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東京都港区の歴史
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所在 東京都港区赤坂1-1-1先

 溜池は江戸時代のはじめ、江戸城の防備を兼ねた外堀兼用の上水源として作られ水道の発祥地ともなり、徳川秀忠時代には鯉、鮒を放し蓮を植えて上野の不忍池に匹敵する江戸の名所となった。徳川家光は遊泳したとも伝えられ、江戸後期には日枝神社より赤坂4丁目に通じる料金を取った銭取橋が架設され「麦とろ家」数軒と出店で、にぎわったと云われる。

 明治8年(1875年)より埋め立てに着手し明治44年(1911年)に完成したが、明治21年(1888年)12月には赤坂溜池町が創立され、明治42年(1909年)に市電が開通し、大正10年(1921年)5月に正式な町会として溜池町会が発足し、溜池角の小松ビルは元は演伎座と云う芝居館として人気を煽り東京オリンピック以後はビル街として発展し、町会名も「赤坂溜池町会」と改称し今日に到り、地下鉄新駅「溜池山王駅」の開通を記念し建立とした。(赤坂溜池町会・文責)

     平成9年(1997年)8月吉日  東京都 港区
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所在 東京都港区新橋4-31-7先



  史蹟

舊・田村右京太夫屋敷跡にして元禄14年(1701年)(辛巳3月14日)に野内匠頭の自刃せし所なり

  < 辞世 >

「 風さそふ 花よりもなほ 我はまた 
    春の名残を 如何にとやせむ 」

               東京都

石碑 青山石勝 作

 元禄14年(17012月、江戸城内の松の廊下で赤穂藩藩主・浅野長矩が高家肝煎・吉良義央に切りつける。浅野長矩は一関藩主田村建顕邸に預けられ、将軍綱吉の裁断により即日切腹となりました。吉良家には何らの咎めも受けず、しかも、播州赤穂浅野家は後に廃絶となったことから、後年赤穂浪士による討ち入りを招くこととなる。
 その跡地には昭和15年(1940)に「浅野内匠頭終焉之地」石碑が建てられました




所在 東京都港区芝公園4-2-8

 東京タワーは、ラジオやテレビなどの放送用電波を受発信する高さ333mの総合電波塔です。放送事業の将来性に着目した前田久吉と鹿内信隆g、当時、相次いで開局する各放送局の電波塔を一本化しようという構想で計画しました。
 前田久吉は「建設するからには世界一高い塔でなければ意味がない。科学技術が進展した今なら必ずできる。」と高さの意義を強く主張しました。
 昭和33年(1958)の建設時には、フランス・パリのエッフェル塔(当時312m)をしのぎ21m高い、333mの世界一のタワーでした。地上から150mには大展望台、250mには特別展望台があり、レインボーブリッジをはじめ、東京が一望できます。


 The Tokyo Towew is a 333 meter high broadcasting tower for transmitting and receiving radio and television signals.When it was built in 1958,it ousted the Eiffel Tower in Paris as the world's tallest tower.There is a large observation deck 150 meters from the ground and a smaller one 250 meters from which the Rainbow Bridge and the ground,from the entire scenery of Tokyo can be seen.

                                  城木屋お駒墓所

所在 東京都港区芝公園1-8-9(常照院)

 常照院には、『城木屋お駒』として有名な人形浄瑠璃(文楽)『恋娘昔八丈』のモデルとなった『白子屋お熊』の墓があります。





                                   白子屋お熊供養之碑


所在 東京都港区芝公園1-8-9

 登録有形文化財(建造物)
常照院本堂内陣
       平成13年(2001)11月20日指定







所在地 東京都港区芝公園3-1-8

 浄土宗 雲晴院





 <観世音菩薩>

 平成2年(1990年)11月26日朝、小学4年生の当寺の子が、いつものように途中まで見送ってくれた祖父に手を振って別れ、独りで学校に向った直後、御成門の交差点の横断歩道で後方から左折して来た自動車にはねられ、9才の命を失ってしまった。
 本人もさぞ無念であったろう、残された者達の哀別の涙は盡きることがない。
 観世音菩薩の大慈悲をもって早く浄土に往登し成仏されることを願うと共に、このような悲しい事故災害の断絶を祈念してこの像が建立された。
 将来の雲晴院住職として期待されていた正雄の短かかった人生の生き甲斐の一つとしたい。
   平成3年(1991年)6月  雲晴院


所在地 東京都港区芝公園4-8

 重要文化財
旧台徳院霊廟惣門
            昭和5年(1930)5月23日指定

 建立 寛永9年(1632) 

 構造 八脚門、屋根入母屋唐破風、銅板葺



 徳川家の菩提寺である芝増上寺には、 徳川十五代将軍のうち六人の将軍や皇女和宮等の墓所がある。戦前あった霊廟は、ほとんどが昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲によって焼失し、この台徳院(二代将軍 徳川秀忠)霊廟惣門のほか、有章院(七代将軍 徳川家継)霊廟二天門重要文化財、文昭院(六代将軍 徳川家宣)霊廟中殿(現徳川家墓所門)、清揚院(三代将軍 徳川家光の三男、甲府藩主松平綱重公)霊廟水盤舎(境内参道脇に移築)が境内とその周辺に現存している。

 なお、台徳院(二代将軍 徳川秀忠)霊廟勅額門重要文化財、台徳院(二代将軍 徳川秀忠)霊廟御成門重要文化財(勅額門と同様に家光により建てられた切妻造りの単層門で、飛天の彫刻や絵画が多く描かれているので天人門ともいわれている。)、崇源院(二代将軍 徳川秀忠の奥方 お江の方)霊牌所丁子門重要文化財も焼失を免れ、現在は埼玉県狭山湖畔、狭山山不動寺(埼玉県所沢市上山口2214)に移築保存されている。

 木像仁王像(金剛力士像)を安置している。

 

  港区指定有形文化財(彫刻)
  木像仁王像
            平成18年(2006)10月24日指定


所在地 東京都港区愛宕1-3-8

総本山智積院別院 摩尼珠山まにしゅざん 真福寺

御本尊  薬師瑠璃光如来やくしるりこうにょらい

 真福寺は京都市東山七条にある真言宗智山派総本山智積院の別院で、真言宗の宗務出張所が置かれているお寺です。

 大正19年(1591)中興照海上人が徳川家康公を慕って江戸へ出て、鉄砲洲に庵を構えたのが始まりで、慶長10年(1605)家康公より愛宕下に1360坪の土地を賜わり、開創されました。

 元禄年間(1688~1703)になると弘法大使四国八十八箇所札所詣りの信仰が盛んになり、宝暦年間(1751~1763)には御府内八十八箇所が定められ、真福寺も第六十七番札所として名を連ねています。

 このお寺のご本尊様は『薬師如来』、正しくは『薬師瑠璃光如来やくしるりこうにょらい』といい、そのお姿は、右手で人々に安らぎと勇気を、左手に持つ薬壺やっこで、病気の苦しみを除く請願を示し、『愛宕下のお薬師さん』と通称され、ご縁日には門前市を成す賑わいで、広く庶民の信仰を集めてきました。

 長い歴史の中で度重なる火災や震災などにより堂宇も焼失しましたが、大正から昭和にかけて再建された本堂や庫裡も老朽化が進み、平成7年(1995年)4月に近代的な『真福寺・愛宕東洋ビル』として再生され、宗団の東日本における拠点として活動しております。

          総本山智積院別院  真福寺



 <オランダ等使節宿館跡>

 幕府は、安政5年(1858年)、アメリカを初め、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの五ヵ国と通商条約を結び、江戸の地には、外国の使節の往来がはげしくなった。この間、江戸における使節団の宿舎として、攘夷派浪士への対策、多人数が収容できるなどの理由から寺院が選ばれている。ことに港区内の寺院は、開港場と江戸を結ぶという地理的条件から宿舎に指定されるものが多かった。
 真福寺(真言宗智山派の東京別院)は、安政5年(1858年)3月から約半年間、オランダ使節の宿舎となり、以後、当寺は、短期間であったが、ロシアやフランスの宿舎にもなった。なお、当時の建物は関東大震災で焼失した。

   昭和50年(1975年)1月

                                         山門
所在地 東京都港区芝公園4-9-8

浄土宗 妙定院

 妙定院(みょうじょういん)は、徳川九代将軍徳川家重(いえしげ)公の大導師を勤めた、増上寺四十六世妙誉定月大僧正(じょうげつだいそうじょう)によって、徳川家重公菩提のため「御中陰の尊牌」を安置して、宝暦13年(1763)、幽水閑雅だったこの地に開創された。増上寺の別院として位置づけられ、明蔵(一切経)を有し仏典研究の中心的存在でもあり、のち浄土宗の准檀林の寺格を持つ、念仏道場・学問研究の名刹として知られてきた。


                              本堂

 法然上人ご直作で熊谷直実の念持仏と伝える法然上人像をまつり、「円光大師(法然上人)東都二十五霊場」の第一番とされた。

 仏足石

 また十代将軍徳川家治(いえはる)公の尊牌も納められるなどその後の幕府の帰依も厚く、『法然上人伝絵詞(琳阿本)』などが寄進され、現在、『銅造阿弥陀如来及両脇侍立像』『琴棋書画図屏風』『奈良時代写経』など港区文化財に指定されているものも多い。『熊野堂』『浄土蔵』の二建造物は、国の登録有形文化財となっている。

 
                 熊野堂                   浄土蔵

 元伯爵・萬里小路家、明治の殖産興業の先覚者・前田正名翁などの墓所があり、平民宰相・原敬翁の在京香火院でもある。
  妙定院

Myojoin Temple

Myojoin Temple was erected here on a secluded piece of land in 1763 by the 46th Chief Abbot of Zojoji Temple,Ven.Jogetsu,for the purpose of installing the memorial tablet of the 9th Shogun of the Tokugawa Family Iyeshige for whom Ven.Jogetsu performed hisfuneral.As an attached temple of Zojoji,Myojoin held the Ming Dynasty Era complete collection of Buddhist texts and so became a central place of study as an attached seminary for Jodo Shu.As such,it became well known as an academic center and practice center for the nenbutsu.
 It is the first of 25 sacred sites in the Tokyo area associated with Honen Shonin,the founder of Jodo Shu,and houses the sratue of Honen made by himself and given to a samurai follower Kumagai Naozane as an object of veneration and practice.
The Tokugawa Family eventually became devoted members of Myojoin and donated the memorial tablet of the 10th Shogun iyeharu and numerous valuable artifacts.Myojoin also houses the pictorial biography of Honen called the Honen Shonin den ekotoba and other designated,cultural properties,as well as the two mud buildings of the Kumano-do Shrine and Jodo-zo Library which are national registered cultural properties.
The graves of well known famillies such asathose of Count Madenokoji and Baron Masana Maeda,who was a pioneer of industrial development in the Meiji Era,are also located at Myojoin.


所在地 東京都港区芝公園4-9-8 (妙定院)

 延命子育災除地蔵尊は、古くより『江戸南方四十八所地蔵尊参』の第二十七番として列せられ、戦災に遭うまで、木造丈六の大像で本院境内の地蔵堂に祀られ、霊験あらたかで、災除・安全・延命・子育を祈る善男善女の参拝が絶えなかった。
 大戦後、その焼失を惜しむ声多く、唯一焼け残った同地蔵尊の守護札版木をもとに石像として再建立され、境内別所にあったものを、台座の改築を経て、この度、より多くの方々にそのご加護あらんと、此地に移遷座されたものである。
 往来の道すがら、合掌され、地蔵尊のお慈悲に触れられんことを願うものである。
                    妙定院


所在地 東京都港区芝公園3-3(東京プリンスホテル入口横)

 <重要文化財>
有章院(徳川家継)霊廟ニ天門

 享保2年(1717)建立

 構造 三間一戸、切り妻造、銅瓦葺、八脚門



 徳川家の菩提寺である芝増上寺には、 徳川十五代将軍のうち六人の将軍や皇女和宮等の墓所がある。戦前あった霊廟は、ほとんどが昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲によって焼失し、この有章院(七代将軍 徳川家継)霊廟二天門のほか、台徳院(二代将軍 徳川秀忠)霊廟惣門重要文化財、文昭院(六代将軍 徳川家宣)霊廟中殿(現徳川家墓所門)、清揚院(三代将軍 徳川家光の三男、甲府藩主松平綱重公)霊廟水盤舎(境内参道脇に移築)が境内とその周辺に現存している。

 なお、台徳院(二代将軍 徳川秀忠)霊廟勅額門重要文化財、台徳院(二代将軍 徳川秀忠)霊廟御成門重要文化財(勅額門と同様に家光により建てられた切妻造りの単層門で、飛天の彫刻や絵画が多く描かれているので天人門ともいわれている。)、崇源院(二代将軍 徳川秀忠の奥方 お江の方)霊牌所丁子門重要文化財も焼失を免れ、現在は埼玉県狭山湖畔、狭山山不動寺(埼玉県所沢市上山口2214)に移築保存されている。

 有章院霊廟ニ天門の左右に漆塗りの広目天と多聞天を安置するが、もとは 戦災で焼失した文昭院の門の持国天、増長天と合わせて四天王として祀られていた。


                            広目天


                            多聞天


所在地 東京都港区愛宕1

 愛宕山は洪積層の丘陵地で、標高は26mである。頂上に愛宕神社がまつられ、江戸時代から信仰と見晴らしの名所としてにぎわった所である。

 愛宕神社の祭神は火の神(火産霊命 ほむすびのみこと)が中心で、江戸時代には幕府の保護もあり、多くの人々から火伏せの神として信仰されてきた。

 今日のように周囲に高層ビルが立つまでは、山頂からの眺望がすばらしく、東京湾や房総半島までも望むことができた。

 また、愛宕山には、男坂・女坂・新坂などの坂道があり、男坂は神社正面の八六段の急勾配の石段で、寛永年間に曲垣平九朗がこの石段を馬で上下したと伝えられる。

   昭和50年(1975年)12月 東京都港区教育委員会



所在地 東京都港区愛宕1-5-3

慶長8年(1603年)9月24日建立

 < 祭 日 >

大祭  9月23・24日(出世の石段祭り  隔年)

中祭  6月23・24日(千日詣り・ほおづき縁日)

小祭  各月24日(月次祭)



<主祭神>  火産霊命 ほむすびのみこと (火の神)

<祭 神>  罔象女命 みずはのめのみこと (水の神)  
         大山祗命 おおやまつみのみこと (山の神)
         日本武尊 やまとたけるのみこと (武徳の神)


 勝軍地蔵菩薩(勝運・出世)

 普賢大菩薩(辰・巳年の守り本尊)

 天神社(学業)




 <境内末社>

 太郎坊社(猿田彦神 さるたひこのかみ

 福寿稲荷神社(宇迦御魂神 うかのみたまのかみ

 弁財天社(市杵島姫命 いちきしまひめのみこと

 大黒天神祠(大國主命 おおくにぬしのみこと

 恵比寿神祠(事代主命 ことしろぬしのみこと



 愛宕神社は徳川家康公が江戸に幕府を開くにあたり江戸の防火・防災の守り神として将軍の命を受け創建されました。幕府の尊崇篤くご社殿を始め仁王門、坂下総門等を寄進され、祭礼等でもその都度下附金の拝領を得ておりました。また、徳川家康公のご持仏「勝軍地蔵菩薩」(行基作)も特別に祀られております。(非公開)

 江戸大火災、関東大震災、東京大空襲の度に焼失しましたが現存のご社殿は昭和33年(1958年)再建されました。寛永11年(1634年)三代将軍家光公の御前にて、四国九亀藩の曲垣平九郎盛澄が騎馬にて正面男坂(86段)を駆け上がり、お社に国家安寧の祈願をし、その後境内に咲き誇る源平の梅を手折り将軍に献上した事から日本一の馬術の名人として名を馳せ「出世の石段」の名も全国に広まりました。万延元年には水戸の浪士がご神前にて祈念の後、桜田門へ出向き大老井伊直弼を討ちその目的を果たした世に言う「桜田門外の変」の集合場所でもありました。

 海抜26mは都内随一の高さを誇り、桜と見晴らしの名所として江戸庶民に愛され数多くの浮世絵にもその姿を残しています。明治元年には勝海舟が西郷隆盛を誘い山上で江戸市中を見回しながら会談し、江戸城無血開城へと導きました。鉄道唱歌にもその名が残り春は桜、夏の蝉しぐれ、秋の紅葉、そして冬景色と四季折々の顔を持つ風光明媚な愛宕山として大変貴重な存在となっております。



 ほおづき市・羽子板市は浅草の市の先駆け、発祥の地として江戸時代の書「東都歳時記」にもその賑わいは記され、現在は6月の千日詣り、羽子板絵馬にその名残りをとどめています。

伊勢へ七度

  熊野へ三度

    芝の愛宕へ月まいり



 <年間神事>

 1月  元旦  歳旦祭
      7日  七草火焚き祭(七草粥授与)

 2月  節分  節分祭

 6月  23日  千日詣り・ほおづき縁日(二十四日共)
      24日  中祭式(夏越しの神事)

 9月  23日  出世の石段祭り(隔年)
           24日  大祭式

12月  大晦日  除夜祭・鏡開き式


 昭和20年(1945年)、尊攘義軍十烈士が敗戦の国を憂い山上にて自刃・玉砕、並びに二夫人がその後を追われました。現在も慰霊碑の前で御遺族、有志の人達の手により慰霊祭が行われています。

 佐藤一斎から影響を受けた西郷隆盛勝海舟江戸城無血開城前に城下を眺望。


所在地 東京都港区愛宕1-5-3 (愛宕神社)

 昔この愛宕の地に児盤水(又は小判水)と云う霊験あらかたな名水が湧き出ていました。承平3年(933年)、平将門の乱の時、源経基と云う人がこの児盤水で水垢離をとり愛宕様に祈誓をこめ神の加護により乱を鎮めたと云うことが旧記にのっています。然し現在では昔を偲ぶものとてありません。幸い都心にそびえ立つ録の名跡愛宕山にゆかりも深い児盤水の名をとどめ昔を偲び東京の新名所として御参詣の皆様に神のお恵みと心の安らぎを得ていただければ幸いと存じます。
  昭和51年(1976)如月 宮司 松岡岑男


所在地 東京都港区愛宕1-5-3 (愛宕神社)

 この石をなでると福が身につくといわれています。

  奉納  大矢根由雄


所在地 東京都港区愛宕1-5-3 (愛宕神社)

<御祭神>  猿田彦命(さるたひこのみこと)

 愛宕の太郎坊と古くから尊称され、天孫降臨の時、道案内をされた天狗様です。開拓、旅行等の守護神です。


所在地 東京都港区愛宕1-5-3 (愛宕神社)

<御祭神>  
  大国主命(おおくにぬしのみこと)
  事代主命(ことしろぬしのみこと)

 七福神の内の二神で福徳、延寿、善心、智恵、療薬を与える神様です。

  11月甲子 大国天祭
  1月10日  十日夷講
  10月20日  二十日夷講


所在地 東京都港区愛宕1-5-3 (愛宕神社)

<御祭神>  倉稲魂命(うがのみたまのみこと)

 福徳開運十種の神、衣食住、農工商の守護神として民間に信仰の厚い神様です。


所在地 東京都港区愛宕1-5-3 (愛宕神社)

<御祭神>  市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)

 慶長15年(1610年) 安芸の厳島より勧請され音楽財宝、弁財の守護神です。
 社殿両壁には篤志家自筆奉納の昇竜降竜があります。


所在地 東京都港区愛宕1-5-3 (愛宕神社)

 万延元年(1860年)に水戸の浪士がご神前にて祈念の後、桜田門へ出向き大老井伊直弼を討ちその目的を果たした世に言う「桜田門外の変」の集合場所でした。


櫻田烈士愛宕山遺蹟碑 東京市長 大久保留次郎書

此ノ地ハ萬延元年三月三日昧爽水戸藩士斎藤監物 関鐵之介 佐野竹之介 黒澤忠三郎 大関和七郎 廣岡子之次郎 山口辰之介 森五六郎 岡部三十郎 鯉淵要人 稲田重蔵 杉山彌一郎 蓮田市五郎 森山繁之介 廣木松之介 増子金八 海後磋磯之介 薩摩藩士有村次左衛門等天下ノ為ニ幕閣ノ大老井伊直弼ヲ斃サントシテ勢揃ヲ為セル處ナリ
抑々櫻田事變ナルモノハ水薩ノ志士協力シテ井伊大老ヲ斃シ後直チニ京都ニ結集シ 至尊ヲ奉シテ天下ニ大義ヲ唱ヘントシタルモノナリ
金子孫次郎 高橋多一郎ノ二領首ハ機ヲ逸セス京阪ニ赴キシモ事ハ齟齬シテ薩兵来ラス終ニ金子ハ京都伏見ニ捕ヘラレ高橋ハ其ノ子庄左衛門ト共ニ大阪四天王寺ニ居腹
然リト雖モ斯ノ一擧遂ニ克ク三百年ノ幕府政治ヲ倒壊セシメ以テ皇政維新皇国興隆ノ新體制ヲ招来スベキ導火線タルノ偉功ヲ樹タリ
然ルニ世人櫻田門ノ史蹟ヲ知ルモ事前ニ於ケル烈士愛宕山上勢揃ノ事蹟ニ至ツテハ■トシテ之ヲ識ル者ハ殆ト殊ナリ吾人其ノ遺蹟ノ滅ニ歸セントスルヲ慨シ此ニ碑ヲ建テ来者ニクルアラントス

皇紀二千六百一年三月三日 建之
 櫻田烈士遺跡顕彰會長 三木哲次郎
 故貴族院議員 室田義之
 貴族院議員 徳富猪一郎
 財団法人多摩聖蹟記念會長 長尾欽
 芝區有志 茂又四郎介
 同 茂又幸雄
     大東文化學院教授文學士正四位 峰間信吉撰
     金子孫次郎孫法學士 金子榮一書


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