忍者ブログ
東京都港区の歴史
[12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 

所在地 港区芝大門1-12-7 (芝大神宮)


港区登録有形文化財(歴史資料)
 芝大神宮の銅燈籠
     平成9年(1997)3月11日登録
PR


所在地 港区麻布永坂町と麻布狸穴町の間

 細長く狭い道を、江戸でねずみ坂と呼ぶふうがあった。一名鼬(いたち)坂で、上は植木坂につながる。
  平成18年(2006)6月 港区


所在地 港区麻布狸穴町と麻布台2の間

 まみとは雌ダヌキ・ムササビまたはアナグマの類で、昔その穴が坂下にあったという。採鉱の穴であったという説もある。
  平成19年(2007) 港区



所在地 港区六本木5

 坂の傾斜が途中でいったんゆるやかになって、また下ったので、顔のまん中の低いお多福面のようだと名づけられた。
  平成21年(2009)2月 港区


所在地 港区六本木5

 麻布台上から十番へ下る長い坂であったためにいう。長坂氏が付近に住んでいたともいうが、その確証はえられていない。
  平成5年(1993)10月 港区


所在地 東京都港区赤坂8-11-32 (旧乃木邸)

武士は 
 玉も黄金も 
   なにかせむ 
 いのちにかへて 
   名こそをしけれ
  
             希典


所在地 東京都港区赤坂8-11-32 (旧乃木邸) 

乃木大将夫妻
 瘞血之處(えいけつのところ)
   殉死された時の血のついた物を埋めるところ


所在地 港区六本木4-9-7先

第一回六本木祭の開催を記念して素材混凝土像毀損著しき為
再度 本郷新先生に懇請
新たに 青銅像として之を完成す。
 昭和50年(1975)5月9日
 六本木商店会々長 青野 次郎



 その昔、縁深い武蔵野の東南に年経た六株の松が聳える小高い丘があった その松はどこからでも見えたのでいつとはなしに人々はこの土地を六本木と呼び慣れ それがそのまま地名になったと言い伝えられる もとはわびしい叢に道行く人も稀であったが、寛永年間 佛寺五院が創立されるとその門前に商家も集い やがては瓦もいかめしい大名屋敷が立ち並ぶようになった 延宝から大正迄幾度となく行った道路拡張で交通が便利になると このあたり一帯は人馬の通いも繁くなり おのずから賑わいを増していった。そして明治の代 隣地に兵営が置かれるに及んで土地の繁栄は一層めざましくみなぎる活気のうちに昭和に入ると 山の手でも指折りの盛区に数えられれるようになった。 だが一方昔ながらの静かな趣はガス燈の青いかげにも残り六本木、三河台両町には都内での有数な高級住宅が営まれて華やかな商店街と映り合い色彩ゆたかな町としての誇りを見せていた。
 昭和20年(1945)5月22日 太平洋戦争の災禍はこの町をも見舞い美しい町並も樹も一夜のうちに灰燼に帰したが翌昭和21年(1946)戦災都市復興計画は、焼け朽ちた郷土をいたみその再建を夢見る町民の進んで協力するところとなりその熱意は麻布第一復興土地区画整理組合の結成となってあらわれた。そして子安英男を組合長として昭和22年(1947)6月より事業を開始したが当初は終戦直後の混乱期に当り町民の生活もゆらぎ勝ちで百年の大計を樹てようとする区画整理は遅々として進まなかった。しかし幸に関係者の撓ゆまぬ努力と理解或る町民の力強い援助によって苦しみを超えて歩んだ7年の歳月の流れは、今ここにようやくその事業の完成をもたらしたのである。
 この記念に 平和と協力とを象徴する本郷新氏の労作を請い得てこれを街角に見る喜びと共にこの地のささやかな歴史を併せて記し 後の世の人に伝える次第である。
 昭和29年(1954)4月
 麻布第一復興土地区画整理組合


所在地 港区元麻布1-6-21

浄土真宗本願寺派
麻布山 善福寺

ご本尊  阿弥陀如来



境内には『勅使門』、『ハリス記念碑(初代アメリカ合衆国公使館址)』、『逆さいちょう』、『開山堂』、『福澤諭吉墓』、『越路吹雪の碑』、『秩父宮妃の碑』、『柳の井戸』があります。


                   逆さいちょう


港区指定有形文化財(古記録)
 亜墨利加ミニストル旅宿記
       昭和56年(1981)10月24日指定


所在地 港区元麻布1-6-21 (善福寺)

     指定  大正15年(1926)10月20日
 イチョウ(銀杏・公孫樹)は、イチョウ科の落葉高木で、中国原産といわれている。雌雄異株で、神社や寺院の境内樹・公園樹・庭園樹・街路樹として広く植栽されている。4月に開花し、10月には種子(イチョウの実)は成熟して独特の臭気を放ち、黄葉する。
 この木は雄株で、幹の上部が既に損なわれているが、幹周りは10.4メートルあり、都内のイチョウの中で最大の巨樹である。樹令は750年以上と推定される。
 善福寺は、昭和20年(1945)の東京大空襲によって本堂が全焼した際、このイチョウの木にもかなり被害があったが、いまなお往時の偉観をうかがうことができる。
 根がせり上がって、枝先が下に伸びているところから『逆さイチョウ』ともいわれ、また、親鸞聖人が地に差した杖から成長したとの伝説から『杖イチョウ』の別名もある。
 平成2年(1990)12月27日建設 東京都教育委員会



  Giant Ginkgo-Tree of Zempukuji
 The empukuji Temple,founded in 824 by Kobo Daishi (founder of the Shingon Sect of Buddhism),was converted in 1232 to a sanctuary of the Hodo-Shinshu Sect,as the abbot of the temple,Saint Ryokai,became the follower of Shinran-Shonin,the founder of that sect.This sect claims salvation by faith in Amitabha,who is invoked by the prayer formula Namu-Amida-Butsu.
 The legend goes that on leaving the temple after teaching Abbot Ryokai the doctrines of his sect,Shinran shonin put down his sraff in the ground,saying that such was the manner in which the prayer formula was to be propagated and the manner in which the common mortal would come to his end.Soon the staff began to put forth buds and spread branched,finally growing into a stately ginkgo-tree.In1926 the tree was designated a "Natural MOnument"by the Government.Itmeasures nearly 10 meters in girth and 20 meters in height,perhaps it's the oldest of its kind in Tokyo,although its trunk was burnt and broken by an incendiary bomb toward the end of the last war.
(Erected in 1979 by theTokyoMetropolitan Board of Education)



所在地 港区元麻布1-6-21 (善福寺)

 開山堂ははじめ新婚集の蔵王権現として開かれたもので、古く麻布郷の鎮守であったと伝える。
 親鸞聖人のお立寄りによって浄土真宗に改宗した中興開山了海上人は、蔵王権現の申し子として大井(現、品川区)に生まれ、この像が堂内に安置されることになった。かつては堂前でさまざまな行事も行われていたが、戦災焼失後再建されて、今は唐京都の有形文化財となった。
 像とともに港区の有形文化財である、秀吉朱印状他の貴重な寺歴を物語る古文書等が収蔵されている。
   善福寺


所在地 港区元麻布1-6-21 (善福寺)

 当山の中門は古くから勅使門と呼ばれ、伝承によれば、文永の役(1274)で亀山天皇の勅使寺となったとき以来の命名とされている。
 寺院の門として最も重要な位置にあり、幕末のアンベール著の絵入り日本誌等に、その形が描写されていた。
 当時の火災は免れたものの、昭和20年(1945)5月25日戦災を受けて焼失し、昭和55年(1980)11月5日の再建によって、現在の形を再び現わした。
  善福寺



所在地 港区元麻布1-6-20先 (善福寺参道)

 自然に地下から涌き出る清水である。
 東京の市街地ではこのような泉が比較的少ないためか、古くから有名で、弘法大師が鹿島の神に祈願をこめ、手に持っていた鍚杖を地面に突きたてたところ、たちまち噴出したものだとか、ある聖人が柳の枝を用いて掘ったものであるとか、信仰的な伝説が語りつがれてきた。
 とくに現在のわれわれとしては、大正12年(1923)の関東大震災や昭和20年(1945)の空襲により大火災の際に、この良質な水がどれほど一般区民の困苦を救ったかを心にとどめ、保存と利用にいっそうの関心をはらうべきものと思われる。
 昭和49年(1974)1月 東京都港区教育委員会



忍者ブログ [PR]
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
永山
性別:
男性