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東京都港区の歴史
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所在地 港区赤坂7-6-16

急坂のため通る車賃を銀三分(さんぷん百円余)増したためという。坂下の渡し賃一分に対していったとの説もある。さんぶでは四分の三両になるので誤り。
             平成20年(2008)2月   港区






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所在地 港区赤坂7-6-20

 浄土真宗大谷派
     咲柳山 
報土寺



港区登録有形文化財(歴史資料)
 報土寺の梵鐘
              平成4年(1992)3月30日登録



境内には『雷電為右衛門墓』、『築地塀(練塀』(港区文化財)、『丸木利陽墓』、『伊部香山墓』があります。


所在地 港区赤坂7-6-20 (報土寺)

 昭和4年(1767)信州(長野県)小諸在大石村に生まれた。生まれながらにして、壮健、強力であったが、顔容はおだやか、性質も義理がたかったといわれる。
 天明4年(1784)年寄浦風林右衛門に弟子入りし、寛政2年(1790)から引退までの22年間のうち大関(当時の最高位)の地位を保つこと、33場所、250勝10敗の大業績をのこした。
 雲州(島根県)松江の松平侯の抱え力士であったが引退後も相撲頭に任ぜられている。文化11年(1814)当寺に鐘を寄附したが異形であったのと、寺院、鐘楼新造の禁令にふれて取りこわさせられた。
 文政8年(1825)江戸で没した。
   昭和50年(1975)12月  東京都港区教育委員会



所在地 港区赤坂7-6-20 (報土寺)

港区登録有形文化財(建造物)
  
報土寺の築地塀練塀
          平成10年(1998)9月1日登録

 報土寺の練塀は、坂の多い港区の中でも特に急坂として知れらる「三分坂」に沿って造られており、塀が弓なりになっている珍しいものです。練塀は区内では残されているものが少なく、江戸の寺院の姿を今に伝える貴重な建造物といえます。
  東京都港区教育委員会



所在地 港区六本木2・港区赤坂2

江戸時代初期に南部家中屋敷があったためといい「忠臣蔵」でゆうめいである。のち険しいため難歩坂とも書いた。
 平成20年(2008)2月 港区





昭和45年(1970)11月8日 永■太道 建立


所在地 港区虎ノ門2

江戸時代中期以前には、海が眺望できた坂である。南側に松平大和守(幕末には川越藩)邸があって、大和坂ともいった。
                    平成20年(2008)6月






所在地 港区麻布台1・港区六本木



双方から行合う道の坂であるため行合坂と呼んだと推定されるが、市兵衛町と飯倉町の間であるためか、さだかでは。
        平成21年(2009)2月     港区


所在地 港区麻布台1



我善坊谷へ下る坂で、赤坂方面から往来する人が、行きあう位置にあるので、落合坂と呼んだ。位置に別の説もある。
         平成9年(1997)9月     港区


所在地 港区麻布台1-4-6

 横川省三記念公園

勲五等
横川省三 岩手県盛岡市出身 行年四十歳 同行国士
勲五等
沖禎介 長崎県平戸市出身 行年二十八歳 同行国士

 同行国士
勲六等
脇光三 滋賀県彦根市出身 行年二十四歳
松崎保一 宮崎県宮崎市出身 行年三十歳
中山直熊 熊本県熊本市出身 行年二十四歳
田村一三 宮崎県宮崎市出身 行年二十二歳

寄贈者
横川省三遺跡保存会世話人代表吉澤照英司・吉澤てる(故黒川茂隆長女)
 平成3年9月吉日補修



此ノ地ハ明治37,8年戦役ニ際シ特命ヲ帯ヒテ敵地深ク侵入シ北満ノ野ニ於テ國難ニ殉シタル志士横川省三氏力寓居ノ遺阯トシテ知ラレタリシカ同氏ノ赫々タル英名ヲ永ク追慕シ其ノ光輝アル舊蹟ヲ後世ニ傳ヘンカ為ニ地元横川省三遺跡保存會代表者黒川茂隆氏ハ之ヲ本市公園用地トシテ昭和12年12月附近ヲ併セ120餘坪ノ地ヲ寄附セラレタリ本市ニ於テハ寄附者ノ厚意ヲ享ケ英霊ヲ偲フ記念公園トナシ諸施設ヲ完了シタルヲ以テ茲ニ開園ニ臨ミ夾歴ヲ敍シ以テ地元ノ芳志ヲ銘記ス

 横川省三略傳
明治37,8年戦役ニ特別任務ヲ帯ヒ北満ノ野ニ壮烈ナル最後ヲ遂ケタル忠士横川省三君ハ南部盛岡ノ人ナリ歳甫メテ十九東京ニ來リ自由黨ニ投シ後操觚界ニ入リ雄健ノ筆ヲ以テ盛名ヲ謳ハレシカ明治30年移民開拓ノ為北米ニ航シ34年歸朝ス偶暗澹タル日露ノ風雲ニ際會シ敵状探知ノ重命ヲ荷ヒテ北京公使館嘱託トナリ日夜東奔西走スル事3年時恰モ明治37年2月 大詔下ルヤ輙テ擢テラレテ敵後方輸送路遮断ノ命ヲ拝シ嫩江鐵橋爆破ニ赴キシカ遂ニ敵兵ノ為ニ捕ヘラレ4月21日同志沖禎介ト共ニ哈爾賓ニ於テ銃戦セラル
君ハ性剛恬淡ニシテ機略アリ身軍籍ニ非ルミ敵地深ク突入シテ國難ニ殉ス其忠勇義烈真ニ國士ノ亀鑑タリ後年其功ニヨリ勲五等ヲ授ケラレ特旨ヲ以テ靖國神社ニ合祀セラル


所在地 港区麻布台1

  三年坂の由来
いつのころよりこの坂がそう呼ばれたのか、誰に名づけられたのか定かではありません。しかし、東京が江戸と呼ばれていた時代には無名ではあります。すでにこの坂がありのち石段になったようです。また。三年坂は別名三念坂などとも呼ばれ同じ名前の坂がほかに数箇所あります。
京都清水のそばに同名の坂があります。昔の人が遠くふるさと京都をしのぶ気持ちを坂の名前にこめたとしたらロマンでしょうか。
 平成17年(2005)8月  麻布土木事務所


所在地 港区麻布台1-9-20

階段になった坂を一般に雁木坂というが、敷石が直角に組まれていたから等ともいい、当て字で岩岐坂とも書く

 平成16年(2004)9月 港区





所在地 港区赤坂5-1-27 (中峰マンション)

  鈴降稲荷神社

 鈴降稲荷神社はもと四谷仲殿町にあり、伊賀町、仲殿町一帯がその氏子であった。元禄8年(1695)この社地が御用地となったので赤坂一ツ木に替地を給され、ここに遷座奉安された。その折任命された別当は鈴降山神宮寺別当願性院と称え毎年正月4日徳川家の武運長久を祈願したお礼を将軍に献上のため登城するならわしがあった。明治13年(1880)社殿類焼に遭い仮殿を建てて神鈴を奉安、更に明治25年(1892)内陣を土蔵造りとしたが大正12年(1923)の震災で拝殿は大破、土蔵は崩壊したので大正14年(1925)氷川神社境内稲荷社へ合祀された。今も一ツ木の横町は鈴降横町と称される所以である。
 住吉からのいいつたえによると朱雀院天台の頃の創設なりとか。花園院正和年中、稲荷の神7歳の童女にのりうつり「我は鈴降宇賀三社の霊神なり、わが持つところの鈴は天降の鈴なり一たび拝する者には家門繁栄ならしめん」と神託あり、よって鈴降の神号とすと。
 又一説には天正10年(1582)織田信長本能寺の変に遭いし折、京阪にありし徳川家康急遽三河に帰らんとて、伊賀越えの際山中にて道に迷いし時、遥かに鈴の音が聞こえるので、その放校にたどりつくと観音堂あり堂主山名孝倫なる者がいて之を迎え厨子の中より三箇の鈴を取り出し家康に献じ、且つ付近の住民を集めて道案内と警護をしつつ伊賀の白子に出、舟にて海路浜松へ帰ることが出来たという。家康は、此の恩義を徳とし、江戸幕府を開くや、孝倫はじめその折の郷民を江戸に召して四谷に地を給し、これを伊賀同心組とした。
 よって彼等は一宇の祠を建て、さきの鈴を神鈴として鈴降稲荷と号し伊賀組の鎮守としたという。


所在地 港区赤坂6-5-30

 ここは昭和4年(1929)に創立された日大三中・日大三高の発祥の地である。教育環境の変化にともない、昭和51年(1976)4月 町田市に移転した。されど、この地に想いを残しこの碑を建てる。
 平成元年(1989)4月  日本大学第三学園



所在地 港区元赤坂2-1

  迎賓館 赤坂離宮
 迎賓館は、外国の元首や首相などの賓客に対して、宿泊その他の接遇を行うために設けられた国の施設です。



所在地 港区三田4-16-20

港区登録有形文化財(古記録)
  亀山碑
        平成14年(2002)3月15日指定

 古くから地簿意正五郎博士等によって古墳と指摘され、広く知られていましたが、詳細な学術調査が行われず、古墳であると決めることはできませんでした。昭和45年(1970)・昭和46(1971)、港区教育委員会が主が体となり、慶応義塾大学が測量調査および発掘調査を実施した結果、この塚が古墳時代以後に築造されたことが明らかとなりました。さらに平成14年(2002)・平成17年(2005)・平成18年(2006)に、港区教育委員会が亀塚と周辺の調査を実施し、亀塚の構築状況を明らかにしました。しかし、埋葬施設や周濠の存在は明確ではなく、依然として古墳と断定することはできていませんが、その可能性は高いと考えられます。



 また、平安時代に書かれた『更級日記』に見える竹芝寺の伝説地とも伝えられ、文明年間(1469~1487)には、太田道灌が斥候(ものみ)を置いたと伝えられています。江戸時代には、この地を屋敷地としていた沼田城主土岐頼熈が、これらの旨を記した「亀山碑」を頂上に建て、現在に伝えています。
 平成19年(2007)3月31日  
  港区教育委員会 港区環境・まちづくり支援部



所在地 港区三田4-14-18

祭神 宇迦御魂命



港区指定有形文化財(歴史資料)
   
弥陀種子板碑
       平成7年(1995)9月26日指定

港区登録有形文化財(歴史資料)
 
 板碑
       平成8年(1996)3月27日指定

 


所在地 港区三田4-14-18 (亀塚稲荷神社) 

港区指定有形文化財(歴史資料)
 
弥陀種子板碑
          平成7年(1995)9月26日指定



 全国でも中世の関東地方に著しい信仰の特徴といわれる板状の秩父青石、すなわち緑泥片岩に刻まれた供養塔である。
 弥陀を表す記号(種子)を上部に刻み、頂部を山状に切りだした秩父型の板碑三基には、それぞれ「文永3年(1266)12月」「正和2年(1313)8月」「延文6年(1361)」の造立年が陰刻されており、特に文永3年(1266)の刻銘は、港区に現存する板碑の中では最古である。



 これらの板碑は、以前は当神社付近にあったものとも、荏原郡上大崎(現品川区上大崎)にあったものともいわれている。



 なお、境内には他に二基の板碑があるが、これらは磨耗がはげしく、造立年などを知ることはできない。

 平成7年(1995)9月26日  東京都港区教育委員会



所在地 港区三田4-16-23 (済海寺)

 安政5年(1858)9月に締結された日仏修好通商条約により、翌安政6年(1859)8月12日、フランス公使宿館の設置となり、13日初代臨時公使ド・ベルクールらがここに駐在した。



 明治3年(1870)4月10日に公使館が引払いになるまで、宿館として使用されたのは書院、庫裏の全部で、慶応2年(1866)12月に、玄関、門、門番所などが増築されたが、明治年間その敷地に一部が分割された。
 現在の済海寺本堂敷地と西隣りの富山県東京出張所敷地が、かつてのフランス公使宿館跡にあたる。

 平成10年(1998)3月建設  東京都教育委員会


港区指定有形文化財(彫刻)
 木造阿弥陀如来坐像
          平成14年(2002)10月18日指定

港区指定有形文化財(古記録)
 外国書願留
          昭和60年(1985)10月15日指定


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