東京都港区の歴史
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アンティノウスは、ローマ皇帝ハドリアヌス(117~138年在位)が寵愛した美しい小姓であったが、アレキサンドリア郊外のカノプスで溺死したことを悲しんだ帝は、彼の想い出のため、英雄や神々の姿をした多くの像を造り、またローマ近郊のティヴォリの離宮には、アンティノウスに捧げた建物『カノプス』を建てた。 この像はバチカン宮殿にある同姿の一体とともに1798年古代ローマの外港であったオスティアで発見されたものである。
<御祭神> 倉稲魂命(くらいなたまのみこと) 天鈿女命(あめのうずめ) 瓊々杵尊(ににぎのみこと)
平安時代天慶3年(940年)に平将門が東国で叛乱を起こしたとき 征討将軍 藤原秀郷が当社に戦勝を祈願したとも このとき勧請したとも伝えられている。 室町時代の享徳4年(1455年)には室町幕府の関東管領で古河公方と云われた足利成氏は 当社に 戦勝を祈願した その祈願状は今日も当社に宝物として伝えられている。 江戸時代は稲荷信仰により祭礼も2月初午の日に執行せられ 稲荷祭としてその賑わいは 江戸で一二を争うものであった。 明治以降は5月4,5,6日を祭日とし 夏祭のはしりとしてその名をうたわれている。 当社殿は 伸びゆく新橋の地にふさわしい近代建築美の中に 神社本来の伝統を加味し昭和46年(1971年)12月 氏子の熱意により竣工をみたものである。 昭和46年(1971年)12月 宮司 山田將夫 所在 東京都港区新橋4-31-7先 史蹟 舊・田村右京太夫屋敷跡にして元禄14年(1701年)(辛巳3月14日)に淺野内匠頭の自刃せし所なり 石碑 青山石勝 作
元禄14年(1701)2月、江戸城内の松の廊下で赤穂藩藩主・浅野長矩が高家肝煎・吉良義央に切りつける。浅野長矩は一関藩主田村建顕邸に預けられ、将軍綱吉の裁断により即日切腹となりました。吉良家には何らの咎めも受けず、しかも、播州赤穂浅野家は後に廃絶となったことから、後年赤穂浪士による討ち入りを招くこととなる。 所在地 港区新橋5-19 塩釜公園の沿革 江戸時代、この公園の場所は、仙台藩主伊達家の中屋敷内にあり、盬竈神社(しおがまじんじゃ)の境内になっていました。 この神社は、はじめ元禄8年(1695)に今の東新橋にあった伊達家上屋敷内に、領地の盬竈神社本社から分霊を迎えて祀られていたものが、安政3年(1856)に移転され、邸内社として私に祀っていました。その後一般の人々にも参拝を許し、本社に同じく安産の神様として信仰を受けました。 明治になり、大名屋敷がなくなってからも神社は存続しましたが、大正12年(1923)の関東大震災の後、災害時の避難場所の確保と町民の安息や子どもの遊び場もかねて、昭和5年(1930)に東京で唯一の町立盬竈公園として開園しました。 その後、昭和46年(1971)、港区が区立塩釜公園として整備しましたが、敷地拡張に伴い、この度、全面改造を行いました。 昭和59年(1984)12月 東京都港区 |
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