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東京都港区の歴史
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所在地 東京都港区芝公園4-7-35 (増上寺)

  心と創造

学びの精神はいつの時代でも人を育み

人とともに歩んでいきます

その歩みの中で心豊かに

それぞれの人生を創造していきます

学びとは心の糧であり創造の源です

努力と研鑚 勇気と希望 自信と志 の象徴です

碑に刻まれた「心と創造」が

明日へ歩む子どもたちの人生の標となるよう

ここに努力の軌跡を残し

今 感謝の気持ちを込めて

学び具を奉納します



 子どもたちへ
 学べよ 努めよ 今がその時です


             平成16年(2004)2月吉日  
             練成会グループ


所在 東京都港区芝公園4-7-35 (増上寺)

  仏足石 
(THE STONE IMAGE OF BUDDHA'S FOOT)

 仏足石は仏の足うらの形(千輻輪相)を石に彫りつけたもの、インドでは仏像が刻まれる以前は仏足石や菩提樹などで釈尊を象徴的にあらわし、人々はこれらを仏として礼拝した。
 この仏足石は、当山第70世福田行誠上人の代、山内宝松院松涛泰成上人の発願により明治14年(1881)5月に建石されたもので、側面には仏像、経文、由来などが刻まれている。




所在 東京都港区芝公園4-7-35 (増上寺)


月かげの
  いたらぬ里は
    なけれども
  
ながむる人の
    こころにぞすむ



 観無量寿経に説く「光明は遍く十方世界を照して念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」の意を法然上人がお歌に示されたものである。浄土宗の宗歌になっている。
  <寄贈  千代田水産株式会社>

                                         増上寺大門
                                       
所在地 港区芝公園4-7-35

三緑山 広度院 増上寺

 明徳4年(1393)、浄土宗第八祖聖聡上人によって開かれた増上寺は、現在の千代田区紀尾井町にあたる「江戸貝塚」に創建され、室町から戦国時代にかけて、東国の浄土宗の要として発展してきました。


                      増上寺三解脱門(三門)(国文化財)

 安土桃山時代になった慶長3年(1598)、徳川家菩提寺として現在の芝の地に移されました。徳川家康公が江戸入府の際、当時の住職・善光観智国師存応大僧正に深く帰依されたのをきっかけに 徳川家康公の手厚い保護を受け隆盛を極めることとなります。増上寺には二代将軍徳川秀忠など徳川家6人の将軍の霊廟が設けられ、境内のあちこちに葵の紋が見られます。将軍家の菩提寺として、筆頭学問所として、浄土宗行政の中枢機関として、その揺ぎない地位を保ってきました。明治の新政府誕生までは、寺領一万石余り、二十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。


                                         増上寺大殿

 明治に入って二度の大火、そして昭和の東京大空襲と災厄に見舞われますが、昭和46年(1971)から4年の歳月をかけ、現在の壮麗な大殿を建立し、復興を果たしました。

 
           水盤舎(港区文化財)

 現在は、消失をまぬがれた三解脱門(三門)(国文化財)増上寺圓光大師堂(旧景光殿)表門(港区文化財)黒門(旧方丈門)(港区文化財)水盤舎(元甲府宰相綱重御霊屋水屋)(港区文化財)増上寺経蔵(東京都文化財)など古くからの建造物をはじめ、増上寺大殿安国殿圓光大師堂(旧景光殿)大梵鐘(港区文化財)徳川将軍家墓所2代将軍 徳川秀忠公(台徳院殿)・お江(崇源院殿)夫妻の墓所6代将軍 徳川家宣公(文昭院殿)墓所7代将軍 徳川家継公(有章院殿)墓所9代将軍 徳川家重公(惇信院殿)墓所12代将軍 徳川家慶公(慎徳院殿)墓所14代将軍 徳川家茂公(昭徳院殿)墓所14代徳川家茂公正室 静寛院和宮墓所、合祀塔]、鋳抜門千躰子育地蔵尊西向観音像(港区文化財)四菩薩像(港区文化財)貞恭庵大納骨堂佐瀬得所遺徳之碑聖観世音菩薩像水盤舎鋳抜門前の句碑写経塔勢至丸像法然上人歌碑仏足石筆塚弔魂之碑聖鋏観音孝於止碑魚供養之碑光摂殿前の歌碑詠唱発祥の地阿波丸の碑め組供養碑ブッシュ槙グラント松増上寺のカヤ(港区天然記念物)熊野神社土木建築殉職者慰霊塔、などが、約1万6千坪の広大な敷地の中にあります。
 また敷地外には大門旧台徳院霊廟惣門有章院霊廟ニ天門御成門松原
があります。

 

 現在でも浄土宗の大本山として宗教活動のほかに、文化的な活動も幅広く行われています。明徳幼稚園、三康文化研究所、三康図書館、静寛院宮奉賛会など。
 主な年中行事は、正月、5月、9月の毎15日に行なわれる黒本尊祈願会(ご開帳)、4月14日~16日の御忌法要、涅槃会、花まつり、施餓鬼会、十夜法要などです。



                                     増上寺と東京タワー

  Zojo-ji Temple

Zojo-ji Temple was established by Shoso-shonin,the eighth founder of jodo sect of Buddhism and located in Edo-kaizuka (Edo kitchen midden), present Kioi-cho, Chiyoda-ku. As the main and leading temple of the sect in the East,it hadbeen developed and expanded through the 15th century.
In 1598,Zojo-ji Temple was relocated to present Shiba area as the Tokugawa's family temple and prosperously developed under leyasu's great protection and care. Because of this,there are six mausoleums of Shogun including the second Shogun,Hidetada,and people can easily find the family crest"mallow"all over the temple.
Unfortunately two big fire in Meiji Period and aiso the Tokyo Air Raid in 1945 hit the temple. Four-years of restoration from 1971,however,made the present magnificent big shrine(O-den)built and revitalized the temple.
The old construction survived from the fire including the "San Gedatsu-mon Gate(Three-deliverance gate)" and "Kuro-mon Gate(black gate)" and many other constructions such as "Shoro-do(Belfly hall)" and "Yasukuni-den(Shrine to pray for the prosperity of the nation)" are located orderly in the vast premises of approx. 16,000 tsubo(approx.4850㎡ or 1.2 acre).


港区指定有形文化財(絵画)
  五百羅漢図(絹本着色)  昭和54年(1979)10月23日指定
  法然上人行状絵  昭和59年(1984)10月15日指定
  涅槃図(紙本着色)  平成2年(1990)10月24日指定

港区指定有形文化財(彫刻)
  木造僧形坐像  平成20年(2008)9月9日指定

港区指定有形文化財(古文書)
  増上寺所蔵文書  平成元年(1989)10月25日指定
  増上寺十三世正誉廊山自筆 涅槃図置文 平成11年(1999)10月12日指定
  源誉存応関係文書  平成19年(2007)10月23日指定

港区指定有形文化財(歴史資料)
  徳川家霊廟天井板  平成17年(2005)10月25日指定


所在地 東京都港区芝公園2-12 (瘡守稲荷神社)

港区指定有形文化財(歴史資料) 
  元禄七年銘 納経石塔
   
      平成12年(2000)10月24日指定

 前面右側に観音菩薩、左側に不動明王の二尊を浮彫りにした石塔で、元禄7年(1694年)に造立されたものです。この時期の石造物としては比較的大きく、観音菩薩・不動明王の二尊像は、ほとんど風化せずに良く残っています。



 背面にはこの石塔の由来を示す136字からなる銘文が刻まれています。それによると、元禄6年(1693年)に大蔵経を納める経蔵の蔵司の居処を定め、その地を譲るために蔵司の発願で翌年この石塔を造立したことがわかります。このように、この石塔は増上寺への納経に関わって造立された石造物として貴重なものです。



  背面銘文

武州増上教寺者浄家十八叢林冠首幕下将軍累世帰依之霊場場也
東照神君家康公命近臣今納三大蔵経矣元禄六癸酉■秋■貞譽大和尚通宮家以此地永須辨職蔵司者為居虜也余有■願彫刻於観世音不動明王之石像擁護遐代祈祈の之頌

   示現二尊雄 眞心法界宮
   譫敬離悪趣 福寿垂無窮
  元禄七甲戌歳2月28日 三緑山蔵司 自信謹詰

     平成12年(2000年)10月24日 港区教育委員会


所在 東京都港区芝公園1-5

 江戸時代、ここに良源院(増上寺子院)があり、仙台藩伊達家の支度所として、藩主等の増上寺参詣の折などに使われていた。

 万治3年(1660)の伊達騒動の際に嗣子亀千代(後の綱村)を毒殺の危険から守ろうとして、母の浅岡の局がこの井戸の水を汲んで調理したといい伝えられる。



 昭和62年(1978年)新庁舎開庁にあたり、旧庁舎中庭にあったものを、ここに移設して保存した。

          東京都港区


所在地 港区芝公園1-1

港区指定文化財(旧跡)
日本近代初等教育発祥の地
   (小学第一校・源流院跡)
          平成2年(1990)10月24日指定

 わが国の近代初等教育は、明治5年(1872)の学制発布に先立ち、明治3年(1870)に東京府が府内の寺院を仮校舎として、六つの小学校を設立したことに始まり、その第一校は、6月12日に開校した。第一校のおかれた源流院は、江戸時代初期からの増上寺子院で、当時、境内北辺の御成門東側のこの地にあった。大訓導(校長)村上珍休、教師、助教と生徒中の秀才が生徒と教えた。授業は主として句読(音読)・習字・算術で、生徒は8歳から15歳までとし、机・硯箱・弁当は各自持参した。
 この小学第一校は、明治4年(1871)に、西久保巴町(虎ノ門3丁目)へ移り、その後、校名も、第一大学区第二中学区第一番小学、鞆絵尋常高等小学校、鞆絵国民学校、鞆絵小学校などと変わった。
 平成2年(1990)10月24日  東京都港区教育委員会


所在地 港区芝公園3-2-25 (みなと図書館) 

 お台場(内海苔台場)は、嘉永6年(1853)黒船来航により、幕府が急きょ築造した海上砲台です。未完を含め7基の台場のうち、国の史跡指定を受けた、第3と第6の2基を残して、その他は解体、埋め立てられました。
 この石は、その時、第5台場(現・港南5丁目)から移されたといわれています。
 伊豆周辺から運ばれた安山岩で側面には、約100年の間、波に洗われた跡をとどめています。


所在地 港区芝公園3-2 (芝公園)

 北海道大学の前身である開拓使仮学校は、北海道開拓の人材を育成するため増上寺の方丈の25棟を購入して、明治5年(1872)3月(陰暦)この地に開設されたもので、札幌に移し規模も大きくする計画であったから仮学校とよばれた。
 生徒は、官費生・私費生各60名で、14歳以上20歳未満のものを普通学初級に、20歳以上25歳未満のものを普通学2級に入れ、さらに専門の科に進ませた。
 明治5年(1872)9月、官費生50名の女学校を併設し、卒業後は北海道在籍の人と結婚することを誓わせた。
 仮学校は明治8年(1875)7月(陽暦)札幌学校と改称、8月には女学校とともに札幌に移転し、明治9年(1876)8月14日には札幌農学校となった。


所在地 港区芝公園3-3 (東京プリンスホテル)

 増上寺(徳川家菩提寺)の裏門としてつくられたが、将軍が参詣する際にもっぱら用いられたので、「御成門(おなりもん)」と呼ばれるようになった。
 初め「御成門」は、現在の御成門交差点にあったが、明治25年(1892)の東京市区改正計画で、内幸町から増上寺三門を経て芝公園に至る道路が新設された際に、この市に移築された。
 その後、増上寺三門や旧庫裡門・徳川家墓地惣門ニ天門とともに、関東大震災や太平洋戦争の戦火から難をのがれて今日に及んでいる。
 昭和48年(1973)3月  東京都港区教育委員会


所在地 港区芝公園4-9-8 (妙定院)

国指定有形文化財(建造物)
 熊野堂(妙定院)
       平成13年(2001)11月20日指定



 寛政8年(1796)妙定院第3世定観上人により建立。熊野三社権現を祀る鎮守。2006年に境内南奥より解体修理移築。
  妙定院


所在地 港区芝公園4-9-8 (妙定院)

国登録有形文化財(建造物)
 浄土蔵(妙定院)
      平成13年(2001)11月20日指定



 文化8年(1811)妙定院第4世宝観上人により建立。妙定院の収蔵品を長く伝えてきた。2006年に境内南奥より解体修理移築。
   妙定院


所在地 港区芝公園4-9-8 (妙定院)

 お釈迦さまの足の裏の形(千幅輪相)を石に彫り、長らく拝まれてきた。側面には経典が刻まれている。定月大僧正百回忌(1870)に制作された。
  妙定院


所在地 港区芝公園4-9-8 (妙定院)

 港区有形文化財(彫刻)
銅造阿弥陀如来及両脇侍立像
             昭和61年(1986)10月20日指定
 
 本像は岩百合善光寺式三尊にあたる三尊一具像の遺例です。その祖形は信濃善光寺の根本仏として伝えられる像にあるとされ、欽明天皇13年(551)に百済からもたらされた長さ1尺5寸の阿弥陀如来と同一尺の観音・勢至菩薩で、金で鋳造された霊験像であるといいます。今日、善光寺本尊は秘仏ですが、之を模刻して崇める記録は平安時代後期からみられ、鎌倉時代のち模像の遺例はにわかに増えて各地に及び、その間細部の形式に異同も生じています。
 本像の像高は中尊が41.4cm、左脇侍30.7cm、右脇侍30.3cmで通例の法量を示しています。三尊とも銅鋳し鍍金を施しています。
 
 中尊は細面の長身に作られ、著しい伏目の面相は親しみやすく、江戸時代前期の作風を表しているのに比べ、両脇侍は肩を張った体躯と丸みのある頭部が形姿を整えており、制作年代は両脇侍がやや先行するものと思われます。このように本三尊像は一具同作とは認めがたいものですが、善光寺式三尊像の遺制をよく伝えた作例として、また三尊が均衡を得た構成を示している作例としても貴重です。
  港区教育委員会


所在地 港区芝公園4-9-8 (妙定院)

 港区有形文化財(絵画)
琴棋書画図屏風
       昭和61年(1986)10月20日指定

 古来、中国では、琴、棋、書、画の四芸を士大夫・教養人の嗜みとして尊重しました。わが国でも、ことに漢詩文学に傾倒し、隠逸を愛した五山僧の間にこれを習おうとするところが多く、絵画に表されたのは少なくとも室町時代初期にまで遡ることができます。以後、公武の愛好も得て、琴棋書画図は唐人物を描く際の画題として、江戸時代に至るまで長く制作され続けました。
 筆者の狩野探雪(1655~1714)は、幕府御用絵師として活躍した狩野探幽(1602~1674)のニ男です。父探幽は、探信、探雪の二子を深く愛したため、兄探信が鍛冶橋狩野家の家督を継ぐにあたっては、その所領を両分し、別に一家を立てたと言います。探雪も幕府の絵師として多くの仕事を行い、天和2年(1682)及び宝永6年(1709)の2度にわたって来日中の李氏朝鮮使節に贈る屏風を制作しています。本図は、父探幽の画風を忠実の祖述したもので、いかにも御用絵師らしい筆による謹厳な画面が作り上げられています。江戸初期における武家好みのアカデミックな狩野派様式を知るための貴重な作品です。
  港区教育委員会


所在地 港区芝公園4-2-8 (東京タワー)

南極観測ではたらいたカラフト犬の記念像
          1959年財団法人日本動物愛護協会



1956年11月 南極観測隊にソリ犬として同伴しその功績は大きかった
1958年2月  観測隊の引きあげのとき15頭は鎖につながれたまま残された
1959年1月  第三次観測隊が奇跡的にも生存していたタロー、ジローの2頭を発見収容したが他の13頭は餓死したものと思われる


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