民が結成した博愛社である。
 博愛社は傷兵の救護事業を始め、明治19年(1886)に旧麹町区飯田町4丁目、現在のJR飯田橋駅近くに病院を建てました。その年、日本は国際赤十字条約に加入し、翌明治20年(1887)に博愛社は日本赤十字社と名を改めました。明治27年(1894)、甲武鉄道 飯田町駅を建設する為、近隣(千代田区飯田橋4-5辺り)に移転しましたが、大正元年(1912)にここ芝大門に移転してきました。


所在地 港区芝公園4-9-8 (妙定院)

国指定有形文化財(建造物)
 熊野堂(妙定院)
       平成13年(2001)11月20日指定



 寛政8年(1796)妙定院第3世定観上人により建立。熊野三社権現を祀る鎮守。2006年に境内南奥より解体修理移築。
  妙定院


所在地 港区芝公園4-9-8 (妙定院)

国登録有形文化財(建造物)
 浄土蔵(妙定院)
      平成13年(2001)11月20日指定



 文化8年(1811)妙定院第4世宝観上人により建立。妙定院の収蔵品を長く伝えてきた。2006年に境内南奥より解体修理移築。
   妙定院


所在地 港区芝公園4-9-8 (妙定院)

 お釈迦さまの足の裏の形(千幅輪相)を石に彫り、長らく拝まれてきた。側面には経典が刻まれている。定月大僧正百回忌(1870)に制作された。
  妙定院


所在地 港区芝公園4-9-8 (妙定院)

 港区有形文化財(彫刻)
銅造阿弥陀如来及両脇侍立像
             昭和61年(1986)10月20日指定
 
 本像は岩百合善光寺式三尊にあたる三尊一具像の遺例です。その祖形は信濃善光寺の根本仏として伝えられる像にあるとされ、欽明天皇13年(551)に百済からもたらされた長さ1尺5寸の阿弥陀如来と同一尺の観音・勢至菩薩で、金で鋳造された霊験像であるといいます。今日、善光寺本尊は秘仏ですが、之を模刻して崇める記録は平安時代後期からみられ、鎌倉時代のち模像の遺例はにわかに増えて各地に及び、その間細部の形式に異同も生じています。
 本像の像高は中尊が41.4cm、左脇侍30.7cm、右脇侍30.3cmで通例の法量を示しています。三尊とも銅鋳し鍍金を施しています。
 
 中尊は細面の長身に作られ、著しい伏目の面相は親しみやすく、江戸時代前期の作風を表しているのに比べ、両脇侍は肩を張った体躯と丸みのある頭部が形姿を整えており、制作年代は両脇侍がやや先行するものと思われます。このように本三尊像は一具同作とは認めがたいものですが、善光寺式三尊像の遺制をよく伝えた作例として、また三尊が均衡を得た構成を示している作例としても貴重です。
  港区教育委員会


所在地 港区芝公園4-9-8 (妙定院)

 港区有形文化財(絵画)
琴棋書画図屏風
       昭和61年(1986)10月20日指定

 古来、中国では、琴、棋、書、画の四芸を士大夫・教養人の嗜みとして尊重しました。わが国でも、ことに漢詩文学に傾倒し、隠逸を愛した五山僧の間にこれを習おうとするところが多く、絵画に表されたのは少なくとも室町時代初期にまで遡ることができます。以後、公武の愛好も得て、琴棋書画図は唐人物を描く際の画題として、江戸時代に至るまで長く制作され続けました。
 筆者の狩野探雪(1655~1714)は、幕府御用絵師として活躍した狩野探幽(1602~1674)のニ男です。父探幽は、探信、探雪の二子を深く愛したため、兄探信が鍛冶橋狩野家の家督を継ぐにあたっては、その所領を両分し、別に一家を立てたと言います。探雪も幕府の絵師として多くの仕事を行い、天和2年(1682)及び宝永6年(1709)の2度にわたって来日中の李氏朝鮮使節に贈る屏風を制作しています。本図は、父探幽の画風を忠実の祖述したもので、いかにも御用絵師らしい筆による謹厳な画面が作り上げられています。江戸初期における武家好みのアカデミックな狩野派様式を知るための貴重な作品です。
  港区教育委員会


所在地 港区芝2-25-6 (西応寺 みなと幼稚園) 

 安政5年(1858)7月に締結された日蘭通商条約により、翌安政6年(1859)年9月1日、オランダ公使宿館がこの西応寺に設置されました。使用されたのは、書院および庫裡2階などであり、初代公使クルチュウスらが駐在した。文久元年(1861)5月に異人宿手当85両とその他153両で、書院および庫裡などを修理した。しかし慶応3年(1867年)12月25日の薩摩藩邸襲撃事件の時、兵火によって全焼した。その後再建した建物も今次の戦災で全焼し、旧公使館と見られる場所は、現在、西応寺が経営する幼稚園になっている。
  昭和44年(1969)10月1日 東京都教育委員会



所在地 港区芝浦1-13

創建    昭和48年(1973)8月8日
御祭神仏 本佛釈尊
       芝浦妙法稲荷(旧竹芝稲荷、旧芝浦稲荷を合祀)        
御仏舎利 釈迦牟尼佛眞眞舎利



 昭和7年(1932)、東京倉庫運輸株式会社がこの地に進出の時、既にこの敷地の道幅に一本に太い柘榴の木と共にささやかに祀られた祠があった。
 その建設者も名称も縁起も不明のまま、管理者も不在であったので改築荘厳してお供物、お賽銭は絶えなかった。昭和46年(1971)、竹芝端の拡張に伴い倉庫の改装を余儀なくされ、この稲荷の祠も改築遷座されることとなった。この機会にそれまでの因縁を考え「芝浦妙法稲荷」と名付け、広く地元の皆さんに開放、地域の仕合わせと発展をご守護願うことになる。たまたま芝浦3丁目にあった芝浦稲荷が廃社になっており、「石造りのお社とお狐2体、灯篭2基、手洗い1基、敷石等一式を差し上げます。」との話を伝え聞き、地元住民の因縁を生かし社屋を竹芝橋稲荷に移築合祀することとし、芝浦全地域の氏神として復活した。
 竹芝橋稲荷は法華経有縁の稲荷であり、姫稲荷である。昔からの御神木は柘榴の木である。仏の金言に曰く「神は正直を以て頭となし、法華経を以って食となす」と。柘榴の木は鬼子母神のご神木として知られ、鬼子母神は十羅刹女と共に法華経有縁の神々の内の女神の代表である。故にこの稲荷のご本体は正に女神であり、法華経守護請願の鬼子母神かその一類であり、「妙法稲荷」の名称を冠す神意と感得する。かつて繁栄を誇った木挽町妙法稲荷は既になく、そのご本体は鉄砲州稲荷に移管又芝浦妙法稲荷も戦後一信者の家庭稲荷と化し、妙法稲荷の命脈正に絶えなんとする時、偶然にもこの地芝浦にその継承と復興が実現、妙法稲荷の本山となる。
 昭和57年(1982)8月、ブロンズ製金色の釈尊座像を祀り、神仏混交を具体的に表現。これ法華経見宝塔視なの宝塔湧現であり、日蓮御聖人のお曼陀羅本尊の実現である。
 次いで昭和62年(1987)5月、ネパール国スアワンプ・ヤート寺(通称目玉寺)のギャン・カジ・シャモヤ上人より東京倉庫運輸株式会社社長池田新一に対し御仏舎利守護のご加命あり、奉戴を機会に御仏舎利を奉安する。 合掌



御祭日  初午祭     2月午の日
      創建記念祭  8月8日
      月例祭     毎月8日


所在地 港区芝浦3-3 (JR田町駅芝浦口)

  放送記念碑
 ここは大正14年(1925)3月22日わが国最初の放送電波が発せられたゆかりの地です。
 東京放送局が、当時ここにあった東京高等工芸学校の図書室を仮放送所としてラジオ第一声を送り出しました。
 この放送発祥の地に、放送開始30周年を記念して「放送記念碑」を建立したものです。
 日本放送協会



  東京高等工芸学校の沿革
 本校は大正10年(1921)12月この地に創立されました。戦時下の昭和19年3月に東京工業専門学校と改称され、昭和20年(1945)5月戦災による校舎焼失のため、昭和20年(1945)10月千葉県松戸市に移転いたしました。昭和24年(1949)5月学制改革により千葉大学工芸学部として発足し、昭和26年(1951)4月工学部に改組され、昭和39年(1964)7月千葉市に移転し今日に至っております。
 平成3年(1991)12月創立70周年を記念し、ここに沿革をかかげました。
 平成4年(1992)7月吉日
 千葉大学工学部 千葉大学工学同窓会


所在地 港区芝4-15 (区立本芝公園)

港区登録文化財(旧跡)
 雑魚場跡
          平成5年(1993)3月23日登録



 この附近は、芝の中でも、古川川口の三角州に、江戸時代よりも昔から開けたところで本来の芝という意味で、本芝と呼ばれた。
 公園の位置は、東海道(現在の第一京浜国道)のうらあたりの海に面した砂浜で、江戸時代には、魚が水揚げされたため雑魚場と呼ばれた。人情話「芝浜の革財布」はこの土地が舞台である。
 明治5年(1872)に開通した鉄道は、軍部の意向で海上の堤防を走ったが、雑魚場はガード下から東京湾に通じていた。最後まで残っていた江戸時代の海岸線であったが、芝浦が明治の末からしだいに埋立てられ、漁業も行われなくなって海水が滞留したので、昭和43年(1968)に埋立てて、港区立、本芝公園として開園した。
 芝築総合支所協働推進課


                                 弘化3年(1846)


所在地 港区芝5-20-20

東京都指定旧跡
 水野監物邸跡
     昭和18年(1943)3月16日指定 

 この地は赤穂事件で、吉良邸討入りに加わった大石内蔵助良雄ら47人のうちの9人が預けられた三河岡崎藩水野家芝三田屋敷の一部である。水野家は、のちに天保の改革を主導する水野忠邦を輩出した譜代大名の名門の家柄で、水野監物忠之(1669~1731)は、第4代藩主である。元禄14年(1701)3月浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央に対する殿中刃傷事件の折りには、幕命により鉄砲洲の赤穂藩邸(中央区明石町の聖路加国際病院)に赴き混乱を防いだ。
 元禄15年(1702)12月15日元赤穂藩士たちのお預けが決まると、直ちに江戸詰藩士150余人と留守居小川九郎右衛門を請取人として千石伯耆守邸(港区虎ノ門2-8)に遣わした。間重治郎光興、奥田貞右衛門行高、矢頭右衛門七教兼、村松三太夫高直、増せ孫九郎正辰、茅野和助常成、横川甚平宗利、三村次郎左衛門包常、神崎與五郎則休の9人は、この屋敷へ収容された。翌元禄16年(1703)2月4日幕府の裁きにより9人は、この屋敷で自刃し、武士の本懐を遂げた。
 水野家は細川家とともに元赤穂藩士の取扱は丁重で世評もよく、「細川(越中守綱利)の水の(水野監物)流れは清けれど、ただ大海(毛利甲斐守綱元)の沖(松平隠岐守定直)ぞ濁れる」という落首がその状況をよく伝えている。
 平成13年(2001)3月31日設置 東京都教育委員会



所在地 港区芝5-28-4 (港郷土資料館)

タツノ式ガソリン計量機
 昭和4年(1929)製造の手動式ガソリン・スタンドです。都内の残された数少ないもののひとつで、旧赤坂区役所で使用されていたものです。

 


港区指定有形文化財(書跡)
 勝海舟書画巻
     平成19年(2007)10月23日指定

港区登録有形文化財(書跡)
 勝海舟書「氷川小学校
     平成14年(2002)1月31日登録

港区登録有形文化財(古文書)
 宇田川家文書
     平成7年(1995)3月27日登録
 久保家文書
     平成7年(1995)3月27日登録
 山本学校関係文書
     平成8年(1996)3月27日登録
 乃木家葬儀関係文書
     平成10年(1998)12月2日登録
 横山家文書
     平成11年(1999)2月1日登録

港区指定有形文化財(古記録)
 『芝新銭座町御高札物揚場諸事記録』
     平成9年(1997)10月14日指定
 弘化年間『屋舗五方相対替一件』記録
     平成10年(1998)10月8日指定
 善福寺出張中日記
     平成17年(2005)10月25日指定

港区指定有形文化財(考古資料)
 伊皿子貝塚遺跡出土遺物
     平成2年(1990)10月24日指定
 雁木坂上遺跡N地点出土遺物
     平成10年(1998)10月8日指定
 西久保八幡貝塚出土遺物
     平成12年(2000)10月24日指定

港区登録有形文化財(考古資料)
 伝亀塚出土 須恵器壷型土器
     平成9年(1997)3月11日登録
 旧芝離宮庭園遺跡出土遺物
     平成13年(2001)2月14日登録
 増上寺子院群光学院・貞松院跡
     平成14年(2002)1月31日登録

港区指定有形文化財(歴史資料)
 金杉町 焼印札
     平成7年(1995)9月26日指定
 弥陀三尊種子板碑
     平成12年(2000)10月24日指定
 古写真〈井関盛艮旧蔵コレクション〉
     平成13年(2001)10月23日指定
 官軍兵士軍服 付 外套・シャツ
     平成15年(2003)10月14日指定
 石製胞衣容器蓋 丹波篠山藩青山家中屋敷跡出土
     平成18年(2006)10月24日指定

港区登録有形文化財(歴史資料)
 三井家墓所出土資料
     平成6年(1994)3月22日登録
 近藤甫泉墓土資料
     平成6年(1994)3月22日登録

港区指定文化財(歴史資料及び有形民俗文化財)
 仙台藩伊達家胞衣桶 付 銅製外容器及び内容物一括
     平成10年(1998)10月8日指定

港区指定有形民俗文化財
 芝金杉の漁具
     平成4年(1992)10月28日指定
 浄瑠璃人形頭及び衣装
     平成14年(2002)10月28日指定


所在地 港区芝5-29-16 

 江戸時代のはじめ、ここに高札場が設けられて、布告法令などが掲示されたところから、札の辻と呼ぶようになりました。元和2年(1616)には、芝口門をここに建てて、江戸正面入口としての形式を整えました。この門は「日暮御門」といわれましたが、これはこの東がすぐ江戸湾に接し、海を隔てて房総の山々を望む、一日眺めてもあきない景色であったためといわれます。
 その後高札場は、天和3年(1683)に南方の高輪(後の大木戸の場所)に移されました。また、宝永7年(1710)に、芝口門は新橋北側に建替えられ、ここは「元札の辻」と呼ぶようになりましたが、明治維新後はまた「元」を略して「札の辻」と呼んでいます。
 昭和52年(1977)1月 (平成17年〔2005〕12月建替)
 港区教育委員会


  東海道 本芝札の辻 芳宗(歌川芳宗)文久3年(1863)


所在地 港区三田3-7 (住友不動産三田ツインビル)

 都指定旧跡
元和キリシタン遺跡
     昭和34年(1959)2月21日指定

 徳川3代将軍徳川家光が元和9年(1623)10月13日、江戸でキリシタンを処刑したことは徳川実紀によって知られている。処刑された者はエロニモ、デアンゼルス神父、シモン、遠甫、ガルウエス神父、原主水ら50人で、京都に通ずる東海道の入口にある丘が選ばれたと、パジェスの「日本キリシタン史」にあるが、その他は恐らくものと智福寺のあった西の丘の中腹の辺であろうと考えられる。その傍証としては智福寺開山一空上人略伝記にこの地が以前処刑地で長い間空地となっていたが、そこに寺を建てることは罪人が浮かばれると考えたとあることなどがあげられる。
 なお、寛永15年(1638)12月3日にも同じ場所でキリシタンらが処刑されている。
 昭和43年(1968)3月1日建設  東京都教育委員会



所在地 港区高輪2-19

都指定史跡
 高輪大木戸
     昭和3年(1928)2月7日指定



 高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永7年(1710)に芝口門にたてられてのが起源である。享保9年(1724)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永7年説・寛政4年(1729)など諸説がある。
 江戸の南の入口として、道幅約六間(約10メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止とし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。
 天保2年(1831)には、札の辻(現在の港区芝5-29-16)から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰・常盤橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外とともに江戸の六大高札場の一つであった。
 京上り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿にいたる海岸の景色もよく月見の名所でもあった。
 江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、海岸側に幅5.4メートル、長さ7.3メートル、高さ3.6メートルの石垣のみが残されている。
 四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。震災後「史蹟名勝天然記念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。
 平成5年(1993)3月31日 建設
 東京都教育委員会



所在地 港区高輪2-16-22 (願生寺) 

 港区指定有形文化財(歴史資料)
牛供養塔
  及び
 二千七百六十人之霊供養塔
          平成20年(2008)9月9日指定

 牛供養塔は、願生寺門前の車町の牛屋七家によって、牛供養のため元文3年(1738)に建立されたのをはじめとします。車町は属に牛町ともいい、江戸幕府が江戸城増築などの際に重量物の運搬をするために招いた京都牛町の牛屋をこのあたりに常住させていました。現在の塔正面に刻まれた「南無阿弥陀仏」の題字は江戸時代中期の高僧祐天上人(1637~1718)の書を写し刻んだもので、文政11年(1828)に建立されたものです。祐天は、将軍から庶民にいたるまで生き仏として尊敬された人物で、その功徳と願って筆跡を写し、建てられたものと思われます。
 二千七百六十人之霊供養塔は、元禄2年(1689)から文政13年(1830)3月15日までに無縁となった人々の霊の供養のために文政13年(1830)に建立された供養塔です。碑正面には牛供養塔と童謡に祐天承認の筆跡を写した「南無阿弥陀仏」の文字が彫られています。
 江戸出唯一の牛町の存在を伝える歴史資料として、また庶民の信仰を示す資料としても貴重といえます。
  港区教育委員会



所在地 港区高輪1-15

   指定 大正7年(1918)4月
 この地は、赤穂事件で大石内蔵助良雄ら17人が預けられた肥後熊本藩(54万石)細川越中守下屋敷の一部である。赤穂事件とは、元禄14年(1701)3月14日におこった殿中刃傷事件とその翌年元禄15年(1702)12月14日の夜から15日にかけての吉良邸討ち入り及びその処分など一連の事件をいう。当時の藩主5代綱利は、12月15日老中稲葉丹後守正往(下総佐倉藩主)から大石内蔵助外16人御預けの命を受けると、総勢875人に17挺の駕籠と予備として5挺の駕籠を用意させ、大目付仙石伯耆守久尚の屋敷に送った。引渡を受けたのは午後10時頃で、この地に到着したのは御膳2時過ぎであった。この様な大部隊を繰出したのは、藩の威武を示すとともに上杉家が親の仇たる46士を襲撃するかもしれないとの噂があったためである。細川綱利は、大藩の威力と識見を以て優遇し、御預四家のうちで即日引見したのは細川家だけであった。
 元禄16年(1703)2月4日午後2時、上使の御目付荒木十左衛門政羽と御使番久永内記信豊から切腹を申渡し、大石内蔵助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合に存じ奉り候」と礼を述べて御請した。家臣の中から介錯人を出すよう命ぜられた細川家は17人の切腹に17人の介錯人を選定した。切腹の場所は大書院舞台側、大書院上の間の前庭で、背後に池を負った位置である。切腹の座には畳3枚を敷き並べ(細川家以外は2枚)その上に木綿の大風呂敷を展べ、背後も左右も白の幔幕を張り廻らした。大石内蔵助は安場一平(子孫は明治維新に功有り男爵を授けられた)の介錯で切腹した。
 大石良雄外16人は、浅野家の菩提寺泉岳寺に葬られている。
 平成10年(1998)3月建設  東京都教育委員会



      赤穂義士史蹟碑
正義を愛し名節を重んずる者は暫くここに歩を停めよ
此処は徳川時代細川邸の跡 実に赤穂義士の総帥大石良雄等17名が元禄16年(1703)2月4日壮烈な死を遂げた現場である
 昭和35年(1960)3月20日
 社団法人中央義士会 東京都教育委員会

      自刃せる義士
大石内蔵助良雄     45
吉田忠左衛門兼亮    63
原惣右衛門元辰     56
片岡源五右衛門高房  37
間瀬久太夫正明     63
小野寺十内秀和     61
間喜兵衛光延       69
磯貝十郎左衛門正久  25
堀部彌兵衛金丸     77
近松勘六行重       34
富森助右衛門正因    34
塩田又之丞高教     35
早水富士左衛門光尭  40
赤垣源蔵重賢       35
奥田孫太夫重盛     57
矢田五郎右衛門助武  29
大石瀬左衛門信清    27   以上   


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