忍者ブログ
東京都港区の歴史
[1] [2] [3]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



所在 東京都港区赤坂8・9丁目

 乃木大将の殉死された大正元年(1912年)9月以来幽霊坂が乃木坂と改名された。

     東京赤坂ライオンズクラブ




PR


所在 東京都港区赤坂8-11-32



 乃木公園附近は、江戸時代の初期、青山常陸介忠成が徳川家康の命をうけ、馬を乗り廻して賜わった土地で、力尽きて死んだ馬の塚を築き、駒留八幡といったという伝説がある。青山氏の敷地は現在の南北青山および赤坂7,8丁目を含む広大な地域であった。



 江戸時代末期このあたりは美濃郡上藩青山大膳亮(あおやまだいぜんのすけ)の邸地で、明治維新後この一帯は新坂町と呼ばれ、名士の邸宅街となった。



 陸軍大将乃木希典は明治12年(1879年)この地を買い求め、明治35年(1902年)新築をした。大将は大正元年(1912年)9月明治天皇のあとを追い、夫人静子とともに自害して果てた。邸宅はその遺言により東京市に寄付され、整備ののち公園として開園された。現在では、旧乃木邸を含めて区立公園として管理している。

          赤坂地区総合支所地区協働推進課






ひねり・うねり・まがれ(Hineri・Utsuri・Nagare) 1996
津久井利彰1935-(TSUKUI Toshiaki 1935-)


所在 東京都港区赤坂8-11-27



 < 祭神 >

乃木希典命(のぎまれすけのみこと)
乃木静子命(のぎしずこのみこと)



 < 創立 >

大正12年(1923年)11月1日
昭和20年(1945年)5月25日戦災にて焼失
昭和37年(1962年)9月23日戦災復興完成



 < 摂社 正松神社(せいしょうじんじゃ) >

  祭神
玉木文之進正韞命(たまきぶんのしんまさかぬのみこと)
 乃木希典命の青年時代の恩師
吉田矩片松陰命(よしだのりかたしょういんのみこと)
 玉木文之進正韞命の甥にして其の教育を授く有名松下村塾を玉木先生が創立       し松陰先生が之を継承せられたものである。

  創立
本社の戦災復興完成の翌昭和38年(1963年)1月22日鎮座



 < 末社 赤坂王子稲荷神社 >

  祭神
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
 食物其の他人間生活に必要な物の生産を守り司る神
宇気母智神(うけもちのかみ)
和久産巣日神(わくむすひのかみ)

  創立
本社の戦災復興完成の翌昭和37年(1962年)12月22日北区王子稲荷神社より勧請鎮座

  由来
乃木将軍の御両親の崇敬篤く乃木将軍御夫妻も月詣りをせられた



 境内には『正松神社(せいしょうじんじゃ)』、『赤坂王子稲荷神社』、『乃木神社復興之記』、『乃木神社之碑』、『楷樹(かいじゅ)』、『竹添井々文学碑』、『乃木講誓詞之碑』、『教育の碑』があります。


所在 東京都港区赤坂8-11-27 (乃木神社)

 植樹 大正15年(1926年)5月6日

 港区保護樹木指定 昭和49年(1974年)9月



 林学博士・中村弥六氏の奉納植樹と伝えられています。大正4年(1915年)日本で最初に白沢保美博士が、中国山東省曲阜県の孔子廟の子貢より種子を持ち帰り、育成された由緒正しい偕で、神田湯島聖堂と岡山県閑谷学校(しずたにがっこう)の楷と同系統のものです。



 楷とは樹姿端正で一点一画が整っていることから書法の楷書の語源になっています。



 また境内には、昭和天皇御在位60年の記念樹の楷樹もあります。
    乃木神社


所在 東京都港区赤坂8-11-27 (乃木神社)

 明治天皇御製

 教育
いさをある人を
 をしえの親にして
おほしたてなむ
 やまとなでしこ



 明治41年(1908)1月に御祭神乃木将軍が学習院院長に任命された頃に生徒心得の為に明治天皇より賜った御製であります。乃木将軍のような国家に勲功のある立派な人を学習院院長にして、大切な皇国の未来を担う子弟の教育に當らせたいという明治天皇のお気持ちがこめられています。
 この碑は当時の御歌所所長 高崎正風氏が謹書したものを刻んだものであります。
  乃木神社


所在 東京都港区赤坂8-11-27 (乃木神社)

昭和38年1月22日鎮座

  < 御祭神 >
玉木文之進正韞命(たまきぶんのしんまさかぬのみこと)
吉田矩片松陰命(よしだのりかたしょういんのみこと)



 玉木文之進先生は、幕末維新に際し多くの偉人傑士を輩出した長州萩の学者であり、松下村塾の開祖であり、吉田松陰先生は、玉木先生の甥に當り、その村塾を受継いで幾多の國士を養成せられた大教育者であり、國事に仆れた烈士であります。乃木将軍吉田松陰先生の弟弟子として玉木先生に薫陶せられ、又吉田松陰先生を深く敬い、之が人格形成の基になったものと拝察致します。依て乃木神社戦災復興竣成を機に萩の松陰神社より二柱の御分霊を請受け、境内に鎮祭した縁の神社であります。
  乃木神社



所在 東京都港区赤坂8-11-27 (乃木神社)

 < 御祭神 >

宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
  食物其の他人間生活に必要な物の生産を守り司る神

宇気母智神(うけもちのかみ)

和久産巣日神(わくむすひのかみ)



 當神社は乃木将軍御夫妻又御両親崇敬特に篤く、月詣りまでせられた北区王子に鎮座の王子稲荷神社を乃木神社戦災復興竣成を機に勧請した縁の神社であります。



所在 東京都港区赤坂8-11-27 (乃木神社)

乃木講偲代
陸軍大将従二位勲一等功二段大庭二郎書兼題額

聖訓力行 我身を浄め

質素勤儉 我身を治め

献身奉仕 國産を興し

熱慮断行 心義を践み

至減一貫 皇基を護らむ

 昭和7年(1932年)9月 乃木講建之


所在 東京都港区赤坂8-11-27 (乃木神社)



    竹添井々略歴
 竹添進一郎、光鴻号は井々、天保13年(1842年)天草郡大矢野島に生る。出熊本下韡村の門に学び、時習館居寮生となる。幕末戊申の役には肥後藩の参謀。時習館の訓導助勤後、明治5年(1872年)から7年(1874年)まで玉名郡伊倉村に開塾。上京仕官、詩文の才を認められ朝鮮公使、東京帝大教授となる。棧雲峡雨日記、論語会箋、毛詩会箋、春秋左氏会箋等の著述多し。文学博士、大正6年(1917年)歿76歳墓は東京小石川の護国寺



 双殉行 井々竹添光鴻 大正元年作

戦雲壓城城欲壊    腹背受敵我軍負
聯隊旗兮臣所掌    爲賊所奪臣罪大
旅順巨砲千雷轟    骨砕肉飛血雨腥
二萬子弟爲吾死    
吾何面目見父兄
靑山馳道連朱闕    萬國衣冠儼成列
靈輿肅肅牛歩遲    金輪徐輾聲如咽
弔砲一響臣事終    刺腹絶喉何從容
旁有蛾眉端坐伏    白刃三刺繊手紅
遺書固封墨痕濕    責躬誡世情尤急
言言都自熱腸逬    鬼哭神恫天亦泣
嗚呼以身殉君臣節堅 舎生從夫婦道全
忠魂貞靈長不散    千秋萬古侍桃山

  昭和56年(1981)7月
寄進  肥後史話著者 卯野木卯一良


所在 東京都港区赤坂8-11-27 (乃木神社)

 乃木神社之碑

中央乃木會理事陸軍大將従二位勲一等功二級一戸兵衛題額
大正元年九月十三日夜 明治天皇の霊宮城ヨリ青山練兵場内葬場殿ニ遷御アラセラル此夜八時乃木大將夫妻赤坂区新坂町自邸ニ於テ自刃ス蓋シ大將ハ 天皇ニ殉シ奉リ婦人ハ大將ニ殉セルナリ翌朝凶報傳ハルヤ中外擧ケテ其忠烈貞節ニ感動セサルハ莫カリキ予時ニ東京市長ノ職ニ在リ大將夫妻ノ忠誠ヲ不朽ニ傳ヘント欲シ有志ト謀リテ乃木會ヲ起シ大將邸宅ヲ保存シ且地域ヲ擴メ域内ニ社殿ヲ造營シ大將夫妻ノ霊ヲ祀ルノ議ヲ決ス事畏クモ 天聽ニ達シ内帑若干ヲ下シ賜フ東京市率先シテ資ヲ捐シ三井岩崎鈴木古河住友安田藤田森村澁澤木戸等諸家及全國篤志者相競ヒテ之ニフ大正十一年八月十日内務省技師大江新太郎氏ノ設計監督ノ下ニ起工シ翌年十一月一日本殿工先ツ成リ鎮座祭ヲ行フ残工事ハ資ノ集マルニ随ヒテ続行シ今ヤ予定ノ工事大略竣工ス東京市カ隣地ニ経營セル乃木公園亦完成シラスニ江戸城虎門杵形ノ巨石ヲ以テシ本社及乃木邸ト共ニ市内ノ名跡トナル本社ハ参拝者日ニ踵ヲ接シ祭日ニハ殊ニ雑踏シ神威年ト共ニ赫赫タルヲ覺ユ本會創立以来経營ノ責ニ任シタル関係ニ依リ茲ニ概要ヲ録シテ後ニ垂ルト云爾
  昭和六年五月
     中央乃木會長正三位勲一等法學博士男爵阪谷芳郎謹選
     従六位勲六等木村経明謹書


所在 東京都港区赤坂8-11-27 (乃木神社)

  乃木神社復興之記
昭和20年(1945)5月25日大東亜戦争ノ厄ニ罹リ本殿ヲ始メ社殿焼失直テニ之カ復興ヲ誓ヒ昭和23年(1948)1月13日川島康氏ノ一建立ニ依リ先ヅ假本殿復興昭和26年(1951)10月1日小林古径畫伯ヲ始メトスル四十一畫伯丹青ヲ奉献セラレ又古田寛悟氏始メ多クノ人ヨリ屋瓦ヲ奉納コレ等崇敬ノ至誠ニ基ツキ儀式殿ノ完成ヲ見茲ニ甫メテ神前結婚式ヲ斎行セリ昭和29年(1954)5月1日鈴木一光氏ト古田寛悟氏トノ盡力ニ依リ茶席忘筌完成昭和37年(1962)9月13日の義神社崇敬会長佐々木義彦氏他諸氏ノ盡力ト建設ヲ請負ハレシ竹中藤右衛門氏ノ赤誠ノ結果本殿幣殿拝殿等完成続イテ攝社正松神社末社赤坂王子稲荷神社ヲ勧請シテ昭和43年(1968)2月境内ニ接続スル社有地ニ乃木会館ヲ設立シ以テ永年所期ノ目的ヲ完遂スルヲ得タリ社殿及ヒ会館ノ建築設計ハ總テ工学博士大江宏氏ノ祭神崇敬ノ至誠ニ就レルモノナリ
 昭和53年(1978)6月
 乃木神社宮司 高山貴士 謹記
 責任役員江南 桑原通雄 謹筆


所在 東京都港区赤坂2-21-1

慈眼視衆生

福多樂觀世音菩薩

福聚海無量

川口實相寺 日新謹書

平成拾壱年拾月吉日建立




所在地 港区赤坂7-3-39 (高橋是清翁記念公園)

 < 淑容沈(すくよんしむ)氏墓碑石跡 >

 この場所に、経緯は不詳ですが、韓国李王朝9代成宗(そんじょん)大王の後宮「淑容沈氏」(1515年没)の墓碑が建立されていました。
 約4000年の長期にわたり墓碑の行方を捜してこられた韓国李王朝一族関係者からなる「淑容沈氏墓碑還元推進委員会」の求めに応じ、港区から平成12年(2000)6月16日(金)に日韓友好の証として、両国の絆がますます深まり、両国の親善交流が一層促進されることを祈念し、譲与しました。                                                 港 区





所在地 港区赤坂6-10-12 (赤坂氷川神社)

港区指定有形民俗文化財
 奉納絵馬 七点
         平成7年(1995)3月27日登録

 柴田是真筆の「猩猩」、河鍋暁斎筆の「還城楽」、月岡芳年筆の「猩猩の山車」、河竹黙阿弥書の短歌「いくとせを ふれときれぬは 光ります 氷川の富の 鈴にしらるる」、河竹黙阿弥の娘・鳥女筆の「挿花・百合と薔薇」およびこの図に添えられた長女・糸女書の短冊「夏しらぬ利益も あつき氷かな」、それに9代目市川団十郎書の「老せぬや 薬乃名をも菊の水 盃そろひて友に逢そうれしき」のと工面と絵馬の奉納者名を記した一面の計7点の絵馬です。9代目市川団十郎の絵馬には「己卯」、すなわち明治12年(1879)の年紀があり、制作年代を知ることができます。



 幕末から明治時代にかけて活躍した著名な画家や歌舞伎の名優、戯作者が裏伝馬町1丁目(現元赤坂1丁目)の久保田氏や田町4丁目(現赤坂3丁目)の佐藤氏といった地元の有力信者の以来によって共同製作したこれら7点の絵馬は、明治時代初期の赤坂氷川神社をめぐる信仰と文化活動の跡を伝える資料として貴重です。
  港区教育委員会


所在地 港区赤坂6

8代将軍徳川吉宗の命で建てられた氷川神社のもと正面に当たる坂である。
           平成16年(2004)9月   港区



所在地 港区赤坂

中央がくぼみ両側の高い形が薬を砕く薬研に似ているために名づけられた。付近住民の名で、何右衛門坂とも呼んだ。
               平成22年(2010)2月 港区









所在地 港区赤坂7-6-5

真宗大谷派 光闡山 
道教寺


所在地 港区赤坂7-6-16

急坂のため通る車賃を銀三分(さんぷん百円余)増したためという。坂下の渡し賃一分に対していったとの説もある。さんぶでは四分の三両になるので誤り。
             平成20年(2008)2月   港区








所在地 港区赤坂7-6-20

 浄土真宗大谷派
     咲柳山 
報土寺



港区登録有形文化財(歴史資料)
 報土寺の梵鐘
              平成4年(1992)3月30日登録



境内には『雷電為右衛門墓』、『築地塀(練塀』(港区文化財)、『丸木利陽墓』、『伊部香山墓』があります。


所在地 港区赤坂7-6-20 (報土寺)

 昭和4年(1767)信州(長野県)小諸在大石村に生まれた。生まれながらにして、壮健、強力であったが、顔容はおだやか、性質も義理がたかったといわれる。
 天明4年(1784)年寄浦風林右衛門に弟子入りし、寛政2年(1790)から引退までの22年間のうち大関(当時の最高位)の地位を保つこと、33場所、250勝10敗の大業績をのこした。
 雲州(島根県)松江の松平侯の抱え力士であったが引退後も相撲頭に任ぜられている。文化11年(1814)当寺に鐘を寄附したが異形であったのと、寺院、鐘楼新造の禁令にふれて取りこわさせられた。
 文政8年(1825)江戸で没した。
   昭和50年(1975)12月  東京都港区教育委員会



所在地 港区赤坂7-6-20 (報土寺)

港区登録有形文化財(建造物)
  
報土寺の築地塀練塀
          平成10年(1998)9月1日登録

 報土寺の練塀は、坂の多い港区の中でも特に急坂として知れらる「三分坂」に沿って造られており、塀が弓なりになっている珍しいものです。練塀は区内では残されているものが少なく、江戸の寺院の姿を今に伝える貴重な建造物といえます。
  東京都港区教育委員会



忍者ブログ [PR]
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
永山
性別:
男性