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東京都港区の歴史
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所在地 港区東麻布1-1-5 (心光寺)


港区登録有形民俗文化財
 お竹流し板
       平成5年(1993)3月23日指定

       お竹如来の縁起
 お堂にはお竹如来及び流し板をまつる
 寛永年間、江戸大伝馬町の名主佐久間勘解由家のところの下女お竹は荘内(山形県)出身にして生れつきいつくしみの心が深く、朝夕の自分の食事を貧しい人に施し、自らは水盤の隅に網を置いて、洗い流しの飯が溜ったものを食料としたという。信仰厚く常に念仏を怠らず、大往生をとげたというこの噺を聞いた5代将軍綱吉の生母桂昌院は、いたく心を動かされ、金欄の布に包まれた立派な箱にお竹さんが当時使った流し板をおさめて増上寺別院であった心光院に寄進され、その徳光を顕彰されたこのこと江戸名所図絵、三緑山志等に出つ。桂昌院御詠歌に
  ありがたや光と共に行く末は
      花のうてなにお竹大日
 一茶の俳句に
 雀子やお竹如来の流し元
 
雲の日やお竹如来の縄だすき
 また当時の浮世絵師春信 国芳 豊国ら多くの絵師によってお竹の姿が描かれた。なおこの御堂は秋田出身の神成志保氏の特志によって建立された。
 浄土宗 心光院


所在地 港区東麻布1-22 (区立飯倉公園) 

港区登録文化財(旧跡)
 赤羽接遇所跡
             平成5年(1993)3月23日指定



 赤羽接遇所は、安政6年(1859)に、これまで講武所付属調練所であった地に設けられた外国人のための宿舎兼応接所である。同安政6年(1859)8月に作事奉行関出雲守行篤らによって建設された。
 黒の表門をもち、高い黒板塀で囲まれており、内部は間口十間、奥行二十間のものと、間口奥行各十間のものとの2棟の木造平屋家屋から成っていた。
 幕末にわが国を訪れたプロシアの使節オイレンブルグは、上陸後直ちにここを宿舎として日善修好通商条約を結び、またシーボルト父子やロシアの領事ゴシケビチなどもここに滞在し、幕末における外国人応接の舞台となった。
 昭和48年(1973)3月 東京都港区教育委員会



 飯倉という地名には、都内でも有数の古い由緒があって、歴史書「吾妻鏡」の寿永3年(1184)の条に源頼朝の寄附した土地として始めて現われる。そして集落は、それ以前の古代から確認され、穀倉あるいは芝公園の丸山にちなんで、飯倉の地名ができたといわれる。古くから街道筋となり、豪傑渡辺綱にかかわる伝説も生じた。
 室町時代には特に豊かだったと想像され、江戸時代にも四辻を中心に繁華で、付近には大名屋敷や、学者が住むので先生小路というところもあって、維新後は劇場ができたこともある。
 新町名は麻布台、東麻布に変わったが、今も公園や福祉会館などに飯倉の名を残している。なおこの飯倉公園は、戦後の区画整理事業によって建設されたものである。
  麻布地区総合支所地区活動推進課


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