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東京都港区の歴史
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所在地 東京都港区芝5-33

 この敷地は、明治維新前夜慶応4年(1868年)3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた『勝・西郷会談』の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。

 この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされました。

 現在は、鉄道も敷かれ明治5年(1872年)更に埋め立てられて海までは遠くなりましたが、この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。

 また人情噺で有名な『芝浜の革財布』は、この土地が舞台です。

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所在地 港区芝大門1-12-7

 社伝によれば平安時代の中頃寛弘2年(1005年)に伊勢の内外両宮の御分霊をまつり鎮座されたといわれる港区内有数の古社である。
 毎年9月中旬には『だらだら祭』とよばれる祭礼がおこなわれ、江戸時代より現在まで生姜、千木箱、甘酒などが境内で売られていることでも地元とのつながりが深い。

 所蔵する文化財として、絵画では江戸末期の建部巣兆(こうちょう)の箱根詣図(絵本墨画淡彩)などがある。古文書では建武4年(1337)正月7日の足利直義御教書(あしかがただよしみきょうしょ)(勝利の祈祷を依頼したもの)、天正16年(1588年)7月24日の吉良氏朱印状がある。
  昭和53年1月 港区教育委員会

 

 
 
 境内には『力石(港区文化財)』、『銅燈籠(港区文化財)』、『句碑』、『御手水舎』、『貯金塚』、『生姜塚』などがあります。


港区指定有形文化財(絵画)
  長沢芦雪筆人物図 昭和56年(1981)10月24日指定
  紙本着色箱根詣図 建部巣兆筆 平成15年(2003)10月14日指定

港区指定有形文化財(彫刻)
  神楽面 付「神楽面目録」 平成3年(1991)10月9日指定

港区登録有形文化財(彫刻)
  神楽面 平成4年(1992)3月30日登録

港区指定有形文化財(古文書)
  足利直義御教書 昭和56年(1981)10月24日指定
  吉良氏朱印状 昭和63年(1988)10月26日指定
  伊奈半十郎忠治書状 平成5年(1993)9月28日指定

港区登録有形文化財(古文書)
  御定書 平成14年(2002)3月15日登録

港区登録有形文化財(古文書)
  別当・神主等申状 案 平成14年(2002)3月15日登録

港区登録有形文化財(歴史資料)
  銅燈籠 平成9年(1997)3月11日登録

港区指定有形民俗文化財
  
芝大神宮の力石 平成7年(1995)9月26日指定

港区登録有形民俗文化財
  め組の半鐘 平成6年(1994)3月22日登録

所在地 東京都港区芝大門1-12-7 (芝大神宮)

貯金と災厄(昭和丗二年正月不動会建立)

 災厄は忘れた頃來るという 関東の大震災も亦然り 當時の惨状は言語に絶し東京は焼野原と化し政府は直ちに支拂猶豫令を布いた 然るに其中にあってひとり預金の全額拂戻しを断行し大東京の復興に多大の貢献をした銀行がある 其名を不動貯金銀行という 即ち牧野元次郎翁が頭取であった 其不動貯金銀行本店の當時の焼跡から出た欄稈破片二個は(関東大震災記念石天沼雄吉寄贈)之である

 倉は焼けても貯金は焼けぬ              

所在地 東京都港区虎ノ門1-2-7

東京都選定歴史的建造物
 虎ノ門金刀比羅宮
     設計者 伊東忠太   
     建築年 昭和26年(1951)



  御祭神 大物主神 崇徳天皇

 讃岐丸亀藩主の京極高和が領地・讃岐の金刀比羅大神を、万治3年(1660)に三田の江戸藩邸に邸内社として勧請、その後延宝7年(1679)に現在の地虎ノ門に移る。こんびら人気が高まった文化年間に京極家では毎月10日に限り一般の参詣を許し、大変賑わったといわれる。



 社殿は権現造りで、第二次世界大戦により焼失したが、拝殿、弊殿の部分は昭和26年(1951)に再建された。ともに総尾州檜造り、銅板葺きである。日本最初の建築史家、伊東忠太の設計校閲いよる建物で、我が国古来の建築技法が随所に用いられている。
 なお、弊殿の奥の本殿は、昭和58年(1983)に復興されたもので、鉄筋コンクリート造、銅板葺きとなっている。
  東京都生活文化局
 


 港区指定有形(建造物)
虎ノ門金刀比羅宮の銅鳥居
     平成13年(2001)10月23日指定



 港区登録有形民俗文化財
虎ノ門金刀比羅宮の百度石
     平成9年(1997)3月11日登録

所在地 東京都港区西新橋1-3 (新日本石油ビル) 

 この像は、エネルギーの安定供給をその社会的使命として歴史を刻んだ日本石油が、昭和63年(1988年)5月創立百周年を迎えたことを記念し、全国特約店各位より寄贈されたものである。新世紀への第一歩をしるすにあたり最もふさわしいものをとの願いから『人類に火を与えるプロメテウス像』が題材に選ばれ、文化功労者 日本芸術会員 富永直樹氏の手により制作されたものである。
  1988年12月  日本石油株式会社

※現在このプロメテウス像は千代田区大手町に移されています。

所在地 東京都港区海岸1-4-1

    旧芝離宮恩賜庭園の由来
 延宝6年(1678)、徳川将軍家から埋立地であったこの地を拝領した老中大久保加賀守忠朝はここに屋敷を造り、作庭を始めました。庭は貞亨3年(1686)までに完成し、「楽寿園」と命名されました。これが本庭園の起源です。
 「楽寿園」は典型的な回遊式庭園で、園景の中心には江戸の水辺庭園特有の潮入の池があり、干満によって景色が変化するよう工夫されていました。池泉の中央部には中国杭州の西湖堤を模した堤や蓬莱山を表した中島など中国の趣を取り入れ、築山のうえから白帆の行きかう沖合の海の展望にも意を注ぐつくりでした。曽於の御、大久保氏より数氏を経て、幕末には紀州徳川家の芝御屋敷となり、さらに有栖川宮家を経て宮内省が買い上げて明治9年(1876)「芝離宮」となりました。



 明治24年(1891)には迎賓館としての役割を果たすために園内に洋館を新築し、以来、多くの外国貴賓を迎えました。
 大正12年(1923)の関東大震災で洋館等が焼失したものの翌大正13年(1924)1月、昭和天皇の御成婚を記念して東京市に下賜され、市では震災復旧を行い、同大正13年(1924)4月に「旧芝離宮恩賜庭園」として一般に公開しました。



 現在は周囲の埋立、林立するビルにより潮入りの機能、海の展望は失われましたが、中島の蓬莱山をはじめとする石組の妙は昔日の面影を残しております。昭和54年(1979)、文化財保護法により「名勝」に指定されました。
 総面積は43,175.36㎡です。



    石柱(せきちゅう)
 この由来は長い間謎でしたが、相模の戦国武将、松田憲秀旧邸の門柱と判明しました。茶室の柱に使うため運ばれてきたものです。

所在 東京都港区新橋5-22-10 (松岡田村町ビル)

 アンティノウスは、ローマ皇帝ハドリアヌス(117~138年在位)が寵愛した美しい小姓であったが、アレキサンドリア郊外のカノプスで溺死したことを悲しんだ帝は、彼の想い出のため、英雄や神々の姿をした多くの像を造り、またローマ近郊のティヴォリの離宮には、アンティノウスに捧げた建物『カノプス』を建てた。

 この像はバチカン宮殿にある同姿の一体とともに1798年古代ローマの外港であったオスティアで発見されたものである。

 

所在地 東京都港区浜松町1-13-1

 この地は明治元年(1868年)から明治4年(1871年)まで慶応義塾の在った処である。福沢諭吉は築地鉄砲洲に在った家塾をここに移し、新たに塾舎を建て時の年号に因んでこれを慶応義塾と称した。あたかも明治維新の変乱に際し国中また文事を顧みる者のなかった時、この塾に集まった福沢以下の少壮学徒は、自から信ずる文明の主義に據って学問の独立を護り、わが国文運の命脈を一日も絶やすことかなかった。

 明治4年(1871年)慶応義塾跡を譲り受けた攻玉社は築地一橋邸跡から越して来て大正14年(1925年)西大崎に移るまでこの地で学校を経営した。創立者近藤真琴は和魂漢洋才、質実剛健、礼譲を重んじ誠意を旨とするを理想とし、中壮年部では英漢数の三科を主として海軍兵学校入学志願者を養成し、又他の上級学校進学希望者の為に歴史、地理、物理、化学等の諸科をも教授し後之を中学校に改めた。更に明治12年(1879年)創設した陸地測量習練所は後量地黌ー土木科ー工学校及び高等工学校と改称し土木工学の基を開いた。この外幼年部、女子部、商船黌 、専修数学科も或る期間設けられていた。

所在 東京都港区三田1,2丁目

 平安時代の勇士源頼光の四天王の一人渡辺綱にまつわる名称である。姥坂(うばざか)とも呼んだが、馬場坂の説もある。

所在 東京都港区三田2

 羅生門の鬼退治で有名な、平安時代の武士渡辺綱(わたなべのつな)が付近に生まれたという伝う。

所在 東京都港区三田2-3-7

 網町三井倶楽部本館は、大正2年(1913年)にイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計で建てられました。
 ジョサイア・
コンドルは明治10年(1877年)に来日し、鹿鳴館(ろくめいかん)銀座煉瓦街をはじめ幾多の建築にたずさわり、建築の分野で日本の近代化に貢献しました。
 
この建物は、三井家の賓客接待用として建てられたもので、ネオ・バロック風の特徴を持ち、室内装飾や家具などに優美な曲線の装飾が見られます。また、建物の背後の庭園もすぐれています。
 
なお、三井倶楽部の敷地は、江戸時代には佐藤土原藩島津家、会津藩保科家(ほしなけ)の屋敷があったところで、かつては前面道路に面したところに大名屋敷の建物を模して近代に建てられた長屋もありました。

  昭和52年(1977)1月 港区教育委員会

 現在は三井不動産株式会社が所有・管理しており、使用中のため公開していません。

所在 東京都港区三田2,3

 「ひゅうがさか」 江戸時代前期南側に徳山藩毛利日向守の屋敷があったためといわれている。由来は不明である。誤って「ひなた坂」とも呼んだ。

所在 東京都港区三田1-12-11

浄土真宗 本願寺派 綱生山 當光寺



所在 東京都港区東新橋1-6-1(日本テレビ)

 ここは、汐留遺跡の発掘調査によって、仙台藩上屋敷の表門の遺構が発見された場所である。

 寛永18年(1641年)に設けた屋敷は、当初下屋敷として用いられたが、延宝4年(1676年)には上屋敷となり、以後幕末まで仙台藩の江戸における拠点となった。

 元禄15年(1702年)12月15日、本所吉良邸において、主君浅野内匠頭長矩(しゅくんあさのたくみのかみながのり)の仇討ちを成し遂げ、その墓所高輪泉岳寺へ向かう赤穂浪士は、この場所で粥のもてなしを受けたといわれる。あたかもレトルト食品のように瞬く間に作られた粥は、仙台名産の仙台糒(せんだいほしい)(粳米を蒸して乾燥させた保存食)であった。

                仙台市・日本テレビ


Front Gate of Sendai Han's Residence in Edo Period
「江戸勝景(えどしょうけい) 芝新銭坐之図(しばしんせんざのず)」
 歌川広重作 天保6(1835年)~天保8年(1838年)
この図に描かれる冠木門の基礎の木組み遺構が発見された。

所在 東京都港区新橋2-15-5

<御祭神> 

倉稲魂命(くらいなたまのみこと)

天鈿女命(あめのうずめ)

瓊々杵尊(ににぎのみこと)

 

 平安時代天慶3年(940年)に平将門が東国で叛乱を起こしたとき  征討将軍 藤原秀郷が当社に戦勝を祈願したとも このとき勧請したとも伝えられている。

 室町時代の享徳4年(1455年)には室町幕府の関東管領で古河公方と云われた足利成氏は 当社に 戦勝を祈願した  その祈願状は今日も当社に宝物として伝えられている。

 江戸時代は稲荷信仰により祭礼も2月初午の日に執行せられ 稲荷祭としてその賑わいは 江戸で一二を争うものであった。

 明治以降は5月4,5,6日を祭日とし 夏祭のはしりとしてその名をうたわれている。

 当社殿は 伸びゆく新橋の地にふさわしい近代建築美の中に 神社本来の伝統を加味し昭和46年(1971年)12月 氏子の熱意により竣工をみたものである。

  昭和46年(1971年)12月  宮司 山田將夫



港区指定有形文化財(古文書)
 足利成氏文書
       昭和59年(1984)10月15日指定



所在 東京都港区六本木3-2 ~ 六本木3-4

 流垂・奈太礼・長垂などと書いた。土崩れがあったためか。幸国(寺)坂、市兵衛坂別名もあった。

  平成22年(2010)5月 港区



所在 東京都港区六本木3-5 ~ 六本木3-6

 元和年間(1615年~1623年)旗本岡部丹波守の屋敷ができ坂下を丹波谷といった。明治初年この坂を開き、谷の名から坂の名称とした。

 平成9年(1997)9月 港区


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