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東京都港区の歴史
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所在地 港区三田3-7 (住友不動産三田ツインビル)

 都指定旧跡
元和キリシタン遺跡
     昭和34年(1959)2月21日指定

 徳川3代将軍徳川家光が元和9年(1623)10月13日、江戸でキリシタンを処刑したことは徳川実紀によって知られている。処刑された者はエロニモ、デアンゼルス神父、シモン、遠甫、ガルウエス神父、原主水ら50人で、京都に通ずる東海道の入口にある丘が選ばれたと、パジェスの「日本キリシタン史」にあるが、その他は恐らくものと智福寺のあった西の丘の中腹の辺であろうと考えられる。その傍証としては智福寺開山一空上人略伝記にこの地が以前処刑地で長い間空地となっていたが、そこに寺を建てることは罪人が浮かばれると考えたとあることなどがあげられる。
 なお、寛永15年(1638)12月3日にも同じ場所でキリシタンらが処刑されている。
 昭和43年(1968)3月1日建設  東京都教育委員会

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所在地 港区三田4-17-28 (区立三田台公園)

 

 昭和53年(1978)縄文、古墳時代の住居跡と貝塚断層が港区三田4丁目19番で発掘されました。

 

 これを永く保存すると共にその当時の生活環境を身近に理解していただくためこれらを再現しました。又、非常用の井戸、芝生広場、身障者の方も安心して利用していただくための施設等整備されていますので大切にあつかいましょう。
  港区役所

 


所在地 港区三田4-11-19 (玉鳳寺) 

 港区登録有形民俗文化財
化粧延命地蔵(おしろい地蔵)
          平成4年(1992)3月30日指定









所在地 港区三田4-8-23

 妙荘山 薬王寺

 史 跡 

一、朝顔の井戸
 
 明治の書聖
一、中林悟竹の墓
 
 開蒙舎
一、御田小学校発詳の寺



所在地 港区三田4-12-15 (実相寺)

港区指定文化財(歴史資料及び有形民俗)
会津松平家由来 
  常香盤(香盤時計)
              平成21年(2009)10月27日指定





所在地 港区三田4-4-14 (明福寺)

 港区登録有形文化財(絵画)
絵本金地着色獅子図(襖貼付)
              平成9年(1997)3月11日指定





所在地 港区三田4-1-38 (大松寺)

港区指定有形文化財(絵画)
 絵本墨画五百羅漢図下絵
         狩野一信筆
            平成16年(2004)10月26日指定

港区指定有形文化財(彫刻)
 木造阿弥陀如来立像
            平成6年(1994)9月27日指定


所在地 港区三田1

 天祖神社を元神明というところから神明坂と呼んだ。馬場坂という説もあるが綱の手引坂との混同があるらしい。
  平成19年(2007)8月 港区


所在地 港区三田2-15-45 (慶應義塾大学)




             福沢諭吉胸像


                                    図書館旧館


              三田演説館

港区指定有形文化財(古文書)
 反町文書
       平成20年(2008)9月9日指定


所在地 港区三田2-15-45 (慶應義塾大学)

国指定重要文化財(建造物)
 慶應義塾図書館
     昭和44年(1969)3月12日 指定

 

 この建物は義塾創立50周年を記念し明治45年(1912)4月、工学博士曽禰達蔵、工学士中條精一郎両氏の設計監督によって完成したもので、外国人の手を全く借りずに造られた洋風煉瓦館としては一級品である。震災、戦災による被害を修復し、今日なお当初の遺構を留めている。煉瓦建築の少ない我が国にあって、建築史上貴重な存在である。
 様式    ゴシック式
 建築面積 684.4平方メートル
 


所在地 港区三田2-15-45 (慶應義塾大学)

    重要文化財 三田演説館の由来
 慶応義塾の三田演説館は、福澤諭吉先生によって建設されたわが国最初の演説会堂である。開館は明治8年(1875)5月1日、はじめはいまの塾監局の北端のあたりにあったが、大正13年(1924)に現在のところに移築された。



 構えは木造かわらぶき、なまこ壁で、日本独特の手法が用いられているけれども、本来アメリカから取り寄せた諸種の図面をもとにして造られたものであって、明治初期の洋風建築のきわめて珍しい遺構とされている。規模は床面積191平方メートル余、一部が2階造りになっていて、延面積は280平方メートル余りになる。
 福澤諭吉先生は晩年、この演説館について、「其規模こそ小なれ、日本開闢以来最第一着の建築、国民の記憶に存すべきものにして、幸いに無事に保存するを得ば、後五百年、一種の古跡として見物する人もある可し」としるしておられる。まさに、三田演説館はわか国文化史上の貴重な記念物というべきであろう。
 慶応義塾



此ノ演説館ハ明治8年(1875)5月1日福澤先生ガ世ニ率先シテ演説ノ法ヲ普及センガ為ニ創建サレタル我國最初ノモノニシテ大正4年(1915)東京府ノ史蹟ニ指定サルコレハ始メ慶応義塾塾監局建物ノ北端に位置セルモ大正13年(1924)火災ノ危険ヲ慮リ稲荷山ノ丘上ニ移サレ幸ニ太平洋戦ノ災禍ヲモ免ルルヲ得タリ然ルニ荒廃既ニ久シキヲ以テ幼稚舎同学ノ四四會有志相謀リ之ガ修復ニ及ベリ本館ニ■シ先生ノ曰ク「慶応義塾ノ演説館は其規模こそ小なれ日本開闢以来最第一着の建築國民の記憶に存す可きものにして幸に無事に保存することを得ば後五百年一種の古跡として見物する人もある可し」ト爾来僅ニ半世紀ニシテ日本文化史ノ一頁ヲ飾ル歴史的建物ノ一ニ敷ヘラルルニ至ル洵ニ先生ガ先見ノ明ニ服スルモノナリ
 昭和22年(1947)5月誌


所在地 港区三田4-19-15 (NTTデータ三田ビル)

 伊皿子貝塚は、NTTデータ三田ビルの建設に伴って大規模な発掘調査が行なわれ、明らかとなりました。
 伊皿子貝塚は、縄文時代後期(紀元前4,000年ぐらい~紀元前400年ぐらい)の保存状態の良い大規模なもので貴重な遺跡となっています。また、縄文時代だけでなく弥生時代(紀元前400年ぐらい~3世紀中頃)、古墳時代(3世紀後半~7世紀中頃)の住居跡など発掘されています。
 出土した土器などは、港郷土資料館に展示されている他、NTTデータ三田ビル北側丘の上にある区立三田台公園には、伊皿子貝塚遺跡で発見された縄文時代の住居跡が復元されていたり、貝塚の断面が展示されています。


所在地 港区三田4-7-29

浄土宗 
 長松寺



 長松寺境内には『荻生徂徠墓』があります。

 


所在地 港区三田4-7-29 (長松寺)

国指定史跡
 荻生徂徠墓おぎゅうそらいはか
     昭和24年(1949)7月13日指定

 江戸時代中期の儒学者。字は茂卿、通称惣右衛門、徂徠は号である。寛文6年(1666)館林藩邸に生まれた。14歳から13年間、父方庵に従って上総国長柄郡本納村に流寓の生活を送り、独学自習、将来の学問の基礎を築いた。元禄3年(1690)江戸に戻り、柳沢吉保に用いられ、将軍綱吉にもしばしば儒学を講義するようになった。綱吉没後、日本橋茅場町に家塾「蘐園けんえん」を開いた。宋学を重んじ、伊藤仁斎の復古学を批判し、古文辞学を大成した。その学問は経学のみでなく江戸後期の政治、経済、文学等に大きな影響を与えた。「論語微」「明律国字解」「訓訳示蒙」「蘐園随筆」等多くの著書がある。将軍吉宗の諮問に応えて享保7年(1722)「政談」を幕府に献上した。享保13年(1728)1月19日63歳で死去した。
 平成12年(2000)3月設置 東京都教育委員会

  荻生徂徠(寛文6年〔1666〕~享保13年〔1726〕)の墓
 名は雙松、字は茂卿、通称惣右衛門、徂徠はその号であり、物部氏の出を称したところからしばしば物茂卿と自署した。
 徂徠は徳川時代の最大の儒者の一人であり、大東の文章我を俟ってはじめて興ると自ら豪語したのは必ずしも誇張ではない。彼の学問は日本儒学史に一大転換をもたらしただけでなく、清朝の儒者からも高い評価を受けた。

 [学問の特色]
 父方庵の赦免によって南総から江戸に戻り、元禄9年(1696)柳沢吉保に仕えて、5代将軍綱吉の知遇を得て儒学を講じた。その頃から早くも徂徠は中国語の会話に関心を持っていたが、言語の構造の歴史的変遷に着目する彼の方法はやがて「古文辞学」に結晶し、享保以後朱子学にたいする体系的批判の展開となって、学会に大きな衝撃を与えた。江戸後期の経学は朱子学者を含めて、積極消極両面で徂徠の影響なしには考えられない。徂徠が綱吉没後、日本橋茅場町に開いた私塾は地名にちなんで「蘐園けんえん」と名付けられたが、これはまた徂徠学派の別名ともなった。

 [学問の藩医]
 徂徠の学問はいわゆる経学の革新をもたらしただけでなく、その学風は文学、芸術から兵学、法律、教育、民俗学などおどろくべき広汎な領域に及んだ。そのなかでも、人間の自然的な勧請を尊重し、これを画一的な道徳基準から解放しようとする態度は、国学をはじめとする江戸後期の文学運動と文人趣味に受けつがれ、日本における近代芸術の動向の有力な源泉となっている。

 [政治的献策]
 治国平天下という儒学の原点への復帰を主張する徂徠の立場は、学理にとどまらず現実政治へのさまざまな献策として現われた。早く赤穂浪士事件にたいする彼の著名な意見具申をはじめとして、8代将軍吉宗の諮問に応じて幕藩体制の根本的病理を縦横に解剖し、また江戸の消防組織から通貨対策にいたるまでのきわめて具体的な政策を提唱した。これら現実政治を扱った「政談」その他の徂徠の論考は、没後世上に流布し江戸後期の政治思想にさまざまの影響を及ぼしている。

 [主要著書と門人]
 徂徠のおびただしい著書のうちもっとも著名なものは、経学として「学則」「弁道」「弁名」「論語微」、諸子及び兵学として「読筍子」「読韓非子」「呉子国字解」「鈐録けんろく」、随筆として「南留別志なるべし」「蘐園随筆」などがあり、また門弟によって編纂された「徂徠集」三十一巻がある。個性の伸長と肝要の精神に立った徂徠の教育方針は、天下の英才を蘐園に蝟集させる結果となった。主要な高弟には服部南郭、安藤東野、山縣周南、太宰春大台、山井崑崙こんろん、宇佐美灊水しんすいなどがある。
 享保13年(1728)1月19日没、享保63歳。墓誌銘は伊勢神戸藩主本多伊予守忠統の作である。
 昭和53年(1978)1月19日 没後250年を記念してこれを建てる。
  八代之裔 荻生敬一


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