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東京都港区の歴史
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所在 東京都港区芝公園4-2-8

 東京タワーは、ラジオやテレビなどの放送用電波を受発信する高さ333mの総合電波塔です。放送事業の将来性に着目した前田久吉と鹿内信隆g、当時、相次いで開局する各放送局の電波塔を一本化しようという構想で計画しました。
 前田久吉は「建設するからには世界一高い塔でなければ意味がない。科学技術が進展した今なら必ずできる。」と高さの意義を強く主張しました。
 昭和33年(1958)の建設時には、フランス・パリのエッフェル塔(当時312m)をしのぎ21m高い、333mの世界一のタワーでした。地上から150mには大展望台、250mには特別展望台があり、レインボーブリッジをはじめ、東京が一望できます。


 The Tokyo Towew is a 333 meter high broadcasting tower for transmitting and receiving radio and television signals.When it was built in 1958,it ousted the Eiffel Tower in Paris as the world's tallest tower.There is a large observation deck 150 meters from the ground and a smaller one 250 meters from which the Rainbow Bridge and the ground,from the entire scenery of Tokyo can be seen.
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                                  城木屋お駒墓所

所在 東京都港区芝公園1-8-9(常照院)

 常照院には、『城木屋お駒』として有名な人形浄瑠璃(文楽)『恋娘昔八丈』のモデルとなった『白子屋お熊』の墓があります。





                                   白子屋お熊供養之碑


所在 東京都港区芝公園1-8-9

 登録有形文化財(建造物)
常照院本堂内陣
       平成13年(2001)11月20日指定







所在地 東京都港区芝公園3-1-8

 浄土宗 雲晴院





 <観世音菩薩>

 平成2年(1990年)11月26日朝、小学4年生の当寺の子が、いつものように途中まで見送ってくれた祖父に手を振って別れ、独りで学校に向った直後、御成門の交差点の横断歩道で後方から左折して来た自動車にはねられ、9才の命を失ってしまった。
 本人もさぞ無念であったろう、残された者達の哀別の涙は盡きることがない。
 観世音菩薩の大慈悲をもって早く浄土に往登し成仏されることを願うと共に、このような悲しい事故災害の断絶を祈念してこの像が建立された。
 将来の雲晴院住職として期待されていた正雄の短かかった人生の生き甲斐の一つとしたい。
   平成3年(1991年)6月  雲晴院


所在地 東京都港区芝公園4-8

 重要文化財
旧台徳院霊廟惣門
            昭和5年(1930)5月23日指定

 建立 寛永9年(1632) 

 構造 八脚門、屋根入母屋唐破風、銅板葺



 徳川家の菩提寺である芝増上寺には、 徳川十五代将軍のうち六人の将軍や皇女和宮等の墓所がある。戦前あった霊廟は、ほとんどが昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲によって焼失し、この台徳院(二代将軍 徳川秀忠)霊廟惣門のほか、有章院(七代将軍 徳川家継)霊廟二天門重要文化財、文昭院(六代将軍 徳川家宣)霊廟中殿(現徳川家墓所門)、清揚院(三代将軍 徳川家光の三男、甲府藩主松平綱重公)霊廟水盤舎(境内参道脇に移築)が境内とその周辺に現存している。

 なお、台徳院(二代将軍 徳川秀忠)霊廟勅額門重要文化財、台徳院(二代将軍 徳川秀忠)霊廟御成門重要文化財(勅額門と同様に家光により建てられた切妻造りの単層門で、飛天の彫刻や絵画が多く描かれているので天人門ともいわれている。)、崇源院(二代将軍 徳川秀忠の奥方 お江の方)霊牌所丁子門重要文化財も焼失を免れ、現在は埼玉県狭山湖畔、狭山山不動寺(埼玉県所沢市上山口2214)に移築保存されている。

 木像仁王像(金剛力士像)を安置している。

 

  港区指定有形文化財(彫刻)
  木像仁王像
            平成18年(2006)10月24日指定

                                         山門
所在地 東京都港区芝公園4-9-8

浄土宗 妙定院

 妙定院(みょうじょういん)は、徳川九代将軍徳川家重(いえしげ)公の大導師を勤めた、増上寺四十六世妙誉定月大僧正(じょうげつだいそうじょう)によって、徳川家重公菩提のため「御中陰の尊牌」を安置して、宝暦13年(1763)、幽水閑雅だったこの地に開創された。増上寺の別院として位置づけられ、明蔵(一切経)を有し仏典研究の中心的存在でもあり、のち浄土宗の准檀林の寺格を持つ、念仏道場・学問研究の名刹として知られてきた。


                              本堂

 法然上人ご直作で熊谷直実の念持仏と伝える法然上人像をまつり、「円光大師(法然上人)東都二十五霊場」の第一番とされた。

 仏足石

 また十代将軍徳川家治(いえはる)公の尊牌も納められるなどその後の幕府の帰依も厚く、『法然上人伝絵詞(琳阿本)』などが寄進され、現在、『銅造阿弥陀如来及両脇侍立像』『琴棋書画図屏風』『奈良時代写経』など港区文化財に指定されているものも多い。『熊野堂』『浄土蔵』の二建造物は、国の登録有形文化財となっている。

 
                 熊野堂                   浄土蔵

 元伯爵・萬里小路家、明治の殖産興業の先覚者・前田正名翁などの墓所があり、平民宰相・原敬翁の在京香火院でもある。
  妙定院

Myojoin Temple

Myojoin Temple was erected here on a secluded piece of land in 1763 by the 46th Chief Abbot of Zojoji Temple,Ven.Jogetsu,for the purpose of installing the memorial tablet of the 9th Shogun of the Tokugawa Family Iyeshige for whom Ven.Jogetsu performed hisfuneral.As an attached temple of Zojoji,Myojoin held the Ming Dynasty Era complete collection of Buddhist texts and so became a central place of study as an attached seminary for Jodo Shu.As such,it became well known as an academic center and practice center for the nenbutsu.
 It is the first of 25 sacred sites in the Tokyo area associated with Honen Shonin,the founder of Jodo Shu,and houses the sratue of Honen made by himself and given to a samurai follower Kumagai Naozane as an object of veneration and practice.
The Tokugawa Family eventually became devoted members of Myojoin and donated the memorial tablet of the 10th Shogun iyeharu and numerous valuable artifacts.Myojoin also houses the pictorial biography of Honen called the Honen Shonin den ekotoba and other designated,cultural properties,as well as the two mud buildings of the Kumano-do Shrine and Jodo-zo Library which are national registered cultural properties.
The graves of well known famillies such asathose of Count Madenokoji and Baron Masana Maeda,who was a pioneer of industrial development in the Meiji Era,are also located at Myojoin.


所在地 東京都港区芝公園4-9-8 (妙定院)

 延命子育災除地蔵尊は、古くより『江戸南方四十八所地蔵尊参』の第二十七番として列せられ、戦災に遭うまで、木造丈六の大像で本院境内の地蔵堂に祀られ、霊験あらたかで、災除・安全・延命・子育を祈る善男善女の参拝が絶えなかった。
 大戦後、その焼失を惜しむ声多く、唯一焼け残った同地蔵尊の守護札版木をもとに石像として再建立され、境内別所にあったものを、台座の改築を経て、この度、より多くの方々にそのご加護あらんと、此地に移遷座されたものである。
 往来の道すがら、合掌され、地蔵尊のお慈悲に触れられんことを願うものである。
                    妙定院


所在地 東京都港区芝公園3-3(東京プリンスホテル入口横)

 <重要文化財>
有章院(徳川家継)霊廟ニ天門

 享保2年(1717)建立

 構造 三間一戸、切り妻造、銅瓦葺、八脚門



 徳川家の菩提寺である芝増上寺には、 徳川十五代将軍のうち六人の将軍や皇女和宮等の墓所がある。戦前あった霊廟は、ほとんどが昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲によって焼失し、この有章院(七代将軍 徳川家継)霊廟二天門のほか、台徳院(二代将軍 徳川秀忠)霊廟惣門重要文化財、文昭院(六代将軍 徳川家宣)霊廟中殿(現徳川家墓所門)、清揚院(三代将軍 徳川家光の三男、甲府藩主松平綱重公)霊廟水盤舎(境内参道脇に移築)が境内とその周辺に現存している。

 なお、台徳院(二代将軍 徳川秀忠)霊廟勅額門重要文化財、台徳院(二代将軍 徳川秀忠)霊廟御成門重要文化財(勅額門と同様に家光により建てられた切妻造りの単層門で、飛天の彫刻や絵画が多く描かれているので天人門ともいわれている。)、崇源院(二代将軍 徳川秀忠の奥方 お江の方)霊牌所丁子門重要文化財も焼失を免れ、現在は埼玉県狭山湖畔、狭山山不動寺(埼玉県所沢市上山口2214)に移築保存されている。

 有章院霊廟ニ天門の左右に漆塗りの広目天と多聞天を安置するが、もとは 戦災で焼失した文昭院の門の持国天、増長天と合わせて四天王として祀られていた。


                            広目天


                            多聞天


所在地 東京都港区芝公園4-8 (芝丸山古墳)

伊能忠敬先生は1745年(延享2年)上総國に生れて下総國佐原の伊能家を嗣ぎ村を治めて後50歳のとき江戸に出て高橋至時のもとで天文暦教の学を究めた。先生の卓見と創意とによる測地測量は1800年の蝦夷地奥州街道の實測を始めとして全國津々浦々にまで及び1818年(文政元年)江戸八丁堀で74歳をもって歿するまで不屈の精神と不断の努力とによって続けられわが國の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至った。
その偉業は引きつがれて1821年大中小の大日本沿海輿地全圖が完成せられその精度の高きことは世界を驚嘆せしめた程であり参謀本部測両局の輯成二十万分一地圖は實にこの伊能圖を骨子としたものである。
東京地学協會はその航跡を顕彰して1889年この地に贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表を建設したが不幸にして第二次大戦中に失われるに至った。扔つて今回各方面の協賛を得、この碑を再建した次第である。
 1965年5月
 社団法人東京地学協會 會長細川護立


所在地 東京都港区芝公園4-8 (芝丸山古墳)

 円山稲荷は、増上寺の裏鬼門に位置し、山内鎮守の重要な地を占め、史跡として指定されている丸山古墳上にあります。
 随身稲荷の由来は、増上寺がこの地に移建当時桑名よりお迎えした御本尊を守護する為に江戸までお供されたいわれにより、以来永く鎮守まします大明神であります。
           大本山 増上寺




所在地 東京都港区芝公園4-8

東京都指定史跡 昭和54年(1979年)3月31日指定

 全長106m前後、後円部径約64m、前方部前端幅約40m、くびれ部幅約22mほどの、都内最大級の規模をもつ前方後円墳である。標高約16mの台地端に位置し、前方部を南々西に向けている。

 江戸時代以降、原形はかなり損じられており、とくに墳頂部や後円部西側は削られてしまっている。明治31年(1898年)に、日本考古学の先駆者坪井正五郎博士によって調査されたが、すでに後円部中央に位置したと考えられる主体部(埋葬施設)は失われており、遺体や副葬品なども不明である。なお、埴輪(はにわ)を伴うことは知られている。

 前方部が狭く低い形態や、占地状態などから五世紀代の築造とみられており、そのころ、附近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路をおさえていた、南武蔵有数の族長の墓だったと考えられる。

  平成2年(1990年)12月27日 東京都教育委員会


所在地 東京都港区芝公園4-8 (芝丸山古墳)

 この梅林は、今の新宿区西新宿3丁目の東京ガス敷地にあったもので、江戸時代は、「梅屋敷銀世界」と言われていたものを、明治41~42年(1908~1909年)ごろ16号地グラウンドの西側に移植されたが、道路拡張にともない、昭和41年(1966年)にこの1号地に移されました。
 梅林には、二代将軍徳川秀忠のお声がかりの梅も移植されていたそうですが現在はありません。
 この石碑は、琉球の棟応昌の筆によるもので、梅屋敷内にあったものです。






所在地 東京都港区芝公園4-8 (芝丸山古墳)

 初代自由民主党副総裁大野伴睦氏の句碑。

『 鐘がなる春のあけぼのゝ増上寺 』

 昭和38年(1963)6月 調理師会


所在地 東京都港区芝公園4-8-1 (芝東照宮)

  < 献句 >

枝先に光きらめき猫柳  平山輝子

幼き日に思ひ巡らし豆を撒く  服部建夫

薄氷の池ひっそりと大使館  水谷友子

たんぽぽや群がり咲ける御所の土手  山本貞子

花見堂子のたんぽぽも葺きにけり  金子静江

お台場の浮き灯台や春の潮  井上綾子

神妙に受験子鳴らす神の鈴  長友明子

将軍の御墓前花の散ってをり  山田とき

大公孫樹寿像を守り芽吹きけり  大滝勝弘

港区に生まれ傘寿や花水木  黒田富美子

梅雨の蔭木々みなもてる増上寺  金子絢子

港区は第二の故郷島渡る  佐藤登美子

望の月ベランダ越しに仰ぎけり  高野房子

母の顔知らぬ子の焚く門火かな  津金美佐子

はや灯る献句行燈生姜市  笠和子

ビル越しに海見え渡る都島  鈴木智江子 

赤羽の大根河岸に時雨くる  上山吉久

句碑の建つ神域ひろき日脚偲ぶ  中谷静雄

閑日のソファーに冬日届きけり  稲田なみえ

冬晴の海の彼方に富士峙てる  大間國家

山茶花や数奇屋作りの門構え  陶山登美江

はん女の齢の重き舞初  吉川昭




所在地 東京都港区芝公園4-8-11 

<御祭神>
  徳川家康公 御神像
  慶長6年(1602年)元旦御年六十の時 家臣に命じ之を彫刻せしむ
  東京都重要文化財指定

<御鎮座年月>
  永世国家を守護し国民の繁栄を祈願せんとの仰せにより
  元和3年(1617年)3月に当地に奉安す

<祭日>
  例大祭  4月17日(御逝去日)
  月次祭  毎月1日 17日



  <創祀沿革>
 当宮御祭神(御神体)は公の生前自ら駿府城に於いて祭儀をなされた寿像である。元和2年(1616年)4月17日公の薨去の際 公より「像を増上寺に鎮座させ永世国家を守護なさん」と仰せられ、翌年3月、現在地に社殿(安国殿)が創建された。
 明治以降、神仏分離令により芝東照宮となった。旧社殿は権現造りで国宝になったが先の戦災で焼失し、現社殿は昭和44年(1969年)完成する。公の御神徳による東都を鎮座する代表的なお社です。
 徳川家康公の思想を御遺訓から学び取ると
勤勉 慎重 堪忍 自責 簡素 倹約です。
以って世の中の安寧 世界の平和を希求する厭離穢土欣求浄土の御旗に託しているのです。
   平成6年(1994年)4月17日



<社殿>
  権現造り 昭和44年(1969年)8月完成 鉄筋コンクリート
  旧社殿は国宝なりしが戦災により焼失す

<公孫樹>
  寛永18年(1641年) 三代将軍家光公の手植
  昭和5年(1930年) 文部省指定天然記念物

                         芝東照宮


境内には『芝東照宮のイチョウ(東京都天然記念物)』、『東照宮復興祈念碑』、『武田竹塘先生紀功碑』、『星野高士句碑』、『句碑』があります。


所在地 東京都港区芝公園4-8-1 (東照宮)

 東京都指定天然記念物
芝東照宮のイチョウ
         昭和31年(1956年)8月21日 指定



 芝東照宮は、以前は増上寺安国殿と呼ばれ、『江戸名所図会』にもその姿が見られる。明治の神仏分離によって増上寺から切り離され、東照宮となった。
 このイチョウは、寛永18年(1641年)安国殿の再建に際し、三代将軍徳川家光が植えたものと伝えられている。
 昭和5年(1930年)に史蹟名勝天然記念物保存法に基づいて国の天然記念物第二類(地方的なもの)として指定されたが、昭和二十七年に文化財保護法が改正された時、国指定は一旦解除され、その後昭和三十一年に東京都の文化財保護条例に基づき指定し直され現在に至っている。
 平成5年(1993年)の調査では、高さ約21.5m、目通り幹囲約6.5m、根元の周囲が約8.3mある。
  平成14年(2002年)3月29日 東京都教育委員会


所在地 東京都港区芝公園4-8-1 (芝東照宮)

  東照宮復興祈念碑
 東照宮の御神体であり 重要文化財でもある家康公の寿像は 慶長六年 徳川家康公六十歳の新春を迎えられた正月元旦 年始の式をおわられたあと 近習丸津某に命ぜられて 公の等身大に彫刻させられたものであります 存生中はつねにみずから この寿像の祭供を行われておられたと 重要文化財である添書に明記されてあります 本営は 日光 上野 久能山東照宮とともに わが国四大東照宮として崇敬者の尊敬をあつめている由緒ある名宮であります
 こ寿像が本営にまつられましたのは 元和二年四月 御違例によって 増上寺の観智国師 了的 廊山の三高僧が駿府城に登営され そのとき家康公より「この像を増上寺に鎮座させ 永世国家を守護なさん」と仰せ出されました そしてこの丸山の地をトして社地に定められ 元和二年十月造営されたのであります
 その後 寛永十一年模様替えがあり 同十八年には社殿さらに新改築成って その枯厳なる社殿は大正四年国宝建造物に指定され神域の公孫樹(いちよう)は昭和五年八月 天然記念物に指定を受け 増上寺とともに伽藍の美を誇って居りました また 寛永年間より明治維新まで別当安土院が奉仕し 明治三年の神仏混淆廃止令によって 明治六年七月三十一日郷社に定められ 以来 芝公園町内の氏神さまとして 氏子はもとより 全国崇敬者の参拝絶える事なく春秋の大祭には 山車 催物等  賑を極めたといわれて居ります しかし 不幸にして さきの戦災により 寿像と公孫樹とを除き 社殿 灰
燼に帰してしまいました
 英雄とこしえにまつられる本営の仮神殿の現況を見るに偲びず 町内氏子 崇敬者相寄り 昭和三十六年十月 東照宮復興奉賛会を創立いたしました その後 いくたの障害もありましたが 昭和十四年八月十七日壮麗なる社殿並びに社務所が落成し
 それと前後して 防火壁 玉垣等 境内の整備もなされました 更に 昭和十八年五月十七日に水舎が完成して 現在の姿に復興するにいたりました
 江戸八百町の開設者であり 東京都の大恩人である家康公をまつる本営が復興なりましたことを心から喜ぶと共に 今後 本営が一層多くの人々の崇敬の的になることを祈願するものであります
  東照宮復興奉賛会
    名誉会長 徳川
恒孝
    会長 渡辺八左衛門
    宮司 滝孝作
    総務 石井正一郎


 東照宮復興奉賛会役員
名誉会長     
 徳川家正 徳川恒孝
名誉顧問    
 東龍太郎
会長        
 福井盛太 渡辺八左衛門
副会長
 (建設)石井正一郎 (渉外)森栄 (財政)中積宗治 
中島金蔵 
 (参道整備)清水俊雄 平川喜義
常任委員 兼 建設委員
 朝倉史吉 近藤五十資 八木弥一 小宮山茂雄 津村弘光 長崎弥一 金子富治
常任委員
 坂口正倫 佐藤量八 池田長見 佐久間源一 平岡好武
委員
 伊藤全啓 秋元喜一 森田一正 酒寄正雄
会計顧問
 渡辺八十吉
会計
 松尾新次 井口武次 石井スギ
監査
 久保祐三郎 佐藤均 三浦主人
顧問
 小田清一 前田久吉 椎尾弁匡 木下伊助
参与
 高島吉郎 高橋清作 森隆二 本阿弥猛夫 塚田恵秀 松下長平 松浦勝道 内藤温行 中里清一 池田欣司 新田新兵衛 加辺栄次 榎土伝重 田中栄一 中西敏ニ 平山羊介 岡謙四郎 青木堅三 井上正彦 高橋次郎 落合福寿 桑名邦雄 武井与四郎 前田卯太雄 国分隆 小西良助 岡田猛馬 恩田徳次郎 北村勝太郎

東照宮元宮司
 吉村重定
東照宮現宮司
 滝孝作
東照宮責任役員
 渡辺八左衛門 石井正一郎 森栄

設計者 松本設計事務所 松本昇
施工者 社寺公務所 鈴木一光


所在地 東京都港区芝公園4-8-1 (芝東照宮)

  陸軍大将左大臣議定官ニ品大勲位熾仁親王題額
近世以兵学建功非國家傅業於後進者以先生為巨擘■先生諱成章武田氏通稱斐三郎■大洲藩士幼■喪父奉母至孝弱冠■大阪及江巨修和蘭学■又攻英佛ニ学天才絶倫加以勉強遂究三兵之薀奥安政丙辰秋幕府徴先生任以函館五稜郭砲臺之建築五歳而功竣就中五稜郭規模極大壘■營舎結構布置悉法和蘭鞏無仕幕府賞其功櫂為旗士文久辛酉夏為亀田丸船長航黒龍江蓋不籍西洋人之力而航海外者前■未有也元治甲子夏歸江戸歴任開成■教授歩兵指揮長大砲指揮長砲兵頭叙市長鑄大小砲於開口街築友射爐於王子村明治戊辰夏應松代之請以佛國兵法教其藩士當■時 王政復古登庸■■辛未春先生補兵部省出仕後累官任砲兵大佐仕官学校学科提理叙從五位米國前大頭領克蘭氏甞学校観生徒之学術■練嘆稱不措贈云不譲宇内著名之兵学校之威至■先生與有力焉然■以為未盡将有■建議而未果偶罹病歿■享年五十有四實明治庚辰一月廿八日也官賜儀仗兵送其塟于淺草海禅寺又賜祭■料今茲辛巳門人故舊相議欲建碑以表先生功徳徴文於予予輿先生有素故不得辤也乃惙其行實之概累孫之以銘曰
   奉親■■ 報國忠誠 高才遠識 学通八絋
   五稜之郭 士官之■ 偉■功業 永■令名
 明治十四年三月 従五位石川良信撰 正五位日下部東作書


所在地 東京都港区芝公園4-8-55 

港区指定有形文化財(彫刻)
 閻魔大王坐像
  及び 司録・司命半跏像
          平成11年(1999)10月12日指定

 < 閻魔大王

 閻魔代魔王坐像は、寄木造、高さ2mの大王で、貞享2年(1685年)作といわれ、右に司録、左に司命の二像を従えているのは都内では珍しい。江戸時代、正月月と盆の十六日に「地獄の蓋があく」といって参詣人が群集し、門前には露店が立ち、見世物小屋が掛って賑った。

祭礼日  1月15日、16日、7月15日、16日


 < 開運出世辨才天

 三井寺の開山智証大師が天安2年(858年)竹生島で奇縁に依り彫られその後、源家に伝わり再興に当り源頼朝公深く信仰し天下を平定される。又、徳川家康公も厚く信仰され天下の平和を築かれ除波辨才天を改め開運出世辨才天と改称されました。古来より一心に崇敬拝する者に開運出世・巳成金・福寿円満・厄難消滅・縁結びの利益を授けられ現在港区七福神の一つに制定されている。

祭礼日  1日、3日、15日、28日、巳日


所在地 東京都港区芝公園4-8-55 (宝珠院)

 三井寺の開山智証大師が天安2年(858年)竹生島で奇縁に依り彫られその後、源家に伝わり再興に当り源頼朝公深く信仰し天下を平定される。
 又、徳川家康公も厚く信仰され天下の平和を築かれ除波辨才天を改め開運出世辨才天と改称されました。古来より一心に崇敬拝する者に開運出世・巳成金・福寿円満・厄難消滅・縁結びの利益を授けられ現在港区七福神の一つに制定されている。



祭礼日  1日、3日、15日、28日、巳日


所在地 東京都港区芝公園4-8-55 (宝珠院

港区指定有形文化財(彫刻)
 閻魔大王坐像
  及び 司録・司命半跏像
          平成11年(1999)10月12日指定

 閻魔大王は地蔵菩薩の変身であるといわれ、インドでは天上の楽土にあって、死者を導いたが、もちに下界におりて死者を審判する神となった。わが国では鎌倉時代(1192~1333)から、庶民信仰の対象として一般に流布するようになった。
 江戸時代には、正月と盆の16日に「地獄の蓋があく」といって参詣人が群集し、門前には露店が立ち、見世物小屋が掛って賑った。
 この閻魔代魔王坐像は、寄木造、高さ2mの大王で、貞享2年(1685)作といわれ、右に司録、左に司命の二像を従えているのは都内では珍しい。
   平成11年10月12日 港区教育委員会

祭礼日  1月15日、16日、7月15日、16日




所在地 東京都港区芝公園1-7 (大門脇)

 芝神明は 平安時代に造られたという江戸有数の古社で 芝居のめ組のけんかなどでも有名である。 

 これは  江戸時代の しょうが市 の光景で 今日でも9月11日から21日まで長く続くため  だらだら祭り の名がある。

 背景は 二代広重、

 人物は 三代豊國の筆、

 元治元年(1864)

江戸自慢三十六興の一枚


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