東京都港区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在 東京都港区赤坂8-11-32 港区指定有形文化財(建造物) 旧乃木邸及び馬小屋 昭和62年(1987)10月28日指定 乃木邸は明治12年(1879年)に買い求め、明治35年(1902年)に改築されたものです。此の建物は明治19年(1886年)にドイツ留学中、フランスの陸軍訪問の折にスケッチした連隊本部を参考に建てられています。 乃木将軍は言うまでもなく日清、日露の両役に武功輝き又高風清節徳望高き人格者として一世の崇敬をうけた。 将軍大将従二位勲一等功一級伯爵に敍せられ晩年明治天皇の思召によって学習院長に任ぜられ専ら華胃子弟の薫育に盡したが大正元年(1912年)9月13日明治天皇御大葬の当日64才を一期として殉死し静子夫人も共に自刃した。 将軍の殉死せらるるや遺言して自邸を東京市に寄付せられた。時の東京市長男爵阪谷芳郎は中央乃木会を設立してその旧邸を保存し、また隣接に乃木神社も建立した。 将軍は嘉永2年(1849年)11月11日麻布日ヶ窪の長府藩主毛利候邸に於て生れ(少年乃木無人所載年譜)安政5年(1858年)11月将軍10才の砌り一家と共に長門国長府に移った。幼名を無人とよび慶応2年(1866年)6月18才の折文蔵と改名した。明治2年(1869年)11月21才の時藩命により沸式錬兵教習のため伏見御親兵営に入隊しその後京都市河東錬兵場御親兵錬武掛を命ぜられ又豊浦藩陸軍練兵教官として鎮台兵の教育に盡したが明治4年(1871年)11月23才の時に陸軍少佐に任ぜられ名を希典と改めた。 明治8年(1875年)27才の時熊本鎮台歩兵第14連隊長心得となり明治10年(1877年)には西南の役に従軍4月22日中佐に任ぜられた。 将軍の父希次は、同明治10年(1877年)10月東京に於て病没した。 翌明治11年(1878年)1月26日熊本鎮台参謀を免ぜられて歩兵第1聠隊長となり、8月27日薩摩藩士湯地定之の四女静子と結婚したが夫人は時に20才であった。 当時将軍は、芝桜川町に住んでいた。(山路愛山著「乃木将軍」) 翌明治12年(1879年)8月28日長男勝典が生れ11月に新坂町55番地に初めて邸宅を設けたのである。 明治13年(1880年)4月大佐に進み翌明治14年(1881年)12月次男保典が出生した。その後ドイツ留学、日清、日露両役に従軍、英国皇帝の戴冠式参列等の事があり、その間 那須別邸に自適されたこもあったが本邸は依然として此地に在り、明治12年(1879年)以来34年間に及んだ。 本旧邸は、素朴高潔であった。将軍の日常を偲ぶのに最も良き記念物である。 因みに長男勝典中尉は、明治37年(1904年)南山総攻撃に於て戦死し、次男保典中尉は、同昭和37年(1904年)11月30日歪頭山に於て戦死した。時に長男は26才、次男は24才であった。 大将夫妻 及び両息子の墓はともに青山墓地にある。 旧邸内敷地には『厩(うまや)』、『水師営棗の樹の孫』、『瘞血之處碑』、『乃木大将と辻占売少年像』、『歌碑』、『愛馬用井戸』があります。 PR |
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永山
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