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東京都港区の歴史
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                     泉岳寺中門(港区文化財)

所在地 港区高輪2-11-1 (泉岳寺)

萬松山 泉岳寺

 当萬松山泉岳寺は、慶長17年(1612)、徳川家康が幼年、身を寄せた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜だの地に創建し、門庵宗関和尚(1546~1621)を迎えて開山となした。宗関和尚は永平寺の道元禅師によって開かれた曹洞宗の第4代宝山禅師開創の総持寺の門派である大平山大中寺(栃木県)の十一世建室宗寅和尚(義元の実弟)の高弟であり、今川義元の孫と云われる人物で、度々登城を請われ法問を聴取されたと伝えられている。当寺の萬松山は松平の松より、「松萬代に栄ゆる」の意から、寺号泉岳寺は、徳川に因み、「源の泉、海岳に溢るる」の意からつけられたと旧梵鐘の銘に記されている。


                       泉岳寺山門(港区文化財)

 将軍によって建立された当寺も、寛永18年(1641)の大火によって伽藍が焼失、3代将軍家光(1604~1651)の命により現在の高輪の地に移転再建された(一説に移転は正保年間〔1644~1648〕とも)。この移転に際しては、毛利浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名が尽力して完成し、その因縁により以後この五大名が共に檀越となり外護の任に当った。
 江戸時代当寺は曹洞宗の江戸三ヶ寺(青松寺・総泉寺と泉岳寺)の一つとして、大僧録たる関三刹(埼玉県龍隠寺・千葉県総寧寺・栃木県大中寺)の下、特に本寺大中寺の下で触頭として曹洞宗の行政面の一翼を担った。
 また、吉祥寺旃檀林・青松寺獅子窟とならぶ江戸三学寮の一つとして重きをなし、宗内外の碩学によって仏典・祖録・漢籍等が講じられ、曹洞宗僧侶の養成に大いに寄与した。山門から中門の両側には出身地別の九棟の寮舎が並び、常時二百名程の学僧が修学していたという。



 また、赤穂藩主浅野家の菩提寺であったことから元禄15年の義挙(1702年12月14日)の後は、赤穂四十七義士の墓所としても知られ、討入り約50年後より上演された歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の興行が盛んになるに伴って一層多くの参拝者が訪れるようになった。
 現存する山門は天保年間に当寺三十四世大道貞均和尚によって建立され、2階には釈迦三尊及び十六羅漢が安置され、1階中央天井には我が国彫金の名匠、関義則の龍蟠が嵌め込まれている。



 明治初期には廃仏毀釈の余波を受けて、やや荒廃を余儀なくされたが、当寺四十世圓頓霊巌和尚の地道な努力と創意工夫とによって本堂・庫院を恢興し、また煉瓦造りの義士宝物館を創設し、既存の石巒師資制作の義士像を展示する木像堂と共にこれらを公開することによって広く衆望を集めて寺運の再興を果し、次代の四十一世普天霊明和尚がこれを継承して関東大震災に崩壊せる義士宝物館を再建し、書院を新築して、寺域の拡張・整備に努め、明治・大正・昭和に跨る当山の隆昌期が築かれた。
 然るに先の第二次世界大戦の戦火に遭遇し、山門・義士館(旧義士館=現講堂)以外の講堂が焼失し、歴代の功業は大いに削がれてしまった。しかし次の四十二世祖天凖爾和尚は戦後の苦境の中に諸堂の再興を発願し、遂に昭和28年(1953)に本堂の再建を果し、以後これが継承されて現在に至る伽藍・境内等の整備が戦後復興の一環として続けられている。先年義士討入り300年を記念し、浄財を募って浅野家の塋城(史蹟)を整備し、新たに赤穂義士記念館(平成13年〔2001〕開館)を建設して、寺宝と共に大石良雄の書状をはじめとする赤穂義士関係の資料を展示して、赤穂義士の已まれぬ心情を伝承することに資している。
 平成16年(2004)、江戸期の学寮の伝統と戦前に宗門の宗義自覚の発露であった道元禅師鑚仰会の活動等を再興すべく、泉岳寺学寮講座を開設し、漢学・仏教学・宗学の各講座を毎週開講し、また参禅会を公開して道俗の好学の士の渇望に応えている。


             浅野長矩及び赤穂義士墓所(港区文化財)


港区指定有形文化財(絵画)
  釈迦八相祇園精舎曼荼羅 
     付『萬松山曼荼羅之記』『文化五辰年於阿弥陀寺泉岳寺開帳全』
          平成8年(1996)10月22日指定
  絹本着色普照国師(隠元隆き)像  土佐光起筆 高泉性とん賛
          平成10年(1998)10月8日指定
  絵本着色蓮舟観音図 加藤信清筆  平成14年(2002)10月18日指定

港区登録有形文化財(絵画)
  雲龍図 雲谷等爾筆   平成13年(2001)3月10日指定
  弁財天図 狩野梅春筆  平成13年(2001)3月10日指定
  赤穂事件絵巻               平成14年(2002)3月25日指定

港区指定有形文化財(彫刻)
  漆喰造彩色天野屋利兵衛像 入江長八作  平成16年(2004)10月26日指定

港区指定有形文化財(書跡)
  大田蜀山人筆 狂歌屏風・漢詩屏風  平成9年(1997)10月14日指定

港区指定有形文化財(古文書)
  『天文・永禄年間 古券巻』  平成8年(1996)10月22日指定

港区指定有形文化財(古記録)
  門前水帳  平成14年(2002)10月18日指定

港区指定有形民俗文化財
  絵馬 市川莚升 大星由良之助図  平成18年(2006)10月24日指定
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所在地 港区高輪2-11-1 (泉岳寺)

港区登録有形文化財(建造物)
  泉岳寺中門
          平成11年(1999)2月11日登録



 切妻造、本瓦葺、一間一戸四脚門で、天保7年(1836)に再建されたものです。左右に袖塀を持ち、正面右手には通用門をもっています。また、番小屋を配し、禅宗寺院の中門の様式の中でも格式の高い様式を残した門です。
  港区教育委員会


所在地 港区高輪2-11-1 (泉岳寺)

港区登録有形文化財(建造物)
  泉岳寺山門
          平成11年(1999)2月11日登録

 入母屋造、本瓦葺、三間一戸八脚門で、天保年間に再建されたものです。楼上に極彩色の十六羅漢像が安置され、階下の天井には銅彫大蟠龍がはめ込まれています。区内に残された楼門建築は、他に増上寺三解脱門があるだけで、貴重な遺構です。
   港区教育委員会

                          浅野長矩及び赤穂義士墓所

所在地 港区高輪2-11-1 (泉岳寺)

 港区登録有形文化財(建造物)
浅野長矩及び赤穂義士墓所門
          平成11年(1999)2月11日登録

 切妻造、本瓦葺、一間一戸棟門で、もとは赤穂藩浅野家の鉄砲州上屋敷(現中央区)の裏門として建築されたものです。大石良雄が屋敷を訪れる際によく出入りした門といわれ、明治初年に取り払われる際に、この場所に移築されました。大名屋敷の江戸藩邸門の様式を残す遺構として貴重です。
 港区教育委員会


                                   主悦の梅

 墓所内には、主悦の梅(三田松平隠岐守邸内にて大石主悦外9人の者を樹下にて切腹せしと傳えられる梅)、首洗井戸(吉良上野介義央の首を洗った井戸)があります。


                                 赤穂義士墓所門


所在地 港区高輪2-13-8

 ここに展示されている石は、江戸時代に、高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられたものです。
 平成7年(1995)、高輪2丁目20番地の区有施設建設用地内の遺跡の発掘調査で出土しました。
 石垣には、主に相模湾岸から伊豆半島周辺で採石された安山岩が用いられました。
 発掘調査では3段の石積みを確認しましたが、最上段は江戸時代の終わり頃に積みなおされたものと考えられます。正面の小ぶりの石が積み直されたものです。3段目から下の石垣は現地でそのまま保存されています。
 平成13年(2001)5月 港区教育委員会


東海道高輪風景 橋本貞秀画 文久2年(1862) 港区立みなと図書館所蔵


東都三十六景 高輪海岸
広重(歌川広重二代) 文久2年(1862)


所在地 港区高輪2・3

むかし蔦葛(つたかずら・桂は当て字)がはびこっていた。かつらをかぶった僧が品川からの帰途急死したからともいう。
 平成15年(2003年)3月 


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