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東京都港区の歴史
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所在地 港区三田4-7-29 (長松寺)

国指定史跡
 荻生徂徠墓おぎゅうそらいはか
     昭和24年(1949)7月13日指定

 江戸時代中期の儒学者。字は茂卿、通称惣右衛門、徂徠は号である。寛文6年(1666)館林藩邸に生まれた。14歳から13年間、父方庵に従って上総国長柄郡本納村に流寓の生活を送り、独学自習、将来の学問の基礎を築いた。元禄3年(1690)江戸に戻り、柳沢吉保に用いられ、将軍綱吉にもしばしば儒学を講義するようになった。綱吉没後、日本橋茅場町に家塾「蘐園けんえん」を開いた。宋学を重んじ、伊藤仁斎の復古学を批判し、古文辞学を大成した。その学問は経学のみでなく江戸後期の政治、経済、文学等に大きな影響を与えた。「論語微」「明律国字解」「訓訳示蒙」「蘐園随筆」等多くの著書がある。将軍吉宗の諮問に応えて享保7年(1722)「政談」を幕府に献上した。享保13年(1728)1月19日63歳で死去した。
 平成12年(2000)3月設置 東京都教育委員会

  荻生徂徠(寛文6年〔1666〕~享保13年〔1726〕)の墓
 名は雙松、字は茂卿、通称惣右衛門、徂徠はその号であり、物部氏の出を称したところからしばしば物茂卿と自署した。
 徂徠は徳川時代の最大の儒者の一人であり、大東の文章我を俟ってはじめて興ると自ら豪語したのは必ずしも誇張ではない。彼の学問は日本儒学史に一大転換をもたらしただけでなく、清朝の儒者からも高い評価を受けた。

 [学問の特色]
 父方庵の赦免によって南総から江戸に戻り、元禄9年(1696)柳沢吉保に仕えて、5代将軍綱吉の知遇を得て儒学を講じた。その頃から早くも徂徠は中国語の会話に関心を持っていたが、言語の構造の歴史的変遷に着目する彼の方法はやがて「古文辞学」に結晶し、享保以後朱子学にたいする体系的批判の展開となって、学会に大きな衝撃を与えた。江戸後期の経学は朱子学者を含めて、積極消極両面で徂徠の影響なしには考えられない。徂徠が綱吉没後、日本橋茅場町に開いた私塾は地名にちなんで「蘐園けんえん」と名付けられたが、これはまた徂徠学派の別名ともなった。

 [学問の藩医]
 徂徠の学問はいわゆる経学の革新をもたらしただけでなく、その学風は文学、芸術から兵学、法律、教育、民俗学などおどろくべき広汎な領域に及んだ。そのなかでも、人間の自然的な勧請を尊重し、これを画一的な道徳基準から解放しようとする態度は、国学をはじめとする江戸後期の文学運動と文人趣味に受けつがれ、日本における近代芸術の動向の有力な源泉となっている。

 [政治的献策]
 治国平天下という儒学の原点への復帰を主張する徂徠の立場は、学理にとどまらず現実政治へのさまざまな献策として現われた。早く赤穂浪士事件にたいする彼の著名な意見具申をはじめとして、8代将軍吉宗の諮問に応じて幕藩体制の根本的病理を縦横に解剖し、また江戸の消防組織から通貨対策にいたるまでのきわめて具体的な政策を提唱した。これら現実政治を扱った「政談」その他の徂徠の論考は、没後世上に流布し江戸後期の政治思想にさまざまの影響を及ぼしている。

 [主要著書と門人]
 徂徠のおびただしい著書のうちもっとも著名なものは、経学として「学則」「弁道」「弁名」「論語微」、諸子及び兵学として「読筍子」「読韓非子」「呉子国字解」「鈐録けんろく」、随筆として「南留別志なるべし」「蘐園随筆」などがあり、また門弟によって編纂された「徂徠集」三十一巻がある。個性の伸長と肝要の精神に立った徂徠の教育方針は、天下の英才を蘐園に蝟集させる結果となった。主要な高弟には服部南郭、安藤東野、山縣周南、太宰春大台、山井崑崙こんろん、宇佐美灊水しんすいなどがある。
 享保13年(1728)1月19日没、享保63歳。墓誌銘は伊勢神戸藩主本多伊予守忠統の作である。
 昭和53年(1978)1月19日 没後250年を記念してこれを建てる。
  八代之裔 荻生敬一
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