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東京都港区の歴史
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             黒田清綱・黒田清輝 顕彰碑(1989建立)

所在地 港区西麻布2-21-34 (長谷寺)

 
           黒田清輝(1866-1924)墓

 黒田清輝は慶応2年(1866)、黒田清兼の子として鹿児島に生れ、幼名を新太郎といいました。はじめ政治家を志し、フランスでは法律を学んでいるとき油絵を習い、山本芳翠に認められて絵画に専念することとなりました。帰国後、東京美術学校教授となり、その後天真道場を設立し、さらに白馬会を結成して後進を指導し、洋画壇に新風を送りこみました。晩年は帝国美術院院長となり、明治、大正にかけて美術界の長老として、美術行政に尽くすところが多くありました。
 麻布笄町の自邸で大正13年(1924)7月15日に没しました。
 おもな作品に「朝妝」「木苺」「昔語り」「湖畔」「舞妓」などがあります。
  昭和50年(1975)12月 港区教育委員会

慶応2年(1866)6月27日 薩摩藩士黒田清兼の子として鹿児島に生る    
 幼名新太郎 号水光明治4年伯父清綱の養嗣子
明治17年(1884)
 法律修学のためフランスへ留学 同地に於て性来の事故の資質に開眼し画学研究に転向 ラファエルコランに師事 研鑚を積み明治26年(1893)帰国 僚友久米桂一郎と天眞道場を興し清新な画風を伝う
明治29年(1896)
 東京美術学校に西洋画科創設を一任され初代教授として永く後進の指導に尽力し又美術団体白馬会を創立 洋画界に新風を送る
明治40年(1907)
 第一回文部省美術展覧会審査官
明治43年(1910)
 帝室技芸員
大正2年(1913)
 国民美術協会 会頭
大正6年(1917)
 子爵を襲爵
大正8年(1919)
 帝国美術院 会員 9年貴族院議員
大正11年(1922)
 帝国美術院 院長
大正13年(1924)
 永年の日佛交流の寄与に対し フランス政府より勲章を贈られる
 7月15日 麻布笄町にて逝去 59歳
 19日 長谷寺 黒田家墓地に葬る

 
          黒田清綱(1830-1917)墓
天保元年(1830)   
 薩摩藩御記録奉行 清直の長子として5月21日生 幼名新太郎
天保13年(1842)
 父死去 嘉右衛門清綱と改め嘉納と称す
嘉永4年(1851)
 史館見習を始めとし軍賦役兼使番用人兼町奉行 陸軍掛用人格兼軍賦役頭取
 側役会計奉行 参政等歴任
文久2年(1862)
 藩論統一の為 遠流の西郷赦免を請う
慶応2年(1866)
 幕府筑前在の五卿を関東へ移さんとするを決死 之を拒み守護
慶応3年(1867)
 藩主忠義公山口侯世子徳山侯世子会談の際西郷を倶に従い維新大業の大策を定む
明治3年(1870)
 戊申役山陰道鎭撫総督参謀として戦う
 太政官より東京滞在下命 東京府大惨事
 弾正小弼 文部小輔歴任
明治8年(1875)
 元老院議官
明治14年(1881)
 西郷の名誉恢腹を在大臣に請願
明治20年(1887)
 子爵を賜る 金鶏間仕候
明治33年(1900)
 枢密顧問官 従二位勲一等 旭日大綬章
明治42年(1909)
 宮中杖を賜る 
明治45年(1912)
  御歌所長 御■ 御歌拝覧
大正6年(1917)
 正二位 3月23日薨 88歳
 八田知紀翁の門下として歌道に親しみ、滝園社を結び 月次歌全等斯道に努む
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