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東京都港区の歴史
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所在 東京都港区南麻布3丁目・4丁目

 新しく開かれた坂の意味であるが、開かれたのは、明治20年代と推定される。

          平成19年(2007年)8月 港区



所在 東京都港区南麻布3丁目

 竹ヶ谷の小坂で谷小坂、薬王坂のなまりでやっこう坂、奴が付近に多く住んでいた坂の3説がある。


所在 東京都港区南麻布4丁目・5丁目

 有栖川宮記念公園の場所が赤坂からうつってきた盛岡城主南部家の屋敷であったために名づけられた。(忠臣蔵の南部坂は赤坂)


所在 東京都港区南麻布3丁目

 江戸時代前期、坂上の西部に幕府の御薬園(薬草栽培所・小石川植物園の前身)があった。なまって役人坂・役員坂と呼ぶ。

  平成21年(2009)2月 港区



所在 東京都港区西南麻布5丁目・西麻布3丁目

 坂下近く南側に大名北条家の下屋敷があったために、この名がついた。

 


所在 東京都港区南麻布5丁目

 北側に大名木下家の屋敷があり、その門前に面していたために、呼ばれるようになった坂名である。

     平成7年(1995年)1月 港区



所在 東京都港区南麻布5-7

 < 有栖川宮記念公園 >

位置 港区麻布盛岡町、広尾町

面積 35,601.12㎡

開園 昭和9年(1934年)11月17日



 この地一帯はもと盛岡藩主南部美濃守の下屋敷であったが、明治29年(1896年)有栖川宮家の御用地となり大正2年(1913年)高松宮殿下がこれを受けつがれた。



 殿下は都民の保健に深く心をよせられ多年にわたり小学校の校外教授等に利用させまた一般児童の入園も許しておられたが



 昭和9年(1934年)1月御用地の一部を有栖川宮家の記念として本都に御寄付されたのがこの公園である 本都はその御主旨にそい直ちに造園工事に着手 同年11月これを完工し広く都民に開放したものである。

               東京都


所在 東京都港区南麻布5-7(有栖川宮記念公園)

 有栖川熾仁親王(ありすがわたるひとしんのう)(1935~1895)は有栖川宮家9代目の親王で、明治維新、西南の役、日清戦役ですぐれた勲功をたてられました。その間、福岡藩知事や元老院議長、左大臣、近衛都督、参謀総長などを歴任され、明治28年(1895年)1月に亡くなられました。



 この銅像は大熊氏広作で明治時代の代表的作品の一つとして極めて価値の高い芸術品です。明治36年(1903年)10月10日千代田区三宅坂旧参謀本部構内に建立したものを、昭和37年(1962年)3月1日道路拡幅事業の際、ゆかりの深いこの公園に移設しました。


所在地 港区南麻布3-1-15 (天真寺)

港区指定有形文化財(絵画)
 一の谷・屋島合戦図屏風
      昭和57年(1982)10月30日指定

港区指定有形文化財(絵画)
 絵本着色出山釈迦図
      平成17年(2005)10月25日指定

港区指定有形文化財(古文書)
 松平不昧・月潭書状
      昭和54年(1979)10月23日指定

港区指定有形文化財(歴史資料)
 大巓宗碩関係資料
      平成15年(2003)10月14日指定

港区有形文化財(歴史資料)
 大巓宗碩関係資料
      平成14年(2002)3月15日指定

港区指定文化財(歴史資料及び絵画)
 松平不昧関係遺品
      昭和58年(1983)10月18日指定
      平成15年(2003)10月14日追加

山道入口には『中山範士之碑』があります。


所在地 港区南麻布3-1-15 (天真寺)

 中山範士之碑
剣道範士中山翁博道歿之十年門弟諸子胥謀建碑頌徳謁文於予按状日翁明治六年二月生金澤市父源之丞二十二年上京就齋藤理則学剣二十四年入根岸信五郎門学神道無念流三十八年開道場於本郷眞砂町養成子弟旁学細川義昌居合術於土佐学内田良五郎杖術於筑前受第六代相傳大正二年受無念流第七代相傳九年受大日本武徳剣道範士居合道範士之稱號賜一等功労章十一年受居合術第十八代相傳昭和二年受杖道範士號四年奉仕文禮記念天覧試合審判員七年設有信館本部子弟彌衆任宮内海軍警視其他諸官署東大慶應明治其他諸大学師範欧道普及全國二十年終戦之卛収容横須賀拘置所無幾放免三十四年十二月十四日病逝享年八十九葬麻布仙臺阪上天眞寺諡日大雄院殿夢想博道大居士翁性恂和易如村夫子時喜作蘭竹文豪細田剣堂謂予曰後輩知剣之奥者有中山博道剣禅名家現警視廳主席師範無得庵小川刀耕曰中山先輩之剣噫極其妙者歟予與翁有舊初江木欣欣女史篤志文武以杖術聘翁以詩作聘岩渓裳川以經書聘予鼎立當之翁以予為可語杯酒欵談毎慨世道之不振屢問以文事臨此文追憶往時愴然弗克爲情昔佐久間象山敍力士雷電碑自省而泣予亦於是殆欲泣銘曰 剣道之技 勇武絶倫 乾坤義氣 護國精神 嗚呼我翁 維軌維範 術之臻 聿達天覧 草薙之炗 終古焰焰
 昭和四十五年三月二十二日
  雲處 新田興 撰  敬堂 福島正義 書


所在地 港区南麻布

 承応2年(1654)坂の東側へ赤坂から曹渓寺が移転してきた。初代和尚絶江が名僧で付近の地名となり坂名に変った。
 平成5年(1993)10月 港区


所在地 港区南麻布3-21-19 (明称寺) 



                                         本堂



所在地 港区南麻布4-11-25 (光林寺)




港区指定文化財(史跡)
 ヒュースケン墓
          昭和56年(1981)10月24日指定





所在地 港区南麻布4-2-35 (天現寺) 

 多聞山 天現寺

 港区有形文化財(木造)
木造毘沙門天像
      昭和54年(1979)10月23日指定



所在地 港区南麻布4

 江戸時代中期以後、北側に旗本青木氏の屋敷があったために呼ばれた。
  平成9年(1997)9月 港区


所在地 港区南麻布4

 江戸時代からあった富士見坂(青木坂)とは別に明治末、大正ごろに開かれた坂で富士がよく見えるための名であった。
  平成21年(2009)2月 港区



所在地 港区南麻布4-5-61 (広尾稲荷神社)

港区指定有形文化財(歴史資料)
 広尾の庚申塔
         昭和55年(1980)11月15日指定

 庚申信仰は、庚申の日の夜に体内に住む三尸虫が、眠っている間に体内を抜け出して、天帝にその人の罪科を報告して生命を縮めるといわれているため、眠らずに一晩を明かすもので、講の形をとって地域住民の交際の場となっていました。庚申塔は庚申信仰を具象的に表現する塔として、室町時代後期以後各地で盛んに建てられました。 
 三基とも方形角柱の笠塔婆型で、塔身が太く、堂々としています。社殿によれば、広尾稲荷神社の別当寺であった千蔵寺の住持祐道の代に、講の人々の浄財を得て立てられたものです。三基のうち、中央には元禄3年(1690)、左には元禄9年(1696)の年号があり、右は摩滅のため年代不詳ですが、状況から左の二基よりも古い可能性があります。庚申信仰が全国的に盛行している時代の産物であり、この地域も例外ではなかったことがわかります。
 庚申信仰の実態は、この地域ではすでにほとんど失われ、過去の組織の状況を伝えるものも全くありませんが、さまざまな要素を合成しながら、自主的な民間信仰として、庶民の間に行われてきまたものであり、都心化したこの地域での、かつての信仰のあり方を想起させる遺物として、三基の庚申塔は貴重な存在となっています。
 昭和55年(1980)11月15日指定
 (平成22年〔2010〕3月建替) 港区教育委員会


所在地 港区南麻布4-5-61 (広尾稲荷神社)

 港区指定有形文化財(絵画)
拝殿天井墨龍図 高橋由一筆
             平成12年(2000)10月24日指定


                                         拝殿

 拝殿天井のほぼ全体にわたる大きな画面に、水墨の戦と濃淡のぼかしを巧みに活かし、頭から尾の先までを円状にくねらせながらその姿を現す一頭の龍が生き生きと描かれています。図中には、「藍川藤原孝経拝画」の署名と「藍川」の印章(朱文方印)が見られます。
 「藍川」の号は、西洋からもたらされた油絵の抜法をいち早く取り入れ、近代日本洋画最初の画家として歴史的な評価をうける高橋由一(1828~1894)が、絵画学習の基礎として狩野派の様式を学び、その画法によって水墨画を描いていた時期に使用していたものです。由一が狩野藍川孝経の落款を残す現存作品は極めて稀です。
 広尾稲荷神社は、弘化2年(1845)1月24日、青山から麻布一帯を焼いた「青山火事」によって社殿を焼失しましたが、弘化4年(1847)に再建されました。拝殿の墨龍図は、このときに描かれたものと考えられます。製作年代がほぼ特定できる作品としても貴重なものです。
 平成12年(2000)10月24日 港区教育委員会



                                  拝殿天井墨龍図


所在地 港区南麻布3-12

 古川を南に望む台地の端と斜面にあるとされる貝塚です。ハマグリ・サルボウなど海水産の貝殻からなる縄文時代前期の貝塚です。当時は海水がこのあたりまで入り込んでいたことを示しています。土器の形式としては黒浜式・諸磯式が多く出土しています。
 旧町名で本村町、今の南麻布3丁目の広い地域に広がっていたと考えられますが、近年の台地上の数ヶ所での試掘調査では、貝塚はまったく確認されていません。
 古川の谷を望む台地の南斜面で、日当たりもよく、原始・古代から生活の適地であったと考えられますが、現在では開発が進み、その痕跡をわざかながらも伝えるのはここだけになってしまいました。
 昭和48年(1973)3月 (平成19年〔2007〕8月立替)
 港区教育委員会


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