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東京都港区の歴史
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所在 東京都港区六本木3-2 ~ 六本木3-4

 流垂・奈太礼・長垂などと書いた。土崩れがあったためか。幸国(寺)坂、市兵衛坂別名もあった。

  平成22年(2010)5月 港区

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所在 東京都港区六本木3-5 ~ 六本木3-6

 元和年間(1615年~1623年)旗本岡部丹波守の屋敷ができ坂下を丹波谷といった。明治初年この坂を開き、谷の名から坂の名称とした。

 平成9年(1997)9月 港区


所在地 港区六本木2・港区赤坂2

江戸時代初期に南部家中屋敷があったためといい「忠臣蔵」でゆうめいである。のち険しいため難歩坂とも書いた。
 平成20年(2008)2月 港区





昭和45年(1970)11月8日 永■太道 建立



所在地 港区六本木6-9 (六本木ヒルズ)

東京都指定旧跡
 毛利甲斐守邸跡
     昭和18年(1943)3月16日指定

 この地は、吉良邸討入りに加わった元赤穂藩士47人のうちの10人が預けられた長門長府藩毛利家麻布日ヶ窪上屋敷の一部である。中国地方の戦国大名毛利元就の孫に当たる秀元を初代とする毛利家は、現在の山口県下関市に藩庁を置いた外様大名(3万6千2百石)である。赤穂事件当時の3代藩主毛利綱元(1650~1709)は、56年間の在任中に家臣団の整備や財政の建て直しを図り、藩政を確立させるとともに、歌集『七石集』を著すなど、和漢の学に長じた名君として知られている。
 元禄15年(1702)12月15日、藩主毛利綱元は、家老田代要人を請取人として江戸詰藩士3百余人を大目付仙石伯耆守邸(現在の港区虎ノ門2丁目8)に遺わした。岡島八十右衛門常樹、吉田沢右衛門兼貞、武林唯七隆重、倉橋伝助武幸、間新六光風、村松喜兵衛秀直、杉野十兵次次房、勝田新左衛門武尭、前原伊助宗房、小野寺幸右衛門秀富の10人の日ヶ窪の江戸屋敷に収容された。
 元禄16年(1703)2月4日、幕府の裁きにより10人は、使番斉藤次左衛門利常(千7百石)、目付鈴木次郎左衛門福一(5百石)の立会いのもとに、この屋敷で武士の本懐を遂げた。この時、本藩である長州(萩)からも藩士が派遣されており、長府毛利家は、本来の保護を受ける立場であり、義士預りに慎重を期したことが伺える。



所在地 港区六本木6-16-46 (区立さくら坂公園)

 明治時代の軍人の典型とされる乃木将軍は、長府藩邸内の長屋で誕生しました。嘉永2年(1849)のことです。幼名は無人、成人して希典と言いました。
 この石碑は、昭和7年(1932)、かつての藩邸南西の隅に位置した北日ヶ窪児童遊園内に建立されましたが、このたび再開発事業により児童遊園周辺も整備されることとなり、北日ヶ窪児童遊園と六本木公園を統合して作られたこの公園に移設されました。
 移設 平成15年(2003)4月


所在地 港区六本木5

 江戸時代のなかばまで、坂の東側に大名鳥居家の屋敷があった。元禄年間(1688~1703)ごろ開かれた道である。
  平成23年(2011)3月 港区



所在地 港区六本木5-11-16 (国際文化会館) 



 港区文化財(旧跡)
旧岩崎邸庭園
        平成17年(2005)10月25日指定
 


 現在の国際文化会館の庭園の前身は、昭和4年(1929)に三菱の4代目当主岩崎小弥太(1879~1945)が建設した岩崎家鳥居坂本邸の庭園です。この庭園は、京都の造園家「植治」の小川治兵衛の作庭によるものでした。「植治」の歴代当主小川治兵衛は数多くの庭園を作庭しており、近代日本作庭の先駆者として著名です。
 本庭園は、崖に面した南側と鳥居坂に面した東側に植栽が施され、その打つ側に池を設けた池泉回遊式の日本庭園であり、入口部の岩組なども優れています。また、昭和5年の岩崎邸実測平面図と比較しても、作庭当初の姿を大筋において残していることがわかります。
 岩崎邸は昭和20年(1945)5月の九州で焼失し、その後昭和30年(1955)には国際文化会館が建設されました。この建物は前川國男・吉村順三・坂倉準三の共同設計による戦後日本の優れた建築ですが、旧岩崎邸の庭園との調和を最大限に考慮する姿勢が認められます。
 本庭園は、近代日本庭園として優れたものであるととものい、国際文化会館と調和した景観を作り出している点からも高く評価されます。
  港区教育委員会 



多度津藩主京極壱岐守の江戸屋敷



所在地 港区六本木4-3 (ブリヂストン三河台アパート)

 志賀直哉の父直温が、家族とともにここに移り住んだのは、明治30年(1897)、直哉14歳の時でした。当時の屋敷は1682坪(5550.6平方メートル)もあり、雑木林の趣さえうかがえる広大なものでした。
 直哉は、ここで29歳まで、人間形成のもっとも重要な青春時代を過ごしました。そして、この間、処女作である「或る朝」をはじめ「網走まで」「正義派」「大津順吉」などの初期の名作を生み出しています。作品の中には当時の父とのいきさつを扱ったものや、「剃刀」「自転車」のようにこの土地にかかわりのあるものがみられます。
 なお、当時の家屋は、昭和20年(1945)の戦災で全焼しました。
 昭和53年(1978)3月1日(平成18年〔2006〕8月建替)
 港区教育委員会



所在地 
港区六本木1

 1986年(昭和61年)、20年近い歳月を経て、赤坂(Akasaka)と六本木(Roppongi)の結び目(Knot)にアークヒルズ(ARK HILLS)は誕生しました。当時の民間における都市再開発事業としては最大級の規模(総敷地面積56,000㎡)を誇り、共同住宅、オフィス、ホテル、テレビスタジオ、コンサートホールなどを組み合わせた複合型街づくりは、その後の都心部における再開発事業のさきがけとなりました。
 そのアークヒルズの南側に位置するこの坂道は、六本木通りからスペイン大使館につながることから「スペイン坂」と名付けられ、多くの人々に親しまれています。
 春には、両側の歩道に植えられた桜が坂道を被うように咲き乱れ、都心に於ける桜の名所としても知られています。
 2001年1月1日 アークヒルズ自治会 森ビル株式会社


所在地 港区六本木1-6-1 (泉ガーデンタワー)

港区指定文化財(旧跡)
 永井荷風旧居「偏奇館」跡
          平成16年(2004)10月26日指定



 小説家永井荷風が、大正9年(1920)に木造洋風2階建の偏奇館を新築し、25年ほど独居自適の生活を送りましたが、昭和20年(1945)3月10日の空襲で焼失しました。荷風はここで「雨瀟瀟(あめしょうしょう)」「濹東綺譚(ぼくとうきだん)」などの名作を書いています。偏奇館というのは、ペンキ塗りの洋館をもじったまでですが、軽佻浮薄な日本近代を憎み、市井に隠れて、滅びゆく江戸情緒に郷愁をみいだすといった、当時の荷風の心境・作風とよく合致したものといえます。

冀くば来りてわが門を敲くことなかれ
われ一人すむといへど 幾年月の過ぎ来しかた
思い出の夢のかずかず限り知られず
                
「偏奇館吟章」より

 平成14年(2002)12月 港区教育委員会


所在地 港区六本木5

 坂の傾斜が途中でいったんゆるやかになって、また下ったので、顔のまん中の低いお多福面のようだと名づけられた。
  平成21年(2009)2月 港区


所在地 港区六本木5

 麻布台上から十番へ下る長い坂であったためにいう。長坂氏が付近に住んでいたともいうが、その確証はえられていない。
  平成5年(1993)10月 港区


所在地 港区六本木4-9-7先

第一回六本木祭の開催を記念して素材混凝土像毀損著しき為
再度 本郷新先生に懇請
新たに 青銅像として之を完成す。
 昭和50年(1975)5月9日
 六本木商店会々長 青野 次郎



 その昔、縁深い武蔵野の東南に年経た六株の松が聳える小高い丘があった その松はどこからでも見えたのでいつとはなしに人々はこの土地を六本木と呼び慣れ それがそのまま地名になったと言い伝えられる もとはわびしい叢に道行く人も稀であったが、寛永年間 佛寺五院が創立されるとその門前に商家も集い やがては瓦もいかめしい大名屋敷が立ち並ぶようになった 延宝から大正迄幾度となく行った道路拡張で交通が便利になると このあたり一帯は人馬の通いも繁くなり おのずから賑わいを増していった。そして明治の代 隣地に兵営が置かれるに及んで土地の繁栄は一層めざましくみなぎる活気のうちに昭和に入ると 山の手でも指折りの盛区に数えられれるようになった。 だが一方昔ながらの静かな趣はガス燈の青いかげにも残り六本木、三河台両町には都内での有数な高級住宅が営まれて華やかな商店街と映り合い色彩ゆたかな町としての誇りを見せていた。
 昭和20年(1945)5月22日 太平洋戦争の災禍はこの町をも見舞い美しい町並も樹も一夜のうちに灰燼に帰したが翌昭和21年(1946)戦災都市復興計画は、焼け朽ちた郷土をいたみその再建を夢見る町民の進んで協力するところとなりその熱意は麻布第一復興土地区画整理組合の結成となってあらわれた。そして子安英男を組合長として昭和22年(1947)6月より事業を開始したが当初は終戦直後の混乱期に当り町民の生活もゆらぎ勝ちで百年の大計を樹てようとする区画整理は遅々として進まなかった。しかし幸に関係者の撓ゆまぬ努力と理解或る町民の力強い援助によって苦しみを超えて歩んだ7年の歳月の流れは、今ここにようやくその事業の完成をもたらしたのである。
 この記念に 平和と協力とを象徴する本郷新氏の労作を請い得てこれを街角に見る喜びと共にこの地のささやかな歴史を併せて記し 後の世の人に伝える次第である。
 昭和29年(1954)4月
 麻布第一復興土地区画整理組合


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永山
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