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東京都港区の歴史
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             黒田清綱・黒田清輝 顕彰碑(1989建立)

所在地 港区西麻布2-21-34 (長谷寺)

 
           黒田清輝(1866-1924)墓

 黒田清輝は慶応2年(1866)、黒田清兼の子として鹿児島に生れ、幼名を新太郎といいました。はじめ政治家を志し、フランスでは法律を学んでいるとき油絵を習い、山本芳翠に認められて絵画に専念することとなりました。帰国後、東京美術学校教授となり、その後天真道場を設立し、さらに白馬会を結成して後進を指導し、洋画壇に新風を送りこみました。晩年は帝国美術院院長となり、明治、大正にかけて美術界の長老として、美術行政に尽くすところが多くありました。
 麻布笄町の自邸で大正13年(1924)7月15日に没しました。
 おもな作品に「朝妝」「木苺」「昔語り」「湖畔」「舞妓」などがあります。
  昭和50年(1975)12月 港区教育委員会

慶応2年(1866)6月27日 薩摩藩士黒田清兼の子として鹿児島に生る    
 幼名新太郎 号水光明治4年伯父清綱の養嗣子
明治17年(1884)
 法律修学のためフランスへ留学 同地に於て性来の事故の資質に開眼し画学研究に転向 ラファエルコランに師事 研鑚を積み明治26年(1893)帰国 僚友久米桂一郎と天眞道場を興し清新な画風を伝う
明治29年(1896)
 東京美術学校に西洋画科創設を一任され初代教授として永く後進の指導に尽力し又美術団体白馬会を創立 洋画界に新風を送る
明治40年(1907)
 第一回文部省美術展覧会審査官
明治43年(1910)
 帝室技芸員
大正2年(1913)
 国民美術協会 会頭
大正6年(1917)
 子爵を襲爵
大正8年(1919)
 帝国美術院 会員 9年貴族院議員
大正11年(1922)
 帝国美術院 院長
大正13年(1924)
 永年の日佛交流の寄与に対し フランス政府より勲章を贈られる
 7月15日 麻布笄町にて逝去 59歳
 19日 長谷寺 黒田家墓地に葬る

 
          黒田清綱(1830-1917)墓
天保元年(1830)   
 薩摩藩御記録奉行 清直の長子として5月21日生 幼名新太郎
天保13年(1842)
 父死去 嘉右衛門清綱と改め嘉納と称す
嘉永4年(1851)
 史館見習を始めとし軍賦役兼使番用人兼町奉行 陸軍掛用人格兼軍賦役頭取
 側役会計奉行 参政等歴任
文久2年(1862)
 藩論統一の為 遠流の西郷赦免を請う
慶応2年(1866)
 幕府筑前在の五卿を関東へ移さんとするを決死 之を拒み守護
慶応3年(1867)
 藩主忠義公山口侯世子徳山侯世子会談の際西郷を倶に従い維新大業の大策を定む
明治3年(1870)
 戊申役山陰道鎭撫総督参謀として戦う
 太政官より東京滞在下命 東京府大惨事
 弾正小弼 文部小輔歴任
明治8年(1875)
 元老院議官
明治14年(1881)
 西郷の名誉恢腹を在大臣に請願
明治20年(1887)
 子爵を賜る 金鶏間仕候
明治33年(1900)
 枢密顧問官 従二位勲一等 旭日大綬章
明治42年(1909)
 宮中杖を賜る 
明治45年(1912)
  御歌所長 御■ 御歌拝覧
大正6年(1917)
 正二位 3月23日薨 88歳
 八田知紀翁の門下として歌道に親しみ、滝園社を結び 月次歌全等斯道に努む
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所在地 港区西麻布2-21-34 (長谷寺)

 坂本九の歌う「上を向いて歩こう」はUSAで週刊ランキング1位を獲得した。日本を含めアジアの曲で、この曲以来1位になった歌は現れていない。私の実父が坂本九氏と生前会って話したことがあるそうだが、ものすごいエネルギーを放つ人物であったと話していた。やはり坂本九が歌ったから、USA1位の歌になったのであろうか。

                     泉岳寺中門(港区文化財)

所在地 港区高輪2-11-1 (泉岳寺)

萬松山 泉岳寺

 当萬松山泉岳寺は、慶長17年(1612)、徳川家康が幼年、身を寄せた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜だの地に創建し、門庵宗関和尚(1546~1621)を迎えて開山となした。宗関和尚は永平寺の道元禅師によって開かれた曹洞宗の第4代宝山禅師開創の総持寺の門派である大平山大中寺(栃木県)の十一世建室宗寅和尚(義元の実弟)の高弟であり、今川義元の孫と云われる人物で、度々登城を請われ法問を聴取されたと伝えられている。当寺の萬松山は松平の松より、「松萬代に栄ゆる」の意から、寺号泉岳寺は、徳川に因み、「源の泉、海岳に溢るる」の意からつけられたと旧梵鐘の銘に記されている。


                       泉岳寺山門(港区文化財)

 将軍によって建立された当寺も、寛永18年(1641)の大火によって伽藍が焼失、3代将軍家光(1604~1651)の命により現在の高輪の地に移転再建された(一説に移転は正保年間〔1644~1648〕とも)。この移転に際しては、毛利浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名が尽力して完成し、その因縁により以後この五大名が共に檀越となり外護の任に当った。
 江戸時代当寺は曹洞宗の江戸三ヶ寺(青松寺・総泉寺と泉岳寺)の一つとして、大僧録たる関三刹(埼玉県龍隠寺・千葉県総寧寺・栃木県大中寺)の下、特に本寺大中寺の下で触頭として曹洞宗の行政面の一翼を担った。
 また、吉祥寺旃檀林・青松寺獅子窟とならぶ江戸三学寮の一つとして重きをなし、宗内外の碩学によって仏典・祖録・漢籍等が講じられ、曹洞宗僧侶の養成に大いに寄与した。山門から中門の両側には出身地別の九棟の寮舎が並び、常時二百名程の学僧が修学していたという。



 また、赤穂藩主浅野家の菩提寺であったことから元禄15年の義挙(1702年12月14日)の後は、赤穂四十七義士の墓所としても知られ、討入り約50年後より上演された歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の興行が盛んになるに伴って一層多くの参拝者が訪れるようになった。
 現存する山門は天保年間に当寺三十四世大道貞均和尚によって建立され、2階には釈迦三尊及び十六羅漢が安置され、1階中央天井には我が国彫金の名匠、関義則の龍蟠が嵌め込まれている。



 明治初期には廃仏毀釈の余波を受けて、やや荒廃を余儀なくされたが、当寺四十世圓頓霊巌和尚の地道な努力と創意工夫とによって本堂・庫院を恢興し、また煉瓦造りの義士宝物館を創設し、既存の石巒師資制作の義士像を展示する木像堂と共にこれらを公開することによって広く衆望を集めて寺運の再興を果し、次代の四十一世普天霊明和尚がこれを継承して関東大震災に崩壊せる義士宝物館を再建し、書院を新築して、寺域の拡張・整備に努め、明治・大正・昭和に跨る当山の隆昌期が築かれた。
 然るに先の第二次世界大戦の戦火に遭遇し、山門・義士館(旧義士館=現講堂)以外の講堂が焼失し、歴代の功業は大いに削がれてしまった。しかし次の四十二世祖天凖爾和尚は戦後の苦境の中に諸堂の再興を発願し、遂に昭和28年(1953)に本堂の再建を果し、以後これが継承されて現在に至る伽藍・境内等の整備が戦後復興の一環として続けられている。先年義士討入り300年を記念し、浄財を募って浅野家の塋城(史蹟)を整備し、新たに赤穂義士記念館(平成13年〔2001〕開館)を建設して、寺宝と共に大石良雄の書状をはじめとする赤穂義士関係の資料を展示して、赤穂義士の已まれぬ心情を伝承することに資している。
 平成16年(2004)、江戸期の学寮の伝統と戦前に宗門の宗義自覚の発露であった道元禅師鑚仰会の活動等を再興すべく、泉岳寺学寮講座を開設し、漢学・仏教学・宗学の各講座を毎週開講し、また参禅会を公開して道俗の好学の士の渇望に応えている。


             浅野長矩及び赤穂義士墓所(港区文化財)


港区指定有形文化財(絵画)
  釈迦八相祇園精舎曼荼羅 
     付『萬松山曼荼羅之記』『文化五辰年於阿弥陀寺泉岳寺開帳全』
          平成8年(1996)10月22日指定
  絹本着色普照国師(隠元隆き)像  土佐光起筆 高泉性とん賛
          平成10年(1998)10月8日指定
  絵本着色蓮舟観音図 加藤信清筆  平成14年(2002)10月18日指定

港区登録有形文化財(絵画)
  雲龍図 雲谷等爾筆   平成13年(2001)3月10日指定
  弁財天図 狩野梅春筆  平成13年(2001)3月10日指定
  赤穂事件絵巻               平成14年(2002)3月25日指定

港区指定有形文化財(彫刻)
  漆喰造彩色天野屋利兵衛像 入江長八作  平成16年(2004)10月26日指定

港区指定有形文化財(書跡)
  大田蜀山人筆 狂歌屏風・漢詩屏風  平成9年(1997)10月14日指定

港区指定有形文化財(古文書)
  『天文・永禄年間 古券巻』  平成8年(1996)10月22日指定

港区指定有形文化財(古記録)
  門前水帳  平成14年(2002)10月18日指定

港区指定有形民俗文化財
  絵馬 市川莚升 大星由良之助図  平成18年(2006)10月24日指定


所在地 港区高輪2-11-1 (泉岳寺)

港区登録有形文化財(建造物)
  泉岳寺中門
          平成11年(1999)2月11日登録



 切妻造、本瓦葺、一間一戸四脚門で、天保7年(1836)に再建されたものです。左右に袖塀を持ち、正面右手には通用門をもっています。また、番小屋を配し、禅宗寺院の中門の様式の中でも格式の高い様式を残した門です。
  港区教育委員会


所在地 港区高輪2-11-1 (泉岳寺)

港区登録有形文化財(建造物)
  泉岳寺山門
          平成11年(1999)2月11日登録

 入母屋造、本瓦葺、三間一戸八脚門で、天保年間に再建されたものです。楼上に極彩色の十六羅漢像が安置され、階下の天井には銅彫大蟠龍がはめ込まれています。区内に残された楼門建築は、他に増上寺三解脱門があるだけで、貴重な遺構です。
   港区教育委員会

                          浅野長矩及び赤穂義士墓所

所在地 港区高輪2-11-1 (泉岳寺)

 港区登録有形文化財(建造物)
浅野長矩及び赤穂義士墓所門
          平成11年(1999)2月11日登録

 切妻造、本瓦葺、一間一戸棟門で、もとは赤穂藩浅野家の鉄砲州上屋敷(現中央区)の裏門として建築されたものです。大石良雄が屋敷を訪れる際によく出入りした門といわれ、明治初年に取り払われる際に、この場所に移築されました。大名屋敷の江戸藩邸門の様式を残す遺構として貴重です。
 港区教育委員会


                                   主悦の梅

 墓所内には、主悦の梅(三田松平隠岐守邸内にて大石主悦外9人の者を樹下にて切腹せしと傳えられる梅)、首洗井戸(吉良上野介義央の首を洗った井戸)があります。


                                 赤穂義士墓所門


所在地 港区芝公園4-7-35 (増上寺)

   安国殿と黒本尊
 この建物は徳川家康公の法号「安国院殿」からその名をとっています。「安国殿」とは現らい家康公の尊像を祀る御霊屋を意味していましたが、戦後の復興に伴う増上寺境内堂宇整備の一環として、昭和49年(1974)当時の仮本堂をこの地に移転し、家康公の念持仏として有名な「黒本尊阿弥陀如来」を安置し「安国殿」と命名しました。
 建物の老朽化に伴い、平成23年(2011)法然上人八百年御忌を記念し、念仏信仰の拠点として家康公が成し遂げた天下泰平の世(安らかな国づくり)を願い、新たに「安国殿」を建立しました。
 「黒本尊」は当山の秘仏で、正月、5月、9月の各15日、年3回行われる祈願会の時だけ御開帳されます。また両脇陣には、家康公肖像画、徳川家位牌、和宮像、聖徳太子像、仏舎利などが祀られており、庶民の信仰の中心として親しまれています。

  安国殿
徳川家康公の念持仏として有名な、秘仏「黒本尊阿弥陀如来」が祀られています。黒本尊は家康公が深く尊崇し、そのご加護によりだび重なる災難を除け、戦の勝利をおさめ、天下統一の大願を成就したという霊験あらたかな阿弥陀如来像で勝運や、厄除けの仏様として江戸時代以来、広く人々の尊崇をあつめています。

Enshrined in this building is the Black Image of Amida Buddha,which was deeply worshiped by Ieyasu Tokugawa,the 1st Tokugawa Shogun.Since the Edo Period,it has been widely revered as a Buddhist image which brings victory and wards off evils.For this reason,it also used as a prayer hall.


所在地 港区芝公園4-7-35 (増上寺)

開山堂  開山上人をお祀りしています。
         (image of Shoso Shonin,the founder)


所在地 港区芝公園4-7-35 (増上寺)

 港区指定有形文化財(建造物)
増上寺景光殿(旧広書院)表門
         平成17年(2005)10月25日指定

 桟瓦葺の屋根を持つ一間一戸の四脚門(平唐門形式)です。一時期、明治42年(1909)の火災により移転した護国殿の中雀門として、三解脱門を入った左手に立地していましたが、建築当初の位置は明らかではありません。現在地には昭和53年(1978)に移築されました。
 正面の蟇股には表裏両面に三葉葵紋が刻まれ、側面の蟇股は内側のみに葵紋が彫られ、外側は板状となっています。また、鬼瓦と留蓋瓦にも葵紋が付されます。
 虹梁絵様の形は十七世紀末から十八世紀前記の特徴を示し、増上寺水盤舎(清揚院霊廟から移築)のものに類似しています。徳川家光次男、甲府宰相綱重(1644~1678、法名清揚院殿)は、宝永2年(1705)に伝通院から増上寺に改葬されており、この門も近い時期に建てられたと考えられます。
 本建築は、徳川家菩提寺として隆盛を誇った増上寺の往時の華麗さを伝える数少ない遺構の一つとして貴重です。
 平成17年(2005)10月25日 港区教育委員会



所在地 港区芝公園4-7-35 (増上寺)

東京都指定有形文化財
 増上寺経蔵
     大正10年(1921)4月指定



 増上寺は明徳4年(1393)酉誉聖聡により武蔵野国豊島郡貝塚(現千代田区)に浄土宗の正統念仏伝法道場として創建され、慶長3年(1598)現在地に移転しました。慶長10年(1605)から増上寺は幕府により浄土宗教義に基づく本堂・三門・経蔵・表門。方丈・学寮・諸堂などを配置した大伽藍が造営され、やがて徳川将軍家の菩提寺、浄土宗の関東十八壇林の筆頭に就き、浄土宗宗教を総括する総録所となりました。
 経蔵は慶長10年(1605)に創建され、天和元年(1681)12月に改造移築し、さらに享和2年(1802)6月現地に移しました。構造は土蔵造、白壁仕上げ、一重、屋根宝形瓦葺き、四方に銅板裳階付き、建坪42.24坪(139.66㎡)、軒下高さ21尺(6.36m)。経蔵内部には、中央に軸を立て八面の経巻棚を設け、これに経巻を納め、事由に回転できる八角形の木造輪蔵を安置しています。これには徳川家康が寄進した宋版、元版、高麗版の大蔵経(重要文化財)が格納されています(現在は別に保管されています)。
 平成22年(2010)3月建設  東京都教育委員会



             Zokp-ji Kyozo
Zojo-ji was founded by YuyoSousyo in 1393 as Jodo-sect orthodox dojo for Buddhist invocations of Jodo-sect in Musashinokuni Toshimagun Kaizuka(Vhiyoda-ku).Since 1598,it was relacated to its current place.In1605,based on the Jodo doctrine,it was extended by the Edo government to a Dai-garan(temple complex)consisting of main building,Sanmon(enlightenment gate),Kyouo,Omotemon(main gate),HOujou(residence),dormitories and other small buildings.Once Zojo-ji became the family remple of TokugaswaShogun and the mosr important among 18 Jodo-sect study-temples in Kanto area,religious and political decisions of Jodo-sect were made there,KYouzo was constructed in 1605,relacated and remodelled in Desember 1681 and finally mobed to its current place in June 1802.Kyouzo contains wooden octahedralsutra storagetural  shelves that smoothly revolve around the central pillar.Sou,Gen and Kourai editions of Daizoukyo (Sutra in China),which were donated by Ieyasy Tokugawa,were kept in those shelves (They are Important cultural properties,and are currently kept in a different place).


所在地 港区芝公園4-7-35 (増上寺)

港区指定有形文化財(建造物)
 増上寺黒門(旧方丈門)
     昭和55年(1980)11月15日指定



 増上寺の方丈(庫裡)の表門であったので方丈門とよばれ、また全体が黒漆塗であたために黒門ともよばれた。
 四脚門で、建造年代を明らかにする棟札などの記録は見出せないが、江戸時代初期の特徴を示す様式から17世紀後半のものと推測される。
 蟇股には唐獅子や牡丹が浮彫されていて、精巧で写実的な図柄は、近世の建築彫刻の特色を示している。長年の風蝕のため、古色をおびているが、桃山建築の豪華さのおもかげがうかがえる。
 東京都港区教育委員会



所在地 港区芝公園4-7-35 (増上寺)

   佐瀬得所遺徳之碑

遺徳之碑為佐瀬得所翁建也翁書師耳何曰遺徳翁有師道焉既歿而人不能故也翁会津人幼嗜書甞赴長崎與清客銭少虎江元曦等論筆法後遂航清国遍訪名家質正研鑽二年而還寓東京名振弟子益進其所書脩斎廉節四字會経  御覧賜描金梅花筆一書金龍墨雨笏蓋異敷也翁於是命居曰梅龍書屋張宴於河東一樓大会賓客拝観  御賜席上作鷲龍二字方一丈有餘腕力勁健溌墨淋林檎観者驚歎翁於書無所不学而尤喜欧陽率更趙松雪與清人遊遂大有所悟能成一家為人楽易真率未甞毀誉人可否時事常以揮麗自娯忘栄枯得喪故其書亦沖澹幽雅無怒張之気脩之態官左院無幾罷去専以教授為業及門殆二千人緋素摺帖満室堆案翁起臥其間日夜不停筆持摸本来者口講指書眩暈腕痺猶不肯休蓋不肯休蓋篤嗜所存不自知其為労然終以此獲疾至不起明治十一年一月二日也年五十七翁既不誇技能誨人諄偲偲俯就泛應終始弗渝以故門人親愛之如父母及歿謀建碑於三縁山麓以予與翁有舊来乞碑文師道之廃也為師者不知所以教弟子為弟子者不知所以学既学矣又不知所以報朝則師弟夕為路人背憎陰詆往往操戈入室鳴呼甚矣風俗之趨汚下凡百学芸莫不皆然惟翁至性所感門人小子没世不忘幾乎有廬家服喪之思語云誨人不倦翁近之詩云無徳不服門人有焉然則翁之與門人道也進乎枝矣
明治十一年戊寅四月  一等編修官従五位重野安繹撰文
善用我法能為人師道進乎技豈惟工書惜余来之遅不及見之噫
大清光緒四年戊寅夏五月殻旦
欽差出使大臣何如璋撰銘 出使随員沈文篆額


所在地 港区芝公園4-7-35 (増上寺)



 港区指定天然記念物
 増上寺のカヤ
     昭和55年(1980)11月15日指定



 目通り(地上1.5メートルの高さ)直径1.3メートル、周囲約4メートル、樹高25メートルを超える独立樹。推定樹齢600年。
 増上寺の建立時の記録をはじめ、現在までに記載された文書はないが、このことはこのカヤが移植されたものではなく、古くからこの地に自生する自然木として貴重であるばかりでなく、巨樹としても全国的に有数なものと思われる。
 本来カヤは、暖帯の植物で、関東地方を自生の北限として分布する針葉樹であり、分布の北限に近い港区内にこの大きさで残存していることは、貴重である。
 東京都港区教育委員会



所在地 港区芝公園4-7-35 (増上寺)

 大納骨堂は昭和8年(1933)に建立されました。御本尊は高村光雲氏作をもとにした地蔵尊像です。
 戦災の難を逃れた数少ない建造物で、昭和55年(1980)に現在地に遷座、開眼供養が厳修されました。
 堂内には有縁無縁のご本骨、ご分骨が納められ、狛犬に守られてお祀りされています。
  増上寺


所在地 港区芝公園4-7-35 (増上寺)

 幕末の劇的な次代を生き抜いた徳川家14代将軍家茂公正室、皇女和宮さまゆかりの茶室。
 昭和55年(1980)に移築・改修されました。
 その際に和宮さまの戒名『静寛院宮贈一品内親王好譽和順貞恭大姉
から『貞恭庵』とつけられました。
 四畳半の二間の茶室からなる建物です。
 増上寺では和宮さまの遺品と伝えられている袈裟、琴、手紙、漢詩の書掛軸などを所蔵しています。



  Teikyo-an
A tea house related to imperial Princes.(Wife of Shogun Iemochi)


所在地 港区芝公園4-7-35 (増上寺)

土木建築事業ハ一國文化ノ象徴産業ノ先躯ニシテ厥ノ能ク山岳ヲ貫キ雲閣ヲ築クや固ヨリ険ヲ犯シ危キヲ怖レス斯ノ高業ニ従フモノ洵ニ平和ノ戦士トモ謂フベシ而シテ不幸ソノ職ニ殪レシモノ豈ニ其ノ英霊ヲ祀リ其ノ幽魂ヲ慰メスシテ可ナランヤ茲ニ全國同業者ノ寄進ニ依リ慰霊塔ヲ建立シテ永ク其ノ菩提ヲ弔ハントス
  昭和12年(1937)3月21日 
     日本土木建築請負業聯合會



所在地 港区芝公園4-7-35 (増上寺)

 この御堂は平成23年(2011)宗祖法然上人800年御忌を記念し、総本山知恩院門跡第八十六世中村康隆猊下と当山法主第八十七世成田有恒台下との尊い結縁が実を結び、時の執筆長江口定信上人が実務を担当、続いて楠美執事長が後を襲ぎ、平成18年(2006)11月25日知恩院より法然上人の御廟の御浄砂を拝領しました。成田台下は直ちに「御身柄(おみがら)」と命名、この縁を承け奉安する御堂の建立を発願し、平成21年(2009)9月に竣工しました。
 圓光寺大師堂の概要は木造平屋建、妻入入母屋造本瓦葺、向拝軒唐破風付、間口四間(約8m)、奥行は裏堂を含み八間(約13.5m)、高さ9.5mの御堂です。
 法然上人の御身柄が奉安されております。



  Enkodaishido (temple erected)
The remains of Honen Shonin are enshrined.


所在地 港区芝公園4-7-35 (増上寺)

 昭和49年(1974)、浄土宗開宗800年の記念事業として戦災に遭った本堂を再建しました。
 「大殿」と称し、間口二十六間余(約48m)奥行二十五間余(約45m)高さ七丈半余(約23m)総面積は10,535㎡という大きさの大本堂です。
 石段を登りきった2階に本堂、3階に道場、1階に檀信徒控室、地価に三縁ホールなどを備えています。
 本堂には、ご本尊の阿弥陀如来(室町期作)、両脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の御像が祀られ、参拝される方々の厚い信仰をあつめています。


所在地 港区芝公園4-8-11 (芝東照宮) 



  星野高士句碑

「人にまだ 触れざる風や 朝桜」

「長編の 虚子の一書を 読始」

「法師蝉 鳴いてゐる木と すぐわかる」



 星野高士句碑建立記念俳句

  発起人

「咲き満ちて宮居に句碑に花明り」静雄

「歳月は美しきかな梅ひらく」酒井郁子

「日脚伸ぶけふの宴はタンシチュウー」檀太郎(俳号 旦士)

「小夜時雨遣らずの雨ととヾめらる」西川阿舟

「坂道の終わりの空の山椿」中島信也(俳号 新)

「絵巻めく東照宮の花吹雪」桂

「木の実独楽父にはいつも敵はざり」川崎城春

「残したき言の葉ばかり宮乃春」高橋カ女

「これよりは宮の小鳥に遊ぶ句碑」石川墨水世

「高士句碑■る楽しみも■■■」 ■■みはら

「初蝶は立子の使者よ句碑披き」中村代詩■

「夕映えの雲をふちどる街の冬」森みち子

「■や虚子の御心つなぐ句碑」小島昭子

「雪解や我が高士■の句碑建つぞ」■お■■

「句碑涼し関八州をそびらにし」長尾光風

「マイウェイ声高らかに年志」奥佳士朗

「結び目をほどくときめき懸想文」森孝子


所在地 港区虎ノ門1-2-7 (虎ノ門金刀比羅宮)

 港区指定有形(建造物)
虎ノ門金刀比羅宮の銅鳥居
     平成13年(2001)10月23日指定



 この銅鳥居は、虎門外の讃岐丸亀藩京極家(約5万石の大名)の江戸屋敷に勧請された金毘羅宮(現金刀比羅宮)の鳥居です。文政4年(1821)10月に奉納された明神型鳥居で、「金刀比羅大神」の扁額が掲げられています。円柱には青竜・玄武・朱雀・白虎の霊鳥・霊獣が飾られ、下部には奉納関係者の名前が刻まれています。願主・世話人の多くは芝地域の商人と職人でしたが、江戸市中の地名・人名もみられます。
江戸出は諸藩邸の神仏を一般に公開し、賽銭収入も期待されていたようです。
 江戸庶民の信仰を反映したこの派手な鳥居は、当時の人々の宗教的・文化的活動の実態を示す貴重なものです。 
  港区教育委員会



所在地 港区虎ノ門1-2-7 (虎ノ門金刀比羅宮)

港区登録有形民俗文化財
虎ノ門金刀比羅宮の百度石
     平成9年(1997)3月11日登録



 百度石は、いわゆる「お百度参り」の際に用いられたもので、神殿とこの石の間を往復して願掛けをしました。願掛けの一種である「お百度参り」は、江戸時代に盛んに行われましたが、特に都市部に目立つ個人祈願の一形態で、その多くは病気治癒の願掛けであったといわれます。
正面に「百度石」、背面には「大願成就 願主□心道 元治元甲子年(1864)12月吉日」の銘があり、願がかなえられたお礼に建てられたものであることがわかります。
 こうした百度石が保存されているのは、区内では非常に珍しく貴重です。
 港区教育委員会


所在地 東京都港区赤坂6-10-12 (赤坂氷川神社)

港区登録有形民俗文化財
 赤坂氷川神社の力石
     平成7年(1995)3月27日登録

「三十五貫」と切符があるこの力石は、神社境内の土中から発見されたものです。この力石にまつわる話は特に伝わっていません。力石は、腕力や体力を鍛えるために重い石を持ち上げて「力競べ」、あるいは「曲持ち」を行った際に使用した石で、江戸時代には、神社の祭礼などに奉納のため盛んに行われました。区内の力石は全部で14点確認されていますが、ほとんどが海岸沿いの神社に残されているのに対し、この1点だけが海岸から遠く離れたこの地にあり、興味深い例です。
  港区教育委員会


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