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東京都港区の歴史
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所在 東京都港区赤坂1-1-1先

 溜池は江戸時代のはじめ、江戸城の防備を兼ねた外堀兼用の上水源として作られ水道の発祥地ともなり、徳川秀忠時代には鯉、鮒を放し蓮を植えて上野の不忍池に匹敵する江戸の名所となった。徳川家光は遊泳したとも伝えられ、江戸後期には日枝神社より赤坂4丁目に通じる料金を取った銭取橋が架設され「麦とろ家」数軒と出店で、にぎわったと云われる。

 明治8年(1875年)より埋め立てに着手し明治44年(1911年)に完成したが、明治21年(1888年)12月には赤坂溜池町が創立され、明治42年(1909年)に市電が開通し、大正10年(1921年)5月に正式な町会として溜池町会が発足し、溜池角の小松ビルは元は演伎座と云う芝居館として人気を煽り東京オリンピック以後はビル街として発展し、町会名も「赤坂溜池町会」と改称し今日に到り、地下鉄新駅「溜池山王駅」の開通を記念し建立とした。(赤坂溜池町会・文責)

     平成9年(1997年)8月吉日  東京都 港区
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所在 東京都港区赤坂8-11-32 (旧乃木邸)

 正馬壽号は「ステッセル」将軍の愛用した「アラビヤ」産の牡馬で明治38年(1905年)1月15日水師会見の際に乃木大将に贈らんとしたが大将はその志を謝し直ちにこれを受けとることは軍規の許さない事なので後日約してこれを「壽」号と名づけて戦役中乗用し凱旋後拂い下げを受け自分の馬として愛用した。
 大将は壽号を明治39年(1906年)末に種馬として鳥取県赤碕町佐伯友文氏に贈られた。後大正4年(1915年)5月同氏より島根県隠岐島村上寿夫氏に贈られ海士村渡辺淳三氏で飼育中大正8年(1919年)5月27日に終命した。馬齢23歳でその仔馬は20余頭に及んでいる。副馬「璞(あらたま)」号は去勢馬で仔馬なし


所在 東京都港区赤坂8-11-32 (旧乃木邸)

港区有形文化財(建造物)
 旧乃木邸及び馬小屋
        昭和62年(1987)10月28日指定

 旧乃木邸は、明治35年(1902年)に新築されたもので、乃木希典大将夫妻が大正元年(1912年)9月13日、明治天皇御大葬の日、明治天皇に従って殉死するまでここに住んでいた。将軍が、ドイツ留学中に見たフランス軍隊の建物を模範にして建てたというもので。明治期の洋風建築が接客を目的とする豪華な建物か、和風住宅に洋風の応接室を付属させたものが多いのに比べこの邸宅は、軍人の家らしく、飾り気がなく簡素で合理的に作られている。建坪は168㎡、木造平家建、日本瓦葺で、傾斜地を巧みに利用し、建物全体に半地下構造をもつ。



 馬小屋は、平家建、日本瓦葺で、邸宅が新築される以前、明治22年(1889年)に建てられた。間口約12.5m、奥行約4.5mの細長い建物には、四つに区画された馬房や、馬糧庫等がある。住居が木造であるのに対し、馬小屋が煉瓦造で立派だ、という評判のあったもので、馬をかわいがり大切にした大将の人柄が偲ばれる。
  昭和62年(1987年)10月28日 港区教育委員会


所在 東京都港区赤坂8-11-32

 港区指定有形文化財(建造物)
旧乃木邸及び馬小屋
           昭和62年(1987)10月28日指定

 乃木邸は明治12年(1879年)に買い求め、明治35年(1902年)に改築されたものです。此の建物は明治19年(1886年)にドイツ留学中、フランスの陸軍訪問の折にスケッチした連隊本部を参考に建てられています。



 乃木将軍は言うまでもなく日清、日露の両役に武功輝き又高風清節徳望高き人格者として一世の崇敬をうけた。
 将軍大将従二位勲一等功一級伯爵に敍せられ晩年明治天皇の思召によって学習院長に任ぜられ専ら華胃子弟の薫育に盡したが大正元年(1912年)9月13日明治天皇御大葬の当日64才を一期として殉死し静子夫人も共に自刃した。
 将軍の殉死せらるるや遺言して自邸を東京市に寄付せられた。時の東京市長男爵阪谷芳郎は中央乃木会を設立してその旧邸を保存し、また隣接に乃木神社も建立した。



 将軍は嘉永2年(1849年)11月11日麻布日ヶ窪の長府藩主毛利候邸に於て生れ(少年乃木無人所載年譜)安政5年(1858年)11月将軍10才の砌り一家と共に長門国長府に移った。幼名を無人とよび慶応2年(1866年)6月18才の折文蔵と改名した。明治2年(1869年)11月21才の時藩命により沸式錬兵教習のため伏見御親兵営に入隊しその後京都市河東錬兵場御親兵錬武掛を命ぜられ又豊浦藩陸軍練兵教官として鎮台兵の教育に盡したが明治4年(1871年)11月23才の時に陸軍少佐に任ぜられ名を希典と改めた。
 明治8年(1875年)27才の時熊本鎮台歩兵第14連隊長心得となり明治10年(1877年)には西南の役に従軍4月22日中佐に任ぜられた。
 将軍の父希次は、同明治10年(1877年)10月東京に於て病没した。
 翌明治11年(1878年)1月26日熊本鎮台参謀を免ぜられて歩兵第1聠隊長となり、8月27日薩摩藩士湯地定之の四女静子と結婚したが夫人は時に20才であった。
 当時将軍は、芝桜川町に住んでいた。(山路愛山著「乃木将軍」)
 翌明治12年(1879年)8月28日長男勝典が生れ11月に新坂町55番地に初めて邸宅を設けたのである。
 明治13年(1880年)4月大佐に進み翌明治14年(1881年)12月次男保典が出生した。その後ドイツ留学、日清、日露両役に従軍、英国皇帝の戴冠式参列等の事があり、その間 那須別邸に自適されたこもあったが本邸は依然として此地に在り、明治12年(1879年)以来34年間に及んだ。



 本旧邸は、素朴高潔であった。将軍の日常を偲ぶのに最も良き記念物である。
 因みに長男勝典中尉は、明治37年(1904年)南山総攻撃に於て戦死し、次男保典中尉は、同昭和37年(1904年)11月30日歪頭山に於て戦死した。時に長男は26才、次男は24才であった。
 大将夫妻 及び両息子の墓はともに青山墓地にある。

 旧邸内敷地には『厩(うまや)』、『水師営棗の樹の孫』、『瘞血之處碑』、『乃木大将と辻占売少年像』、『歌碑』、『愛馬用井戸』があります。


所在 東京都港区赤坂8-11-32 (旧乃木邸)

  < 棗(なつめ)の標 「 水師営棗の樹の孫 」 >


所在 東京都港区赤坂8-11-32 (旧乃木邸)

 今に伝えられる「乃木大将と辻占(つじうら)売りの少年」の話は、明治24年(1891年)、乃木希典が陸軍少将の時代、用務で金沢を訪れた折りのことです。希典は金沢で偶然、当時8歳の今越清三郎少年に出会います。今越少年は、辻占売りを営みながら一家の生計を支えていました。この姿に感銘を受けた希典は、少年を励まし、金弐円を手渡しました。今越少年はこの恩を忘れることなく、努力を重ね、金箔業の世界で大きな実績を積み上げました。
 この銅像は、こうした乃木希典の人となりを伝えるものとして、昭和43年(1968年)に旧ニッカ池(六本木6丁目)の縁に造立されましたが、このたび旧ニッカ池周辺が整備されることになり、希典所縁のこの地に移建されました。
   平成13年(2001年)9月


所在 東京都港区赤坂7-3-39



 この高橋是清翁記念公園(たかはしこれきよおうきねんこうえん)は、日本の金融界における重鎮で大正から昭和初めにかけて首相、蔵相などをつとめた政治家『高橋是清』翁{安政元年(1854年)~昭和11年(1936年)}の邸宅があったところです。



 翁は、昭和11年(1936年)2・26事件によりこの地において83歳で世を去りました。翁の没後、昭和13年(1938年)10月高橋是清翁記念事業会がこの地を当時の東京市に寄附し、昭和16年(1941年)6月東京市が公園として開園しました。その後、昭和50年(1975年)港区に移管されたものです。第二次世界大戦の空襲により翁ゆかりのある建物は焼失してしまいましたが、母家は故人の眠る多摩霊園へ移築されていたため難を免れ、現在は都立小金井公園にある江戸東京たてもの園へうつされています。戦時中撤去されていた翁の銅像も昭和30年(1955年)に再建されました。



 現在の面積は5,320㎡で、国道246号線の拡幅等により開園当初よりやや減っていますが、和風庭園はほぼ当時のままの姿で残されています。



 園内は池を中心として石像や石灯篭が配置され、樹木はかえで、もっこく、うらじろがし、くすのきなどたくさんの種類があり落ち着いた雰囲気をかもしだしています。

     平成7年(1995年) 港区



所在 東京都港区赤坂7-3-39(高橋是清翁記念公園)

 明治初年の地方制度は、いくたびか改正のくり返し続いたが、明治11年(1878年)7月22日、近代地方自治の歴史上画期的な、郡区町村編成法などの公布によって、同年11月2日、東京は15区6郡に区画され、区会も設けられた。

 その時、現在の赤坂・青山の地域が赤坂区として誕生し、最初の赤坂区役所が赤坂表町3-5(現在赤坂7-2)に置かれ、同年11月4日に開庁した。初代区長は翌明治12年(1879年)1月、島津忠亮が任命された。

 赤坂区役所はその後、表町1丁目などに移り、さらに明治24年(1891年)に現在の港区役所赤坂支所の位置に移った。

 なお、芝・麻布・赤坂区は、昭和22年(1947年)3月15日、統合されて港区となった。

  昭和49年(1974年)1月 東京都港区教育委員会


所在 東京都港区赤坂1・2丁目

 溜池は、江戸時代のはじめ、徳川家康に恩義を感じた大名浅野幸長が、進んで、赤坂見附御門とともに築造した外堀兼用の上水源であった。

 今の虎ノ門交差点の西方に、家臣矢島長運らが苦心して築いた堰堤(ダム)によって溜められた水は、赤坂見附口まで及び、鯉鮒を放し、蓮を植えて、上野の不忍池に匹敵する江戸の一名所となった。

 明治維新後は、渡し舟を通じ、さらに銭取橋を架けた 明治15年(1882年)に、今の特許庁付近に工部大学校を建設するため、ドンドンと呼ばれた水の落し口を広げると、急速に水が減少し、沼となり湿地となり、やがて埋立てて小川となり溝となり、大正時代には暗渠となって、地上から姿を消した。名残りの溜池町の町名も、昭和41年(1966年)には赤坂1・2丁目となった。

     昭和53年(1978年)1月 東京都港区教育委員会


所在 東京都港区赤坂6-5-4

 江戸時代前期、この公園付近には広島藩浅野家を本家とする浅野家の本・分家の屋敷があり、赤穂藩浅野内匠頭の屋敷もこの地域にありました。元禄10年(1697年)にはその一部が幕府旗本の屋敷地となり、この公園の土地も旗本屋敷となりました。享保14年(1729年)には三次藩浅野家屋敷跡の一部が氷川神社の宮地と定められ、その門前が赤坂氷川門前町となりました。その後、幾多の土地の変遷を重ね、幕末を迎えました。



 明治2年(1869年)、氷川門前と氷川社僧屋敷、一ツ木町飛地を合併して赤坂氷川町が誕生しました。明治39年(1906年)、新山荘輔の邸宅となっていたこの地を赤坂区が買収し、明治41年(1908年)東京市氷川尋常小学校が開校しました。ところが、昭和4年(1929年)に隣家屋火災により校舎類焼したことから、学校は勝海舟亭跡の旧氷川小学校の地に移転しました。昭和10年(1935年)8月28日、同小学校の移った跡地を公園として開設しました。その後、昭和25年(1950年)10月1日東京都より移管を受け、港区が管理を行っています。

          赤坂地区総合支所地区協働推進課



所在 東京都港区赤坂6-10-39

港区登録文化財(旧跡)
 勝海舟邸跡
          平成8年(1996)3月27日指定

 港区赤坂6-10-39の「ソフトタウン赤坂」が建つこの地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟が安政6年(1859年)から明治9年(1868年)まで住んだ旧跡である。
 海舟は終生赤坂の地を愛し、三ヶ所にに住んだが、当所居住中の10年間が最も華々しく活躍した時期に当たる。
 海舟は号で、名は義邦。通称麟太郎、安房守であったから安房と称し、後に安芳と改めた。夫人は民子。
 海舟は文政6年(1823年)、本所亀沢町の旗本屋敷(現墨田区両国4丁目の両国公園の地)で、貧しい御家人の子として出生。長じて赤坂溜池の筑前黒田藩邸(のちの福吉町、現赤坂2丁目の赤坂ツインタワービルや衆議院赤坂議員宿舎などの地)に通って蘭学を学び、その縁から新婚23歳で赤坂田町中通り(現赤坂3丁目13番2号のみすじ通り)の借家で所帯を持った。
 36歳からは赤坂本氷川坂下(もとひかわさかした、のちの氷川町)にのこの地に住んだ。
 明治元年(1868年)45歳で、引退の徳川慶喜に従って、ここから静岡市に移ったが、明治5年(1872年)再び上京し、満76歳で亡くなるまで赤坂区氷川町4番地(現赤坂6丁目6番14号)に住み、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら氷川清話などを残した。この時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成5年(1993年)春まで区立氷川小学校敷地として使われた。
 当所に住み始めた翌年の安政7年(1860年)、幕府海軍の軍艦頭取(威臨丸艦長)として上司の軍艦奉行木村攝津守、その従僕福沢諭吉らを乗せ正使の外国奉行新見豊前守を乗せた米艦ポーハタン号に先行して渡航、日本の艦船として初めて太平洋横断・往復に成功した。
 文久2年(1862年)11月、海舟を刺殺しようとして訪れた旧土佐藩士坂本龍馬らに、世界情勢を説いて決意を変えさせ、逆に熱心な門下生に育てて、明治維新への流れに重要な転機を与えることになったのもこの場所である。
 明治元年(1868年)3月には、幕府陸軍総裁として、官軍の江戸城総攻撃を前に征討総督府参謀西郷隆盛と談判を重ね、無血開城を決めて江戸の町を戦火から救った。
 第一回会談は高輪の薩摩藩邸(品川駅前の、のちの高輪南町、現港区高輪3丁目のホテルパシフィックの地)で行われた。第二回については柴田町薩摩藩邸(のち三田四国町、現港区芝5丁目芝税務署辺りの地)または、三田海岸の薩摩藩蔵屋敷の表側にある民家(現港区芝5丁目の三菱自動車ビル周辺)で行われたとの両説がある。いずれも当所居住中のことである。



 明治維新では、明治元年(1868年)5月、海舟の留守中に一部の官軍兵士がここの勝邸に乱入したが、海舟の妹で佐久間象山未亡人の瑞枝(旧名・順)が家人を励まして一歩も引かずに応対し、危急を救った。
 海舟は終生赤坂の地を愛したが、郊外の風光にも惹かれ、初めは葛飾区東四ツ木1丁目に次いで洗足池畔の大田区南千束1丁目現大田区立大森第六中学校の地に別邸を設けた。墓は洗足池に面して造られ、自ら建てた西郷隆盛を偲ぶ碑と共に大田区文化財に指定されている。

     平成7年11月吉日 ソフトタウン赤坂理自治会

               撰文 伊波新之助
               協賛 勝海舟顕彰会
               協力 港区郷土資料館


所在 
東京都港区赤坂6-10-12



 < 御祭神 >
素盛鳴尊(すさのおのみこと)
奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
大己貴命(いいなむぢのみこと)(大国主命)



 < 創祀 >
天暦5年(951年・村上天皇)武州豊島郡
人次ヶ原(赤坂4丁目一ツ木台地)に創祀



 < 遷座 >
徳川8代吉宗公が将軍職を継ぐに至り、享保15年(1730年)老中水野忠之に命じ造営



 < 年中行事 >
◎月次祭 毎月1日
1月 元旦-歳旦祭(さいたんさい) 上旬-成人祭
2月 3日-節分祭 11日-紀元祭 17日-新年祭
4月 15日-四合稲荷祭 下旬-末廣稲荷祭
5月 5日-子供の日の祭 下旬-西行稲荷祭
6月 30日-大祓式(おおはらえしき)(夏越の大祓・茅ノ輪くぐり)
9月 14日-前日祭 15日-例大祭(隔年神幸祭)
10月 上旬-包丁塚祭
11月 15日-七五三祝祭 23日-新嘗祭(にいなめさい)
12月 23日-天長祭 31日-大祓式(おおはらえしき)(年越の大祓)



 < 氏子区域 >
元赤坂1・2丁目
赤坂1~9丁目
六本木1・3・4丁目
虎ノ門1丁目



< 祈願(個人) >
初宮詣・七五三・厄祓・心願成就・交通安全・家内安全・入居祓・祖霊祭・神葬祭 その他



 < 祈願(法人) >
社運隆昌・事業成功・商売繁盛・移転清祓・開店祓・舞台成功・地鎮祭・工事安全 その他



 < 神前結婚式 >
赤坂の縁深き文化財の本殿にて神前結婚式が出来る。雅楽の生演奏もあり、格式高い厳かな挙式が可能。



港区指定有形文化財(古文書)
 徳川将軍家朱印状
     付目録・条目・写し
           昭和62年(1987)10月28日指定

港区指定有形文化財(古記録)
 御祭礼番附留
             平成3年(1991)10月9日指定

港区登録有形文化財(歴史資料)
 旧紀州家 櫓太鼓
             平成10年(1998)4月9日指定

港区指定有形民俗文化財
 祭礼山車行列額絵
            平成11年(1999)10月12日指定



 境内には『氷川神社のイチョウ(港区文化財)』、『包丁塚(港区文化財)』、『石灯籠(港区文化財)』、『『ま』組火消し絵馬(港区文化財)』、『赤坂氷川神社の社殿(東京都文化財)』、『奉納絵馬七点(港区文化財)』、『力石(港区文化財)』、『
苗村翁頌徳碑』、『浅野土佐守邸跡』、『四合稲荷神社』、『西行稲荷社』があります。


所在 東京都港区赤坂6-10-12 (赤坂氷川神社)

港区指定文化財(天然記念物) 
   赤坂氷川神社のイチョウ 
              平成6年(1994)9月27日指定



 目通り(地上1.5mの高さ)の幹径約2.4m、幹周約7.5mを測る推定樹齢400年の巨木である。



 氷川神社の記録をはじめ記載された史料はないが、神社が現在の地に建立された享保15年(1730年)には、すでに100年を超える樹齢を有していたこととなり、それ以前からこの地で成育していたと考えられる。



 イチョウは、生きた化石とも言われ、1億5,000万年前には地球上のいたるところで生い茂っていた。氷河期に絶滅しかけたが、中国大陸南東部に残っていたものが、日本に渡ってきたといわれる。落葉性の大木で成長も早く、高さ30mにも成長する。雌雄異株であり、この木は雄株である。



 港区内に現存するイチョウでは最大である善福寺「逆さイチョウ」(国指定天然記念物)に次ぐ大きさと樹齢を保っている貴重な樹木である。
 平成6年(1994年)9月27日 港区教育委員会


所在 東京都港区赤坂6-10-12 (赤坂氷川神社)

    趣意
 そもこの地赤坂青山は、古くより包丁の冴えに世人をして味覚の境地にあそばしむる店多しために、今日が日まで破れ損いし刃物は和洋を問わず
多なり、そを情あつき人々相つどい組合設立二十五周年を期に この因りの地氷川の神域に「包丁塚」を建立し以ってとこしえに感謝の誠を捧げるなり

 衆議院議員 田中榮一 書


所在 東京都港区赤坂6-10-12 (赤坂氷川神社)

 < 御祭神 >

宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)-食物の神、殊に稲の神



 < 御縁起 >

① 古呂故稲荷(ころこいなり) - 赤坂一ツ木2番地、古呂故天神社境内に鎮座

② 地頭稲荷(じぬしいなり) - 氷川神社遷座以前よりの地に鎮座

③ 本氷川稲荷(もとひかわいなり) - 本氷川神社隣接、別当盛徳寺の地内に鎮座

④ 玉川稲荷(たまがわいなり) - 赤坂門外の御堀端、現弁慶橋のあたりに鎮座

 以上、4社を明治31年(1898年)、遷座合祀し、赤坂在住の勝海舟翁により『四合稲荷(しあわせいなり)』と称えられる。 



 大正14年(1925年)に、鈴降稲荷神社(すずふりいなりじんじゃ)(赤坂一ツ木町に鎮座)及び、縁起稲荷神社(赤坂丹後坂下に鎮座)2社を、また昭和9年(1934年)に、明徳稲荷神社(赤坂新町に鎮座)を、遷座合祀し、現在に至る。

 勝海舟翁筆の「四合稲荷社」という扁額が、現存する。



 < 附記 >

 古呂故稲荷神社は、古呂故天神社境内、氷川旧社地(氷川御旅所)に祀られていた稲荷社であって、明治17年(1884年)、氷川旧社地を売却した際、現氷川神社境内へ遷座、のちに四合稲荷に合祀された。

 地頭稲荷神社は、享保年間(1716年~1735年)、現氷川神社遷座以前より祀られていた稲荷社である。

 本氷川稲荷神社は、本氷川神社(昔は溜池付近にあり、のち承応3年(1654年)に、現氷川神社の隣地へ遷座、今井の総鎮守として、住民から尊崇を受けていた)境内の稲荷社で、本氷川神社と共に明治16年(1885年)、現氷川神社境内に遷座、のちに四合神社稲荷に合祀された。

 玉川稲荷神社は、水道方玉川庄右衛門の邸内社だったとする説もあるが、御神体が玉川上水に流れ来た故に、玉川稲荷と称したものと推定される。明治21年(1888年)、現氷川神社境内に遷座、のちに四合稲荷に合祀された。



所在 東京都港区赤坂6-10-12 (赤坂氷川神社)

  正一位 西行稲荷社縁起

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 文政年間(1816年~1830年)、町方書上の赤坂田町4丁目より録写したところによれば、町内自身番屋敷地内に古来からあった祠堂(しどう)で本社は六尺に七尺五寸、拝殿二間四方で前方に三尺に六尺の向拝(こうはい)がありました。



 勧請(かんじょう)の由来は、年代不詳(享保年間ともいう)、田町5丁目に西行五兵衛と異名をもつ男あり、榎坂(えのきざか)を通行中、甲冑(かっちゅう)を帯し弓箭(きゅうせん)を携え、狐の形をしている三寸程の鉄像をひろいとったが、稲荷の御神体らしいと云ふので、これを勧請し、五兵衛の異名を以って、西行稲荷と唱えられました。



 明治以降、町の発展に伴い、大正10年(1921年)9月氷川神社境内に移し、別名「火伏の稲荷(ひぶせのいなり)」ともいい、火災除の御神徳があると称されております。

  平成7年(1995年)9月吉日建之 赤坂田町3・4・5丁目町会



所在 東京都港区赤坂6-10-12 (赤坂氷川神社)

  史蹟  浅野土佐守邸跡

浅野内匠頭夫人幽居セル里方ニテ南部坂雪ノ別レトシテ喧傳セラレシ所ナリ

  昭和18年(1943年)3月 東京都


所在 東京都港区赤坂6-10-12 (赤坂氷川神社)  

  苗村翁頌徳碑

赤坂氷川神社ハ享保年間ノ創建ニ係リ神徳無限結構雄大古来江都ノ名祠タリ維新中興ニ當リ神領官ニシ社頭癈頽シテ昔時ノ如クナラズ然モ幾バクナラズシテ舊觀ニ複シ今日ノ盛ヲ致ス是レ固ヨリ神慮ノ致ス所ナリト雖亦以テ産土民戸ノ奉賽ニ依ルニアラズンバンゾ能クノ如クナルヲ得ンヤ特ニ氏子總代苗村又右衛門翁ノ功没スベカラザルモノアリ翁ノ家世世刀ギ翁ニ至ツテ典舗ヲ業トス拮据産ヲ積ミ富ヲ重ネク加ハル屢區會議員同議長東京府議員同商工議所議員等ニ推サル常ニ社ヲ景仰シ明治十三年社氏子總代トナリ率先ヲ■テ専ラ力ヲ神社基金ノ増額神域ノ張ニ致ス任ニ在ルコト五十余年敬神ヲ以テ念トナシ終始ラズ神域内外ノ施設一トシテ翁ノ力ニ依ラザルナシ大正六年東京府神職シ客年五月全國神職更に之レヲ表彰ス榮譽大ナリト云フベシ翁既ニ八ヲ過グルモ尚矍鑠トシテ壮者ノ如ク後生ヲ誘指導シテマズ其精力ノ絶倫ニシテ力ノ旺盛ナル眞ニ驚嘆ニ値スルモノアリ徳ヲセズシテ可ナランヤテ聞ク神ハ人ヲツテ徳ヲ尚ヘ人ハ神ニ■ツテ慶ヲ受クト神人合一ノ美徳ニ見ハル翁ノ如キソレニ翁ノ名ヲ耳ニス今人ノ来リテ文ヲ嘱スルアリ敢テセズ乃テ梗概ラ叙スト云爾

昭和十二年九月
社司 柴﨑冝
    羽倉敬尚撰文


所在 東京都港区赤坂6-10-12 (赤坂氷川神社)

港区登録有形文化財(歴史資料)
  氷川神社の石燈籠 4基
                              平成7年(1995)3月27日指定

  

 門外の2基は、遷座の年に岡崎城主水野忠之が奉納したものです。水野忠之は徳川吉宗が行った享保の改革の前半を主導した老中です。幕府財政の建て直しに尽力した人物で、吉宗との強いつながりをこの石燈籠からも伺うことができます。岡崎藩水野家は吉良邸討入後の赤穂浪士9人を三田の中屋敷に預かった家としても知られています。
     港区教育委員会  


所在 東京都港区赤坂6-10-12 (赤坂氷川神社)

港区指定有形文化財(絵画)
月岡芳年筆『ま』組火消し絵馬
             平成5年(1993)9月28日指定



 町火消し『ま』組の連中が、火事場に向かうところを描き、明治12年(1879年)に氷川神社に奉納された絵馬である。『ま』組は、氷川神社の北東から南側一帯の元赤坂町・赤坂裏伝馬町・赤坂田町・麻布今井町あたりを受け持つ町火消しで、気負い立つ火消したちの姿がいきいきと描かれている。

 筆者の月岡芳年(1839~1892)は、江戸時代末期から明治時代初期にかけて活躍した代表的な浮世絵師で、12才で歌川国芳(1797~1861)の門人となり、美人画のほか歴史画や物語画を描いて浮世絵界に新風を吹き込んだ。その代表作には、「月百姿」などのシリーズがある。

 

 この絵馬は、時代の要求にふさわしい浮世絵版画を数多く残した芳年の肉筆画として、また火消しのありさまを知るものとしても貴重である。
  平成5年(1993年)9月28日 港区教育委員会


所在 東京都港区赤坂6-10-12(赤坂氷川神社)

 東京都指定有形文化財
赤坂氷川神社社殿
           昭和27年(1952)11月8日指定



 この社殿は、本殿・幣殿・拝殿の三つの建物が一体となった、いわゆる権現造の形式です。



 江戸幕府の第8代将軍である徳川吉宗によって享保15年(1730年)に建てられました。吉宗は『享保の改革』と呼ばれる倹約政策をとったことで有名で、社殿にも当時の質実簡素な気風を見ることが出来ます。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたりするのですが、この社殿の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。しかしただ簡素なだけではなく、大きな雲形組物や吹寄せ垂木など軽快な意匠を取り入れる工夫も見られます。また全体は朱漆塗としながら、部分的に黒漆塗や黒色金具を用いることで引き締まった印象となっています。

  平成22年(2010年)3月 東京都教育委員会 




Tangible Cultural Property(Building)
Hikawa-jinja Syaden
1730

  Main building: 3-bay structure with an asymmetrically balanced gable, using ribbed seam roofing coated with copper plate; with cloisters on both sides. Offering hall: 3-bay* wide and 1-bay* deep 
  Worship hall: 5-bay* wide and 3-bay* deep structure with half-hipped roof using ribbed seam roofing coated with copper plate; the hall has further a cloister with railing and a protruding 1-bay structure with an undulating gable at eave ends, using ribbed seam roofing coated with copper plate; entirely painted with vermilion lacquer
  * 1 bay = 1.8m, provided that this measure, as converted into the metric one, varies according to the period

  The shrine buildings are built in a complex or so-called gongen-zukuri style, in which the main building, the offering hall and the worship hall are integrated into a single structure.
 The shrine was built by Tokugawa Yoshimune, the eighth shogun of the Edo shogunate, who was also famous for his Kyoho reforms, a series of frugal measures. The shrine buildings also evidence an unwillingness to decorate and respect for simplicity from the Yoshimune's period. Normally shoguns made donations to shrines and temples by piling up several sets of woodblock prints and decorating buildings with full of sculptures and a variety of colors, but in case of the shrine under this section, sets of prints are simple and sculptures are discreet. However, donators did not seek for simplicity only, and efforts for smart design are also observed, like a large cloud-shaped set of prints and a layout of pairs of rafters, with each pair being spaced apart. Moreover, the buildings are painted as a whole with vermilion lacquer, while black lacquer and black metal fittings are used in part so as to yield a tight appearance.

Tokyo Metropolitan Board of Education
 


所在 東京都港区赤坂6-10-12(赤坂氷川神社南)

 坂途中の東側に本氷川明神があって坂の名になった。社は明治16年(1883年)4月、氷川神社に合祀された。元氷川坂とも書いた。

     平成22年(2010年)2月 港区



所在 東京都港区赤坂6丁目

 江戸時代から道が悪く、通行する人たちがよくころんだために呼んだ。一時盛徳寺横の元氷川坂もころび坂といった。

          平成20年(2008年)2月 港区


所在 東京都港区赤坂6・9丁目

 江戸時代には、檜の水が多いため、檜屋敷と呼ばれた山口藩毛利邸(旧防衛庁・港区立檜町公園)に添う坂であった。

     平成20年(2008年)2月 港区



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