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東京都港区の歴史
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所在地 港区赤坂5-1-27 (中峰マンション)

  鈴降稲荷神社

 鈴降稲荷神社はもと四谷仲殿町にあり、伊賀町、仲殿町一帯がその氏子であった。元禄8年(1695)この社地が御用地となったので赤坂一ツ木に替地を給され、ここに遷座奉安された。その折任命された別当は鈴降山神宮寺別当願性院と称え毎年正月4日徳川家の武運長久を祈願したお礼を将軍に献上のため登城するならわしがあった。明治13年(1880)社殿類焼に遭い仮殿を建てて神鈴を奉安、更に明治25年(1892)内陣を土蔵造りとしたが大正12年(1923)の震災で拝殿は大破、土蔵は崩壊したので大正14年(1925)氷川神社境内稲荷社へ合祀された。今も一ツ木の横町は鈴降横町と称される所以である。
 住吉からのいいつたえによると朱雀院天台の頃の創設なりとか。花園院正和年中、稲荷の神7歳の童女にのりうつり「我は鈴降宇賀三社の霊神なり、わが持つところの鈴は天降の鈴なり一たび拝する者には家門繁栄ならしめん」と神託あり、よって鈴降の神号とすと。
 又一説には天正10年(1582)織田信長本能寺の変に遭いし折、京阪にありし徳川家康急遽三河に帰らんとて、伊賀越えの際山中にて道に迷いし時、遥かに鈴の音が聞こえるので、その放校にたどりつくと観音堂あり堂主山名孝倫なる者がいて之を迎え厨子の中より三箇の鈴を取り出し家康に献じ、且つ付近の住民を集めて道案内と警護をしつつ伊賀の白子に出、舟にて海路浜松へ帰ることが出来たという。家康は、此の恩義を徳とし、江戸幕府を開くや、孝倫はじめその折の郷民を江戸に召して四谷に地を給し、これを伊賀同心組とした。
 よって彼等は一宇の祠を建て、さきの鈴を神鈴として鈴降稲荷と号し伊賀組の鎮守としたという。


所在地 港区赤坂6-5-30

 ここは昭和4年(1929)に創立された日大三中・日大三高の発祥の地である。教育環境の変化にともない、昭和51年(1976)4月 町田市に移転した。されど、この地に想いを残しこの碑を建てる。
 平成元年(1989)4月  日本大学第三学園



所在地 港区赤坂4-3-5 (浄土寺)

 港区指定有形民俗文化財
銅造地蔵菩薩坐像
             平成5年(1993)9月28日指定



 左手に宝珠を、右手に錫杖を持ち、跌坐している。ひとびとはこの世で犯した罪業により、六道を輪廻して地獄におちると信じられていた。地蔵菩薩は、その地獄道にあって、衆生を教え導き、救済するといわれ、広く民間に信仰された。一般には六道に合わせて「六地蔵」の名が親しまれたが、六体で一具という限定はあるわけではない。
 本像には、像身・台座に数多くの刻銘がある。それによれば享保4年(1719)2月23日に、勧進僧地蔵坊正元・赤坂一木浄土寺の往持観誉らを中心に、945名の信者合力を得て作成され、鋳物師は、太田駿河守正義である。正元は、同様の形のいわゆる「江戸六地蔵」を、各所につくっているが、本像はその中には含まれていない。
 江戸時代中期における地蔵信仰のあり方を伝える資料として、また、港区における民間信仰の実態を知る資料として貴重である。
 東京都港区教育委員会



所在地 港区赤坂

 元禄8年(1695)に付近から坂上南側に移転した寺院の名称をとった。それ以前に同名の別寺があったともいう。
 平成16年(2004)9月 港区


所在地 港区赤坂5-2 (赤坂パークビル)

 品川区にある専修寺は、永禄2年(1559)曇譽上人により、青山の勢至堂を改築して開山、山院号を本山増上寺より賜う。二世誠譽上人の天正19年(1591)家康公により、赤坂堀端に家臣の菩提寺として移転。中興五世■譽上人(増上寺十八世定譽上人の直弟)の寛永2年(1625)赤坂碑と次一ツ木に代地を賜り、赤坂・専修寺として永年法灯を護寺するも、二十四世進譽上人の明治40年(1907)近衛歩兵第3連隊拡張の軍令により割譲止むなく桐ヶ谷の地に堂宇、墓碑(1573基)を移築す。
ここに歴代住職・檀信徒の佛縁を記念して當地に碑を建立す。合掌
 平成20年(2008)3月吉祥日 當山 中興二十七世香譽亮哉


所在地 港区赤坂5-2-39 (円通寺)

港区有形文化財(歴史資料)
 円通寺の梵鐘
          平成5年(1993)3月23日指定



所在地 港区赤坂5丁目辺り 

 港区文化財(旧跡)
一ツ木原古戦場跡
               平成7年(1995)3月27日指定


所在地 港区赤坂6-6-14 (サン・サン赤坂)

 この地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟が明治5年(1872)の49歳から満76歳で亡くなるまで住んでいた屋敷の跡地です。その間、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら有名な『氷川情話』などを遺しました。その時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成5年(1993)春まで港区立氷川小学校敷地として使用されていました。その後、氷川小学校が廃校となったため、その建物を生かしつつ改修を行い、平成15年(2003)から区立特別養護老人ホーム及び子ども中高生プラザとして使用して現在に至っています。施設内には、屋敷跡の発掘調査で出土した当時の縁の品などが展示されています。
 港区



サンサン赤坂にある文化財

港区登録有形文化財(歴史資料)
 九条家寄贈グランド・ピアノ
    平成14年(2002)1月31日登録


所在地 港区赤坂6-6-14 (サン・サン赤坂)

明治41年(1908)4月1日授業開始
明治42年(1909)6月27日開校式
  東に千代田の翠微を眺め 西に扶養の麗姿を望む

英傑海舟住みにしところ 我等が学舎ぞ厳しく立てる
 平成5年(1993)3月31日開校 
  碑建立 氷川小学校卒業生


所在地 東京都港区赤坂6-10-12 (赤坂氷川神社)

港区登録有形民俗文化財
 赤坂氷川神社の力石
     平成7年(1995)3月27日登録

「三十五貫」と切符があるこの力石は、神社境内の土中から発見されたものです。この力石にまつわる話は特に伝わっていません。力石は、腕力や体力を鍛えるために重い石を持ち上げて「力競べ」、あるいは「曲持ち」を行った際に使用した石で、江戸時代には、神社の祭礼などに奉納のため盛んに行われました。区内の力石は全部で14点確認されていますが、ほとんどが海岸沿いの神社に残されているのに対し、この1点だけが海岸から遠く離れたこの地にあり、興味深い例です。
  港区教育委員会


所在地 東京都港区赤坂8-11-32 (旧乃木邸)

武士は 
 玉も黄金も 
   なにかせむ 
 いのちにかへて 
   名こそをしけれ
  
             希典


所在地 東京都港区赤坂8-11-32 (旧乃木邸) 

乃木大将夫妻
 瘞血之處(えいけつのところ)
   殉死された時の血のついた物を埋めるところ


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永山
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