東京都港区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 港区南麻布3-1-15 (天真寺) 中山範士之碑 剣道範士中山翁博道歿之十年門弟諸子胥謀建碑頌徳謁文於予按状日翁明治六年二月生金澤市父源之丞二十二年上京就齋藤理則学剣二十四年入根岸信五郎門学神道無念流三十八年開道場於本郷眞砂町養成子弟旁学細川義昌居合術於土佐学内田良五郎杖術於筑前受第六代相傳大正二年受無念流第七代相傳九年受大日本武徳會剣道範士居合道範士之稱號賜一等功労章十一年受居合術第十八代相傳昭和二年受杖道範士號四年奉仕文禮記念天覧試合審判員七年設有信館本部子弟彌衆任宮内海軍警視其他諸官署東大慶應明治其他諸大学師範欧道普及全國二十年終戦之卛収容横須賀拘置所無幾放免三十四年十二月十四日病逝享年八十九葬麻布仙臺阪上天眞寺法諡日大雄院殿夢想博道大居士翁性恂恂和易如村夫子時喜作蘭竹文豪細田剣堂謂予曰後輩知剣之奥者有中山博道剣禅名家現警視廳主席師範無得庵小川刀耕曰中山先輩之剣噫極其妙者歟予與翁有舊初江木欣欣女史篤志文武以杖術聘翁以詩作聘岩渓裳川以經書聘予鼎立當之翁以予為可語杯酒欵談毎慨世道之不振屢問以文事臨此文追憶往時愴然弗克爲情昔佐久間象山敍力士雷電碑自省而泣予亦於是乎殆欲泣銘曰 剣道之技 勇武絶倫 乾坤義氣 護國精神 嗚呼我翁 維軌維範 術之攸臻 聿達天覧 草薙之炗 終古焰焰 昭和四十五年三月二十二日 雲處 新田興 撰 敬堂 福島正義 書 PR 所在地 港区南麻布4-5-61 (広尾稲荷神社) 港区指定有形文化財(歴史資料) 広尾の庚申塔 昭和55年(1980)11月15日指定 庚申信仰は、庚申の日の夜に体内に住む三尸虫が、眠っている間に体内を抜け出して、天帝にその人の罪科を報告して生命を縮めるといわれているため、眠らずに一晩を明かすもので、講の形をとって地域住民の交際の場となっていました。庚申塔は庚申信仰を具象的に表現する塔として、室町時代後期以後各地で盛んに建てられました。 三基とも方形角柱の笠塔婆型で、塔身が太く、堂々としています。社殿によれば、広尾稲荷神社の別当寺であった千蔵寺の住持祐道の代に、講の人々の浄財を得て立てられたものです。三基のうち、中央には元禄3年(1690)、左には元禄9年(1696)の年号があり、右は摩滅のため年代不詳ですが、状況から左の二基よりも古い可能性があります。庚申信仰が全国的に盛行している時代の産物であり、この地域も例外ではなかったことがわかります。 庚申信仰の実態は、この地域ではすでにほとんど失われ、過去の組織の状況を伝えるものも全くありませんが、さまざまな要素を合成しながら、自主的な民間信仰として、庶民の間に行われてきまたものであり、都心化したこの地域での、かつての信仰のあり方を想起させる遺物として、三基の庚申塔は貴重な存在となっています。 昭和55年(1980)11月15日指定 (平成22年〔2010〕3月建替) 港区教育委員会 所在地 港区南麻布4-5-61 (広尾稲荷神社) 港区指定有形文化財(絵画) 拝殿天井墨龍図 高橋由一筆 平成12年(2000)10月24日指定 拝殿 拝殿天井のほぼ全体にわたる大きな画面に、水墨の戦と濃淡のぼかしを巧みに活かし、頭から尾の先までを円状にくねらせながらその姿を現す一頭の龍が生き生きと描かれています。図中には、「藍川藤原孝経拝画」の署名と「藍川」の印章(朱文方印)が見られます。 「藍川」の号は、西洋からもたらされた油絵の抜法をいち早く取り入れ、近代日本洋画最初の画家として歴史的な評価をうける高橋由一(1828~1894)が、絵画学習の基礎として狩野派の様式を学び、その画法によって水墨画を描いていた時期に使用していたものです。由一が狩野藍川孝経の落款を残す現存作品は極めて稀です。 広尾稲荷神社は、弘化2年(1845)1月24日、青山から麻布一帯を焼いた「青山火事」によって社殿を焼失しましたが、弘化4年(1847)に再建されました。拝殿の墨龍図は、このときに描かれたものと考えられます。製作年代がほぼ特定できる作品としても貴重なものです。 平成12年(2000)10月24日 港区教育委員会 拝殿天井墨龍図 所在地 港区赤坂4-3-5 (浄土寺) 港区指定有形民俗文化財 銅造地蔵菩薩坐像 平成5年(1993)9月28日指定 左手に宝珠を、右手に錫杖を持ち、跌坐している。ひとびとはこの世で犯した罪業により、六道を輪廻して地獄におちると信じられていた。地蔵菩薩は、その地獄道にあって、衆生を教え導き、救済するといわれ、広く民間に信仰された。一般には六道に合わせて「六地蔵」の名が親しまれたが、六体で一具という限定はあるわけではない。 本像には、像身・台座に数多くの刻銘がある。それによれば享保4年(1719)2月23日に、勧進僧地蔵坊正元・赤坂一木浄土寺の往持観誉らを中心に、945名の信者合力を得て作成され、鋳物師は、太田駿河守正義である。正元は、同様の形のいわゆる「江戸六地蔵」を、各所につくっているが、本像はその中には含まれていない。 江戸時代中期における地蔵信仰のあり方を伝える資料として、また、港区における民間信仰の実態を知る資料として貴重である。 東京都港区教育委員会 所在地 港区赤坂5-2 (赤坂パークビル) 品川区にある専修寺は、永禄2年(1559)曇譽上人により、青山の勢至堂を改築して開山、山院号を本山増上寺より賜う。二世誠譽上人の天正19年(1591)家康公により、赤坂堀端に家臣の菩提寺として移転。中興五世■譽上人(増上寺十八世定譽上人の直弟)の寛永2年(1625)赤坂碑と次一ツ木に代地を賜り、赤坂・専修寺として永年法灯を護寺するも、二十四世進譽上人の明治40年(1907)近衛歩兵第3連隊拡張の軍令により割譲止むなく桐ヶ谷の地に堂宇、墓碑(1573基)を移築す。 ここに歴代住職・檀信徒の佛縁を記念して當地に碑を建立す。合掌 平成20年(2008)3月吉祥日 當山 中興二十七世香譽亮哉 所在地 港区赤坂6-6-14 (サン・サン赤坂) この地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟が明治5年(1872)の49歳から満76歳で亡くなるまで住んでいた屋敷の跡地です。その間、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら有名な『氷川情話』などを遺しました。その時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成5年(1993)春まで港区立氷川小学校敷地として使用されていました。その後、氷川小学校が廃校となったため、その建物を生かしつつ改修を行い、平成15年(2003)から区立特別養護老人ホーム及び子ども中高生プラザとして使用して現在に至っています。施設内には、屋敷跡の発掘調査で出土した当時の縁の品などが展示されています。 港区 サンサン赤坂にある文化財 港区登録有形文化財(歴史資料) 九条家寄贈グランド・ピアノ 平成14年(2002)1月31日登録 所在地 港区赤坂6-6-14 (サン・サン赤坂) 明治41年(1908)4月1日授業開始 明治42年(1909)6月27日開校式 東に千代田の翠微を眺め 西に扶養の麗姿を望む 英傑海舟住みにしところ 我等が学舎ぞ厳しく立てる 平成5年(1993)3月31日開校 碑建立 氷川小学校卒業生 所在地 港区六本木4-3 (ブリヂストン三河台アパート) 志賀直哉の父直温が、家族とともにここに移り住んだのは、明治30年(1897)、直哉14歳の時でした。当時の屋敷は1682坪(5550.6平方メートル)もあり、雑木林の趣さえうかがえる広大なものでした。 直哉は、ここで29歳まで、人間形成のもっとも重要な青春時代を過ごしました。そして、この間、処女作である「或る朝」をはじめ「網走まで」「正義派」「大津順吉」などの初期の名作を生み出しています。作品の中には当時の父とのいきさつを扱ったものや、「剃刀」「自転車」のようにこの土地にかかわりのあるものがみられます。 なお、当時の家屋は、昭和20年(1945)の戦災で全焼しました。 昭和53年(1978)3月1日(平成18年〔2006〕8月建替) 港区教育委員会 所在地 港区六本木1 1986年(昭和61年)、20年近い歳月を経て、赤坂(Akasaka)と六本木(Roppongi)の結び目(Knot)にアークヒルズ(ARK HILLS)は誕生しました。当時の民間における都市再開発事業としては最大級の規模(総敷地面積56,000㎡)を誇り、共同住宅、オフィス、ホテル、テレビスタジオ、コンサートホールなどを組み合わせた複合型街づくりは、その後の都心部における再開発事業のさきがけとなりました。 そのアークヒルズの南側に位置するこの坂道は、六本木通りからスペイン大使館につながることから「スペイン坂」と名付けられ、多くの人々に親しまれています。 春には、両側の歩道に植えられた桜が坂道を被うように咲き乱れ、都心に於ける桜の名所としても知られています。 2001年1月1日 アークヒルズ自治会 森ビル株式会社 所在地 港区六本木1-6-1 (泉ガーデンタワー) 港区指定文化財(旧跡) 永井荷風旧居「偏奇館」跡 平成16年(2004)10月26日指定 小説家永井荷風が、大正9年(1920)に木造洋風2階建の偏奇館を新築し、25年ほど独居自適の生活を送りましたが、昭和20年(1945)3月10日の空襲で焼失しました。荷風はここで「雨瀟瀟(あめしょうしょう)」「濹東綺譚(ぼくとうきだん)」などの名作を書いています。偏奇館というのは、ペンキ塗りの洋館をもじったまでですが、軽佻浮薄な日本近代を憎み、市井に隠れて、滅びゆく江戸情緒に郷愁をみいだすといった、当時の荷風の心境・作風とよく合致したものといえます。 冀くば来りてわが門を敲くことなかれ われ一人すむといへど 幾年月の過ぎ来しかた 思い出の夢のかずかず限り知られず 「偏奇館吟章」より 平成14年(2002)12月 港区教育委員会 所在地 港区麻布台3-4-17 (メゾン飯倉) 島崎藤村は71才の生涯のうち文学者として最も充実した47才から65才(大正7年〔1918〕~昭和11年〔1936〕)までの18年間 当麻布飯倉片町33番地に居住した大作夜明け前 地名を冠した飯倉だより童話集 ふるさと おとなものがたり などは当地での執筆である 昭和48年(1973)4月3日建之 株式会社東京楽天地 所在地 港区麻布台2 港区指定文化財(史跡) 日本経緯度原点 平成8年(1996)10月22日指定 ここには、わが国の経度・緯度を決める基準となる日本経緯度原点が設置されています。この原点の経度・緯度の数値は、大正7年(1918)に文部省告示によって確定した「東経139度44分40秒5020、北緯35度39分17秒5148」でしたが、平成13年(2001)の測量法の改正により、最新の宇宙測地技術を用いて新たに「東経139度44分28秒8759、北緯35度39分29秒1572」と定められました。 この場所には、明治7年(1874)から海軍の観象台が置かれていましたが、明治21年(1888)になって、赤坂九溜池葵町の内務省地理局天象台と合併し、東京帝国大学附属東京天文台が置かれました。原点の位置は、天文観測に用いられた機器である「子午環」の中心位置にあたります。その後東京天文台は大正12年(1923)に三鷹に移転しましたが、子午環跡は国土地理院が日本経緯度原点として引継ぎ、現在もわが国の地図測量の原点として利用されています。 日本経緯度原点は、日本の側地座標系の原点であるだけでなく、わが国の天文測量が始まったところとして、科学技術史及び文化史上意義深い場所です。 港区教育委員会 日本経緯度原点 日本経緯度原点は、わが国における地理学的経緯度を決めるための基準となる点である。明治25年(1892)に東京天文台の子午環の中心を日本経緯度原点と定めた。その後、大正12年(1923)の関東大地震により子午環は崩壊し現存しない。このため、日本経緯度原点の位置に金属標を設置した。 平成13年(2001)に測量法が改正され、測量の基準として世界測地経緯度および方位角の数値は、最新の宇宙測地技術を用いて定めたものである。 原点数値 経度 東経 139℃ 44’ 28" 8759 緯度 北緯 35℃ 39’ 29" 1572 方位角 32℃ 20' 44” 756 (つくば超長基線電波干渉計観測点に対する値) 平成14年(2002)4月1日 国土地理院 |
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