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東京都港区の歴史
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所在 東京都港区三田1,2丁目

 平安時代の勇士源頼光の四天王の一人渡辺綱にまつわる名称である。姥坂(うばざか)とも呼んだが、馬場坂の説もある。

所在 東京都港区三田2

 羅生門の鬼退治で有名な、平安時代の武士渡辺綱(わたなべのつな)が付近に生まれたという伝う。

所在 東京都港区三田2-3-7

 網町三井倶楽部本館は、大正2年(1913年)にイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計で建てられました。
 ジョサイア・
コンドルは明治10年(1877年)に来日し、鹿鳴館(ろくめいかん)銀座煉瓦街をはじめ幾多の建築にたずさわり、建築の分野で日本の近代化に貢献しました。
 
この建物は、三井家の賓客接待用として建てられたもので、ネオ・バロック風の特徴を持ち、室内装飾や家具などに優美な曲線の装飾が見られます。また、建物の背後の庭園もすぐれています。
 
なお、三井倶楽部の敷地は、江戸時代には佐藤土原藩島津家、会津藩保科家(ほしなけ)の屋敷があったところで、かつては前面道路に面したところに大名屋敷の建物を模して近代に建てられた長屋もありました。

  昭和52年(1977)1月 港区教育委員会

 現在は三井不動産株式会社が所有・管理しており、使用中のため公開していません。

所在 東京都港区三田2,3

 「ひゅうがさか」 江戸時代前期南側に徳山藩毛利日向守の屋敷があったためといわれている。由来は不明である。誤って「ひなた坂」とも呼んだ。

所在 東京都港区三田1-12-11

浄土真宗 本願寺派 綱生山 當光寺



所在 東京都港区三田4-18-20

 高山紀齋は米国留学で得た理想を基にここ東京芝区伊皿子町70番地に明治23年(1890年)1月、わが国最初の歯科医学校として高山歯科医学院を設立した。この学院には、後の世界的細菌学者野口英世も教壇に立っている。その後、血脇守之助がこれを継承し、東京歯科大学院、東京歯科医学専門学校、東京歯科大学として現在に至っている。

 この地に端を発した近代歯科医学教育の精神は高山歯科医学院開設以来百有余年、脈々と今に引き継がれている。

          学校法人 東京歯科大学


所在 
東京都港区三田4-7-20

浄土宗
島山 峯樹院 
大信寺
      (通称 三味線寺)

 

港区指定有形文化財(絵画)
 絵本墨画五百羅漢図下図 
          狩野一信筆
             平成16年(2004)10月26日指定


所在 東京都港区三田4-7-20(大信寺)

 三味線はわが国の代表的な楽器として、世界に知られています。

 13世紀ごろ中国に三絃としておこり、琉球に伝わり、16世紀ごろ摂津の堺(大阪府)に伝承して、京阪地方の琵琶法師に用いられていました。

 その後種々の技法を採り入れた石村検校と、それを継いで世に出し、邦楽の発展に寄与しました。



 三味線の始祖とされる石村近江は、号を浄本、通称を源左衛門といい、京都から江戸に移住して三味線を完成し、「浄本近江」と呼ばれた名工でした。

 寛永13年(1636年)3月2日に死去しました。

 なお、石村家は代々近江の名を継ぎましたが、特に2代浄本から5代までは名匠相継ぎ、古今無双の名器を世に出しました。

 墓は本堂裏手の墓地にあり、記念碑も建っています。

  昭和50年(1975年)1月 - 平成22年(2010年)3月立替
          港区教育委員会
 

所在 東京都港区三田4-8-34

 浄土宗 
  三田山 水月院 
魚藍寺  



江戸三十三箇所観音霊場
        第25番札所

 

港区指定有形文化財(歴史資料)
 魚藍観音霊験記等版木
          平成4年(1992)10月28日指定

港区指定有形民俗文化財
 魚藍寺奉納絵馬及び掛軸
          平成6年(1994)9月27日指定

 

境内には『亀石』があります。



所在 東京都港区三田4-8-34 (魚藍寺)

  亀石(通称 子宝石)

亀に似ているのでいつという事なく亀石と呼ばれ子供の無い人が子宝を願います
 
  魚藍寺


所在地 港区三田4-16-20

港区登録有形文化財(古記録)
  亀山碑
        平成14年(2002)3月15日指定

 古くから地簿意正五郎博士等によって古墳と指摘され、広く知られていましたが、詳細な学術調査が行われず、古墳であると決めることはできませんでした。昭和45年(1970)・昭和46(1971)、港区教育委員会が主が体となり、慶応義塾大学が測量調査および発掘調査を実施した結果、この塚が古墳時代以後に築造されたことが明らかとなりました。さらに平成14年(2002)・平成17年(2005)・平成18年(2006)に、港区教育委員会が亀塚と周辺の調査を実施し、亀塚の構築状況を明らかにしました。しかし、埋葬施設や周濠の存在は明確ではなく、依然として古墳と断定することはできていませんが、その可能性は高いと考えられます。



 また、平安時代に書かれた『更級日記』に見える竹芝寺の伝説地とも伝えられ、文明年間(1469~1487)には、太田道灌が斥候(ものみ)を置いたと伝えられています。江戸時代には、この地を屋敷地としていた沼田城主土岐頼熈が、これらの旨を記した「亀山碑」を頂上に建て、現在に伝えています。
 平成19年(2007)3月31日  
  港区教育委員会 港区環境・まちづくり支援部



所在地 港区三田4-14-18

祭神 宇迦御魂命



港区指定有形文化財(歴史資料)
   
弥陀種子板碑
       平成7年(1995)9月26日指定

港区登録有形文化財(歴史資料)
 
 板碑
       平成8年(1996)3月27日指定

 


所在地 港区三田4-14-18 (亀塚稲荷神社) 

港区指定有形文化財(歴史資料)
 
弥陀種子板碑
          平成7年(1995)9月26日指定



 全国でも中世の関東地方に著しい信仰の特徴といわれる板状の秩父青石、すなわち緑泥片岩に刻まれた供養塔である。
 弥陀を表す記号(種子)を上部に刻み、頂部を山状に切りだした秩父型の板碑三基には、それぞれ「文永3年(1266)12月」「正和2年(1313)8月」「延文6年(1361)」の造立年が陰刻されており、特に文永3年(1266)の刻銘は、港区に現存する板碑の中では最古である。



 これらの板碑は、以前は当神社付近にあったものとも、荏原郡上大崎(現品川区上大崎)にあったものともいわれている。



 なお、境内には他に二基の板碑があるが、これらは磨耗がはげしく、造立年などを知ることはできない。

 平成7年(1995)9月26日  東京都港区教育委員会



所在地 港区三田4-16-23 (済海寺)

 安政5年(1858)9月に締結された日仏修好通商条約により、翌安政6年(1859)8月12日、フランス公使宿館の設置となり、13日初代臨時公使ド・ベルクールらがここに駐在した。



 明治3年(1870)4月10日に公使館が引払いになるまで、宿館として使用されたのは書院、庫裏の全部で、慶応2年(1866)12月に、玄関、門、門番所などが増築されたが、明治年間その敷地に一部が分割された。
 現在の済海寺本堂敷地と西隣りの富山県東京出張所敷地が、かつてのフランス公使宿館跡にあたる。

 平成10年(1998)3月建設  東京都教育委員会


港区指定有形文化財(彫刻)
 木造阿弥陀如来坐像
          平成14年(2002)10月18日指定

港区指定有形文化財(古記録)
 外国書願留
          昭和60年(1985)10月15日指定


所在地 港区三田3-14-10 (札の辻橋)

 札の辻橋は、昭和8年(1933)地域の交通を結ぶ橋として架けられましたが、平成16年(2004)に現在の橋に生まれ変わりました。
 このモニュメントは当時の橋で使われた石や橋名板を再利用して造られたものです。



所在地 港区三田4

 坂の両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるためこの名がついたらしいが、有礼坂の説もある。幽霊坂は東京中に多く7か所ほどもある。

  港区  平成7年(1995)7月


所在地 港区三田4-1-26

 付近の藪から蛇が出ることがあったためと想像されている。

  港区  平成7年(1995)7月


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