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東京都港区の歴史
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所在地 東京都港区芝公園4-8 (芝丸山古墳)

伊能忠敬先生は1745年(延享2年)上総國に生れて下総國佐原の伊能家を嗣ぎ村を治めて後50歳のとき江戸に出て高橋至時のもとで天文暦教の学を究めた。先生の卓見と創意とによる測地測量は1800年の蝦夷地奥州街道の實測を始めとして全國津々浦々にまで及び1818年(文政元年)江戸八丁堀で74歳をもって歿するまで不屈の精神と不断の努力とによって続けられわが國の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至った。
その偉業は引きつがれて1821年大中小の大日本沿海輿地全圖が完成せられその精度の高きことは世界を驚嘆せしめた程であり参謀本部測両局の輯成二十万分一地圖は實にこの伊能圖を骨子としたものである。
東京地学協會はその航跡を顕彰して1889年この地に贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表を建設したが不幸にして第二次大戦中に失われるに至った。扔つて今回各方面の協賛を得、この碑を再建した次第である。
 1965年5月
 社団法人東京地学協會 會長細川護立
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所在地 東京都港区芝公園4-8 (芝丸山古墳)

 円山稲荷は、増上寺の裏鬼門に位置し、山内鎮守の重要な地を占め、史跡として指定されている丸山古墳上にあります。
 随身稲荷の由来は、増上寺がこの地に移建当時桑名よりお迎えした御本尊を守護する為に江戸までお供されたいわれにより、以来永く鎮守まします大明神であります。
           大本山 増上寺




所在地 東京都港区芝公園4-8

東京都指定史跡 昭和54年(1979年)3月31日指定

 全長106m前後、後円部径約64m、前方部前端幅約40m、くびれ部幅約22mほどの、都内最大級の規模をもつ前方後円墳である。標高約16mの台地端に位置し、前方部を南々西に向けている。

 江戸時代以降、原形はかなり損じられており、とくに墳頂部や後円部西側は削られてしまっている。明治31年(1898年)に、日本考古学の先駆者坪井正五郎博士によって調査されたが、すでに後円部中央に位置したと考えられる主体部(埋葬施設)は失われており、遺体や副葬品なども不明である。なお、埴輪(はにわ)を伴うことは知られている。

 前方部が狭く低い形態や、占地状態などから五世紀代の築造とみられており、そのころ、附近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路をおさえていた、南武蔵有数の族長の墓だったと考えられる。

  平成2年(1990年)12月27日 東京都教育委員会


所在地 東京都港区芝公園4-8 (芝丸山古墳)

 この梅林は、今の新宿区西新宿3丁目の東京ガス敷地にあったもので、江戸時代は、「梅屋敷銀世界」と言われていたものを、明治41~42年(1908~1909年)ごろ16号地グラウンドの西側に移植されたが、道路拡張にともない、昭和41年(1966年)にこの1号地に移されました。
 梅林には、二代将軍徳川秀忠のお声がかりの梅も移植されていたそうですが現在はありません。
 この石碑は、琉球の棟応昌の筆によるもので、梅屋敷内にあったものです。






所在地 東京都港区芝公園4-8 (芝丸山古墳)

 初代自由民主党副総裁大野伴睦氏の句碑。

『 鐘がなる春のあけぼのゝ増上寺 』

 昭和38年(1963)6月 調理師会


所在地 港区芝大門1-12-7 (芝大神宮)

 此の御手水舎は崇敬の念篤い氏子皆様の御芳志により今年の例大祭を期し9月11日に落成致しました。茲に謹で御礼申し上げます。
 様式は四本柱の外側に二本の柱が棟を支えている(之を棟持ち柱と云う。)神明造りを形どったもので全国でも稀に見る珍しいものです。

  用材  木曽桧
  水鉢  浮全黒御影本麿
  屋根  銅板葺

  昭和41年(1966年)9月吉日 芝大神宮


所在地 港区芝大門1-12-7 (芝大神宮)

 星野立子、星野椿、星野高士、三代句碑

そよりとも風はなけれど夜涼かな    立子

千年の神燈絶えず去年今年    椿

界隈のたらだら祭なる人出
     高士


所在地 港区芝大門1-12-7 (芝大神宮)

港区有形民俗文化財 
 芝大神宮の力石

     平成7年(1995)9月26日指定

 力石は重い石を持ち上げて「力競べ」や「曲持ち」を行った際に使用した石である。特に、江戸時代後期の文化・文政期には、職業的な力持ち力士による興行が行われるようになった。
 芝大神宮の力石は、「五十貫余」の切付とともに、「川口町 金杉藤吉」の名前がある。これは、明治時代に活躍した有名な力持ち力士のひとり、芝金杉川口町の山口藤吉(慶応三年生)、通称「金杉の藤吉」のことである。芝大神宮で力持ちの興行が行われた時、金杉の藤吉がこの石を片手で差し上げたと伝えられている。
 港区内には、全部で十四点の力石が確認されているが、こうした力持ち力士の伝承がともなっているのはこの芝大神宮の力石のみであり、都市の力石の民俗を知る資料として貴重なものである。
  平成7年(1995年)9月26日 東京都港区教育委員会


所在地 東京都港区芝公園4-8-1 (芝東照宮)

  < 献句 >

枝先に光きらめき猫柳  平山輝子

幼き日に思ひ巡らし豆を撒く  服部建夫

薄氷の池ひっそりと大使館  水谷友子

たんぽぽや群がり咲ける御所の土手  山本貞子

花見堂子のたんぽぽも葺きにけり  金子静江

お台場の浮き灯台や春の潮  井上綾子

神妙に受験子鳴らす神の鈴  長友明子

将軍の御墓前花の散ってをり  山田とき

大公孫樹寿像を守り芽吹きけり  大滝勝弘

港区に生まれ傘寿や花水木  黒田富美子

梅雨の蔭木々みなもてる増上寺  金子絢子

港区は第二の故郷島渡る  佐藤登美子

望の月ベランダ越しに仰ぎけり  高野房子

母の顔知らぬ子の焚く門火かな  津金美佐子

はや灯る献句行燈生姜市  笠和子

ビル越しに海見え渡る都島  鈴木智江子 

赤羽の大根河岸に時雨くる  上山吉久

句碑の建つ神域ひろき日脚偲ぶ  中谷静雄

閑日のソファーに冬日届きけり  稲田なみえ

冬晴の海の彼方に富士峙てる  大間國家

山茶花や数奇屋作りの門構え  陶山登美江

はん女の齢の重き舞初  吉川昭




所在地 東京都港区芝公園4-8-11 

<御祭神>
  徳川家康公 御神像
  慶長6年(1602年)元旦御年六十の時 家臣に命じ之を彫刻せしむ
  東京都重要文化財指定

<御鎮座年月>
  永世国家を守護し国民の繁栄を祈願せんとの仰せにより
  元和3年(1617年)3月に当地に奉安す

<祭日>
  例大祭  4月17日(御逝去日)
  月次祭  毎月1日 17日



  <創祀沿革>
 当宮御祭神(御神体)は公の生前自ら駿府城に於いて祭儀をなされた寿像である。元和2年(1616年)4月17日公の薨去の際 公より「像を増上寺に鎮座させ永世国家を守護なさん」と仰せられ、翌年3月、現在地に社殿(安国殿)が創建された。
 明治以降、神仏分離令により芝東照宮となった。旧社殿は権現造りで国宝になったが先の戦災で焼失し、現社殿は昭和44年(1969年)完成する。公の御神徳による東都を鎮座する代表的なお社です。
 徳川家康公の思想を御遺訓から学び取ると
勤勉 慎重 堪忍 自責 簡素 倹約です。
以って世の中の安寧 世界の平和を希求する厭離穢土欣求浄土の御旗に託しているのです。
   平成6年(1994年)4月17日



<社殿>
  権現造り 昭和44年(1969年)8月完成 鉄筋コンクリート
  旧社殿は国宝なりしが戦災により焼失す

<公孫樹>
  寛永18年(1641年) 三代将軍家光公の手植
  昭和5年(1930年) 文部省指定天然記念物

                         芝東照宮


境内には『芝東照宮のイチョウ(東京都天然記念物)』、『東照宮復興祈念碑』、『武田竹塘先生紀功碑』、『星野高士句碑』、『句碑』があります。


所在地 東京都港区芝公園4-8-1 (東照宮)

 東京都指定天然記念物
芝東照宮のイチョウ
         昭和31年(1956年)8月21日 指定



 芝東照宮は、以前は増上寺安国殿と呼ばれ、『江戸名所図会』にもその姿が見られる。明治の神仏分離によって増上寺から切り離され、東照宮となった。
 このイチョウは、寛永18年(1641年)安国殿の再建に際し、三代将軍徳川家光が植えたものと伝えられている。
 昭和5年(1930年)に史蹟名勝天然記念物保存法に基づいて国の天然記念物第二類(地方的なもの)として指定されたが、昭和二十七年に文化財保護法が改正された時、国指定は一旦解除され、その後昭和三十一年に東京都の文化財保護条例に基づき指定し直され現在に至っている。
 平成5年(1993年)の調査では、高さ約21.5m、目通り幹囲約6.5m、根元の周囲が約8.3mある。
  平成14年(2002年)3月29日 東京都教育委員会


所在地 東京都港区芝公園4-8-1 (芝東照宮)

  東照宮復興祈念碑
 東照宮の御神体であり 重要文化財でもある家康公の寿像は 慶長六年 徳川家康公六十歳の新春を迎えられた正月元旦 年始の式をおわられたあと 近習丸津某に命ぜられて 公の等身大に彫刻させられたものであります 存生中はつねにみずから この寿像の祭供を行われておられたと 重要文化財である添書に明記されてあります 本営は 日光 上野 久能山東照宮とともに わが国四大東照宮として崇敬者の尊敬をあつめている由緒ある名宮であります
 こ寿像が本営にまつられましたのは 元和二年四月 御違例によって 増上寺の観智国師 了的 廊山の三高僧が駿府城に登営され そのとき家康公より「この像を増上寺に鎮座させ 永世国家を守護なさん」と仰せ出されました そしてこの丸山の地をトして社地に定められ 元和二年十月造営されたのであります
 その後 寛永十一年模様替えがあり 同十八年には社殿さらに新改築成って その枯厳なる社殿は大正四年国宝建造物に指定され神域の公孫樹(いちよう)は昭和五年八月 天然記念物に指定を受け 増上寺とともに伽藍の美を誇って居りました また 寛永年間より明治維新まで別当安土院が奉仕し 明治三年の神仏混淆廃止令によって 明治六年七月三十一日郷社に定められ 以来 芝公園町内の氏神さまとして 氏子はもとより 全国崇敬者の参拝絶える事なく春秋の大祭には 山車 催物等  賑を極めたといわれて居ります しかし 不幸にして さきの戦災により 寿像と公孫樹とを除き 社殿 灰
燼に帰してしまいました
 英雄とこしえにまつられる本営の仮神殿の現況を見るに偲びず 町内氏子 崇敬者相寄り 昭和三十六年十月 東照宮復興奉賛会を創立いたしました その後 いくたの障害もありましたが 昭和十四年八月十七日壮麗なる社殿並びに社務所が落成し
 それと前後して 防火壁 玉垣等 境内の整備もなされました 更に 昭和十八年五月十七日に水舎が完成して 現在の姿に復興するにいたりました
 江戸八百町の開設者であり 東京都の大恩人である家康公をまつる本営が復興なりましたことを心から喜ぶと共に 今後 本営が一層多くの人々の崇敬の的になることを祈願するものであります
  東照宮復興奉賛会
    名誉会長 徳川
恒孝
    会長 渡辺八左衛門
    宮司 滝孝作
    総務 石井正一郎


 東照宮復興奉賛会役員
名誉会長     
 徳川家正 徳川恒孝
名誉顧問    
 東龍太郎
会長        
 福井盛太 渡辺八左衛門
副会長
 (建設)石井正一郎 (渉外)森栄 (財政)中積宗治 
中島金蔵 
 (参道整備)清水俊雄 平川喜義
常任委員 兼 建設委員
 朝倉史吉 近藤五十資 八木弥一 小宮山茂雄 津村弘光 長崎弥一 金子富治
常任委員
 坂口正倫 佐藤量八 池田長見 佐久間源一 平岡好武
委員
 伊藤全啓 秋元喜一 森田一正 酒寄正雄
会計顧問
 渡辺八十吉
会計
 松尾新次 井口武次 石井スギ
監査
 久保祐三郎 佐藤均 三浦主人
顧問
 小田清一 前田久吉 椎尾弁匡 木下伊助
参与
 高島吉郎 高橋清作 森隆二 本阿弥猛夫 塚田恵秀 松下長平 松浦勝道 内藤温行 中里清一 池田欣司 新田新兵衛 加辺栄次 榎土伝重 田中栄一 中西敏ニ 平山羊介 岡謙四郎 青木堅三 井上正彦 高橋次郎 落合福寿 桑名邦雄 武井与四郎 前田卯太雄 国分隆 小西良助 岡田猛馬 恩田徳次郎 北村勝太郎

東照宮元宮司
 吉村重定
東照宮現宮司
 滝孝作
東照宮責任役員
 渡辺八左衛門 石井正一郎 森栄

設計者 松本設計事務所 松本昇
施工者 社寺公務所 鈴木一光


所在地 東京都港区芝公園4-8-1 (芝東照宮)

  陸軍大将左大臣議定官ニ品大勲位熾仁親王題額
近世以兵学建功非國家傅業於後進者以先生為巨擘■先生諱成章武田氏通稱斐三郎■大洲藩士幼■喪父奉母至孝弱冠■大阪及江巨修和蘭学■又攻英佛ニ学天才絶倫加以勉強遂究三兵之薀奥安政丙辰秋幕府徴先生任以函館五稜郭砲臺之建築五歳而功竣就中五稜郭規模極大壘■營舎結構布置悉法和蘭鞏無仕幕府賞其功櫂為旗士文久辛酉夏為亀田丸船長航黒龍江蓋不籍西洋人之力而航海外者前■未有也元治甲子夏歸江戸歴任開成■教授歩兵指揮長大砲指揮長砲兵頭叙市長鑄大小砲於開口街築友射爐於王子村明治戊辰夏應松代之請以佛國兵法教其藩士當■時 王政復古登庸■■辛未春先生補兵部省出仕後累官任砲兵大佐仕官学校学科提理叙從五位米國前大頭領克蘭氏甞学校観生徒之学術■練嘆稱不措贈云不譲宇内著名之兵学校之威至■先生與有力焉然■以為未盡将有■建議而未果偶罹病歿■享年五十有四實明治庚辰一月廿八日也官賜儀仗兵送其塟于淺草海禅寺又賜祭■料今茲辛巳門人故舊相議欲建碑以表先生功徳徴文於予予輿先生有素故不得辤也乃惙其行實之概累孫之以銘曰
   奉親■■ 報國忠誠 高才遠識 学通八絋
   五稜之郭 士官之■ 偉■功業 永■令名
 明治十四年三月 従五位石川良信撰 正五位日下部東作書


所在地 東京都港区芝公園4-8-55 

港区指定有形文化財(彫刻)
 閻魔大王坐像
  及び 司録・司命半跏像
          平成11年(1999)10月12日指定

 < 閻魔大王

 閻魔代魔王坐像は、寄木造、高さ2mの大王で、貞享2年(1685年)作といわれ、右に司録、左に司命の二像を従えているのは都内では珍しい。江戸時代、正月月と盆の十六日に「地獄の蓋があく」といって参詣人が群集し、門前には露店が立ち、見世物小屋が掛って賑った。

祭礼日  1月15日、16日、7月15日、16日


 < 開運出世辨才天

 三井寺の開山智証大師が天安2年(858年)竹生島で奇縁に依り彫られその後、源家に伝わり再興に当り源頼朝公深く信仰し天下を平定される。又、徳川家康公も厚く信仰され天下の平和を築かれ除波辨才天を改め開運出世辨才天と改称されました。古来より一心に崇敬拝する者に開運出世・巳成金・福寿円満・厄難消滅・縁結びの利益を授けられ現在港区七福神の一つに制定されている。

祭礼日  1日、3日、15日、28日、巳日


所在地 東京都港区芝公園4-8-55 (宝珠院)

 三井寺の開山智証大師が天安2年(858年)竹生島で奇縁に依り彫られその後、源家に伝わり再興に当り源頼朝公深く信仰し天下を平定される。
 又、徳川家康公も厚く信仰され天下の平和を築かれ除波辨才天を改め開運出世辨才天と改称されました。古来より一心に崇敬拝する者に開運出世・巳成金・福寿円満・厄難消滅・縁結びの利益を授けられ現在港区七福神の一つに制定されている。



祭礼日  1日、3日、15日、28日、巳日


所在地 東京都港区芝公園4-8-55 (宝珠院

港区指定有形文化財(彫刻)
 閻魔大王坐像
  及び 司録・司命半跏像
          平成11年(1999)10月12日指定

 閻魔大王は地蔵菩薩の変身であるといわれ、インドでは天上の楽土にあって、死者を導いたが、もちに下界におりて死者を審判する神となった。わが国では鎌倉時代(1192~1333)から、庶民信仰の対象として一般に流布するようになった。
 江戸時代には、正月と盆の16日に「地獄の蓋があく」といって参詣人が群集し、門前には露店が立ち、見世物小屋が掛って賑った。
 この閻魔代魔王坐像は、寄木造、高さ2mの大王で、貞享2年(1685)作といわれ、右に司録、左に司命の二像を従えているのは都内では珍しい。
   平成11年10月12日 港区教育委員会

祭礼日  1月15日、16日、7月15日、16日

                                              山門

所在 東京都港区愛宕2-4-7

曹洞宗
 萬年
山 青松寺せいしょうじ



東京都指定文化財(旧跡)
 
井上金峨墓
     昭和27年(1952)4月1日指定

港区登録有形民俗文化財
 奴地蔵(槍持勘助墓)
     平成5年(1993)3月23日指定












 




所在地 東京都港区芝公園1-7 (大門脇)

 芝神明は 平安時代に造られたという江戸有数の古社で 芝居のめ組のけんかなどでも有名である。 

 これは  江戸時代の しょうが市 の光景で 今日でも9月11日から21日まで長く続くため  だらだら祭り の名がある。

 背景は 二代広重、

 人物は 三代豊國の筆、

 元治元年(1864)

江戸自慢三十六興の一枚




所在地 東京都港区芝公園1-7 (大門脇)

 風景浮世絵の名手、初代安藤広重が その最晩年の安政5年(1858年)に描いた芝神明と増上寺で江戸の百景を選び、更に追加したものであろう。

 増上寺は徳川将軍の菩提寺であって江戸時代の初めからの名所でありその僧たちや、今と変らぬ参詣見物の大勢の人たちの姿が描かれている。


所在地 東京都港区芝公園2-1

   万延元年  遣米使節記念碑
The memorial Monument of the Mission 
                                            to America in 1860

 西暦1860年2月9日(万延元年正月18日)新見豊前守正興一行は日米修好通商条約批准書交換の使命をおびて江戸竹芝より米艦ポーハタンに搭乗、初の使節として米国に赴いた。副使村垣淡路守範正の詠にいう、

 竹芝の 浦波遠く こぎ出でて

     世に珍しき 舟出なりけり

 遣米使節渡航より百周年にあたり、日米両国民の友好親善の基礎を築いたその壮途をここに記念するものである。

  1960年6月  日米修好通商百年記念行事運営会


所在地 東京都港区芝公園2-1

 芝公園のうち、増上寺三門前に位置するあたりは古くから松原と呼ばれています。

 それは、寛永17年(1640)増上寺二十世大僧正南誉上人のとき、幕命によって三門の左右に松を植付けたことに始まるとも、青山家藩士の植樹で百年松原と称したことによるとも伝えられています。

 松はその後の災変によって焼失、あるいは枯死し主たる景観はくすのきに変わりました。

 都は園地改修にあたり原形を残すとともにペルリ提督像と、



遣米使節団記念碑を



配置し直し、新たにモニュメントを設置しました。

  昭和63年(1988年)3月 東京都




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