東京都港区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在 東京都港区赤坂8-11-27 (乃木神社) 竹添井々略歴 竹添進一郎、光鴻号は井々、天保13年(1842年)天草郡大矢野島に生る。出熊本下韡村の門に学び、時習館居寮生となる。幕末戊申の役には肥後藩の参謀。時習館の訓導助勤後、明治5年(1872年)から7年(1874年)まで玉名郡伊倉村に開塾。上京仕官、詩文の才を認められ朝鮮公使、東京帝大教授となる。棧雲峡雨日記、論語会箋、毛詩会箋、春秋左氏会箋等の著述多し。文学博士、大正6年(1917年)歿76歳墓は東京小石川の護国寺 双殉行 井々竹添光鴻 大正元年作 戦雲壓城城欲壊 腹背受敵我軍負 聯隊旗兮臣所掌 爲賊所奪臣罪大 旅順巨砲千雷轟 骨砕肉飛血雨腥 二萬子弟爲吾死 吾何面目見父兄 靑山馳道連朱闕 萬國衣冠儼成列 靈輿肅肅牛歩遲 金輪徐輾聲如咽 弔砲一響臣事終 刺腹絶喉何從容 旁有蛾眉端坐伏 白刃三刺繊手紅 遺書固封墨痕濕 責躬誡世情尤急 言言都自熱腸逬 鬼哭神恫天亦泣 嗚呼以身殉君臣節堅 舎生從夫婦道全 忠魂貞靈長不散 千秋萬古侍桃山 昭和56年(1981)7月 寄進 肥後史話著者 卯野木卯一良 PR |
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永山
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