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東京都港区の歴史
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所在地 港区西麻布4-17-18

 内藤鳴雪が、旧麻布笄町のこの地に住んだのは、大正6年(1917)、71歳のときから没年の80歳までである。本名素行、松山藩士内藤同人の長男として、弘化4年(1847)、三田の松山藩江戸中屋敷に生まれ、11歳の時松山に帰り、藩校明教館で漢字を修め、後上京して昌平校に学んだ。
 文部省等の官吏歴任後、旧松山藩常盤会宿舎の監督となり、舎生であった正岡子規の影響を受けて、46歳から句作をはじめ、俳人として精進した。
 子規・高浜虚子中心の日本派最長老として「ホトトギス」をはじめ、多くの雑誌、新聞の俳句選者となり終始指導的役割を果たし、明治の俳句革新運動に大きな功績をのこした。古典的格調があり、平明温雅な句が多
い。
 
初冬の竹緑なり詩仙堂 鳴雪
 
  昭和53年(1978)1月 東京都港区教育委員会
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                                     長谷寺山門

所在地 港区西麻布2-21-34 (長谷寺)

大本山永平寺別院
 長谷寺


                                    長谷寺本堂
 
  麻布大観音
 当大本山永平寺別院長谷寺の十一面観世音菩薩は、昔から大和長谷寺・鎌倉長谷寺と同木同体のの日本三大長谷観音と称せられ、江戸時代の初めから東都一般民衆の信仰を集めておりましたが、惜しくも昭和20年(1945)の戦災で伽藍共々焼失いたしました。昭和52年(1977)、当時の監院職にあられた今の永平寺の丹羽禅師様が、格別のお努めをもって有縁の方々の合力を得、前後10年の歳月を閲して現在の麻布大観音及び大観音堂が再建されました。
 観音さまは、経に『一心にそのみ名を称せば、観世音菩薩は即時にその音声を観じて皆解脱することを得せしめん』とあるように、衆生救済の誓願を立て、慈悲の眼をもって衆生をを視、願いに応じて無量の福慧を与えたもう菩薩さまで、中で十一面観音さまは十一の面に人々の苦しみを救う力を秘めた観音さまであります。 
 御詠歌(江戸三十三ヵ所・第二十二番札所)
めぐり来てちかひぞあふぐふだらくの
       山もめぐみもふかきはせでら
・樟の一木彫、高さ三丈三尺(約十米)
・日本芸術院会員 大内青圃氏謹作

 
                    長谷寺観音堂                 麻布大観音


 境内墓地には『伊澤蘭軒墓』(港区文化財)、『黒田清輝墓・黒田清綱墓』、『井上馨墓』、『会津藩士墓』、『エノケン墓』、『坂本九墓』があります。


所在地 港区西麻布2-21-34 (長谷寺)

港区指定文化財(史跡)
  伊澤蘭軒墓
        昭和57年(1982)10月30日指定

 江戸時代後期の医師・文化人であり、とくに古書籍の考証に深い見識を示した伊澤信貞恬、号蘭軒は安永6年(1777)11月11日に江戸本郷で生まれました。儒学・医学・本草を学び、特に泉豊洲の塾では同窓に狩谷棭斎がおり、親交を結び、ともに考証学の道を歩みました。後に棭斎の孫女が蘭軒の子柏軒に嫁し、また柏軒の女が棭斎の養孫矩之に嫁し、姻戚関係をも重ねることとなりました。父信階のあとをうけて、備後福山藩主阿部氏の侍医となりましたが、足疾のため表医師にうつり、儒官を兼ねました。彼の校勘解題(古典の写本などを比べてその誤りや異同を調べ、できるだけ原本の)形を再現した解説書)の主なものとしては『医心方(いしんほう)』・『元板千金方(げんばんせんきんほう)』・『元板千金翼方(げんばんせんきんよくほう)』・『弘安本考経(こうあんぼんこうきょう)』とその跋(あとがき)が挙げられます。文政12年(1829)3月17日没。53歳。法名は芳桜軒自安心恬居士といいます。
 森鴎外は史伝小説『伊澤蘭軒』を執筆し、埋没していた蘭軒の業績を探し求め、明らかにしました。
  港区教育委員会

             黒田清綱・黒田清輝 顕彰碑(1989建立)

所在地 港区西麻布2-21-34 (長谷寺)

 
           黒田清輝(1866-1924)墓

 黒田清輝は慶応2年(1866)、黒田清兼の子として鹿児島に生れ、幼名を新太郎といいました。はじめ政治家を志し、フランスでは法律を学んでいるとき油絵を習い、山本芳翠に認められて絵画に専念することとなりました。帰国後、東京美術学校教授となり、その後天真道場を設立し、さらに白馬会を結成して後進を指導し、洋画壇に新風を送りこみました。晩年は帝国美術院院長となり、明治、大正にかけて美術界の長老として、美術行政に尽くすところが多くありました。
 麻布笄町の自邸で大正13年(1924)7月15日に没しました。
 おもな作品に「朝妝」「木苺」「昔語り」「湖畔」「舞妓」などがあります。
  昭和50年(1975)12月 港区教育委員会

慶応2年(1866)6月27日 薩摩藩士黒田清兼の子として鹿児島に生る    
 幼名新太郎 号水光明治4年伯父清綱の養嗣子
明治17年(1884)
 法律修学のためフランスへ留学 同地に於て性来の事故の資質に開眼し画学研究に転向 ラファエルコランに師事 研鑚を積み明治26年(1893)帰国 僚友久米桂一郎と天眞道場を興し清新な画風を伝う
明治29年(1896)
 東京美術学校に西洋画科創設を一任され初代教授として永く後進の指導に尽力し又美術団体白馬会を創立 洋画界に新風を送る
明治40年(1907)
 第一回文部省美術展覧会審査官
明治43年(1910)
 帝室技芸員
大正2年(1913)
 国民美術協会 会頭
大正6年(1917)
 子爵を襲爵
大正8年(1919)
 帝国美術院 会員 9年貴族院議員
大正11年(1922)
 帝国美術院 院長
大正13年(1924)
 永年の日佛交流の寄与に対し フランス政府より勲章を贈られる
 7月15日 麻布笄町にて逝去 59歳
 19日 長谷寺 黒田家墓地に葬る

 
          黒田清綱(1830-1917)墓
天保元年(1830)   
 薩摩藩御記録奉行 清直の長子として5月21日生 幼名新太郎
天保13年(1842)
 父死去 嘉右衛門清綱と改め嘉納と称す
嘉永4年(1851)
 史館見習を始めとし軍賦役兼使番用人兼町奉行 陸軍掛用人格兼軍賦役頭取
 側役会計奉行 参政等歴任
文久2年(1862)
 藩論統一の為 遠流の西郷赦免を請う
慶応2年(1866)
 幕府筑前在の五卿を関東へ移さんとするを決死 之を拒み守護
慶応3年(1867)
 藩主忠義公山口侯世子徳山侯世子会談の際西郷を倶に従い維新大業の大策を定む
明治3年(1870)
 戊申役山陰道鎭撫総督参謀として戦う
 太政官より東京滞在下命 東京府大惨事
 弾正小弼 文部小輔歴任
明治8年(1875)
 元老院議官
明治14年(1881)
 西郷の名誉恢腹を在大臣に請願
明治20年(1887)
 子爵を賜る 金鶏間仕候
明治33年(1900)
 枢密顧問官 従二位勲一等 旭日大綬章
明治42年(1909)
 宮中杖を賜る 
明治45年(1912)
  御歌所長 御■ 御歌拝覧
大正6年(1917)
 正二位 3月23日薨 88歳
 八田知紀翁の門下として歌道に親しみ、滝園社を結び 月次歌全等斯道に努む


所在地 港区西麻布2-21-34 (長谷寺)

 坂本九の歌う「上を向いて歩こう」はUSAで週刊ランキング1位を獲得した。日本を含めアジアの曲で、この曲以来1位になった歌は現れていない。私の実父が坂本九氏と生前会って話したことがあるそうだが、ものすごいエネルギーを放つ人物であったと話していた。やはり坂本九が歌ったから、USA1位の歌になったのであろうか。


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