東京都港区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 港区三田3-14-10 (札の辻橋) 札の辻橋は、昭和8年(1933)地域の交通を結ぶ橋として架けられましたが、平成16年(2004)に現在の橋に生まれ変わりました。 このモニュメントは当時の橋で使われた石や橋名板を再利用して造られたものです。 PR 所在地 港区北青山3-3-16 明治丗三年 我等の母校が此の地に建てられ大正を経て昭和十一年(1936)に至る丗六年の間、正大とまじめの校風のもとに師範学校および附属小学校から多くの人材を輩出した。 母校は世田谷に移りなつかしい旧校舎は、やがて戦災を受け灰儘に帰して昔をしのぶ何物もなく、年とともに感慨に堪えない。 学制頒布をみて百年 今や記念碑建設の念願がかない我等の喜びを後世に伝える。 千九百七十二年十一月三日 東京府青山師範学校卒業生 同附属小学校卒業生 所在地 港区新橋5-19 塩釜公園の沿革 江戸時代、この公園の場所は、仙台藩主伊達家の中屋敷内にあり、盬竈神社(しおがまじんじゃ)の境内になっていました。 この神社は、はじめ元禄8年(1695)に今の東新橋にあった伊達家上屋敷内に、領地の盬竈神社本社から分霊を迎えて祀られていたものが、安政3年(1856)に移転され、邸内社として私に祀っていました。その後一般の人々にも参拝を許し、本社に同じく安産の神様として信仰を受けました。 明治になり、大名屋敷がなくなってからも神社は存続しましたが、大正12年(1923)の関東大震災の後、災害時の避難場所の確保と町民の安息や子どもの遊び場もかねて、昭和5年(1930)に東京で唯一の町立盬竈公園として開園しました。 その後、昭和46年(1971)、港区が区立塩釜公園として整備しましたが、敷地拡張に伴い、この度、全面改造を行いました。 昭和59年(1984)12月 東京都港区 所在地 港区芝公園1-1 港区指定文化財(旧跡) 日本近代初等教育発祥の地 (小学第一校・源流院跡) 平成2年(1990)10月24日指定 わが国の近代初等教育は、明治5年(1872)の学制発布に先立ち、明治3年(1870)に東京府が府内の寺院を仮校舎として、六つの小学校を設立したことに始まり、その第一校は、6月12日に開校した。第一校のおかれた源流院は、江戸時代初期からの増上寺子院で、当時、境内北辺の御成門東側のこの地にあった。大訓導(校長)村上珍休、教師、助教と生徒中の秀才が生徒と教えた。授業は主として句読(音読)・習字・算術で、生徒は8歳から15歳までとし、机・硯箱・弁当は各自持参した。 この小学第一校は、明治4年(1871)に、西久保巴町(虎ノ門3丁目)へ移り、その後、校名も、第一大学区第二中学区第一番小学、鞆絵尋常高等小学校、鞆絵国民学校、鞆絵小学校などと変わった。 平成2年(1990)10月24日 東京都港区教育委員会 所在地 港区愛宕2-1-1 (放送博物館) 大正14年(1925)3月1日に芝浦の仮放送局から日本最初のラジオ放送された後、大正14年(1925)7月12日に愛宕山の東京放送局よりラジオ本放送が行われました。 アンテナの鉄塔は東京名物となりました。初代総裁には後藤新平が就任。昭和3年にはラジオ体操も始まり、放送局は永く愛宕山のJOAKとして親しまれていたが、昭和14年(1939)に千代田区へ移転しました。その後、昭和39年(1964)の東京オリンピック開催から昭和48年(1973)7月にかけて、段階的に渋谷へ移転しました。 所在地 港区海岸1-5-20 (東京ガス株式会社) 港区文化財(旧跡) ガス創業の地 平成4年(1992)3月30日指定 創業記念碑 帝都瓦斯事業ハ其初メ官營トシテ計畫セラレ此地芝濱崎町ニ瓦斯製造所ノ建設セラレタルハ明治六年(1873)十二月ニシテ瓦斯供給ヲ開始シ銀座街頭ニ瓦斯燈ヲ点火シ行人ヲシテ驚異ノ眼ヲ瞠ラシメシハ其翌年ノ事ナリ後民營に移サレ明治十八年(1885)十月ニ創立セラレタル我社ハ此地ニ於テ事業ヲ繼承セリ爾来物換ハリ星移リ我社ハ他ニ移轉シ瓦斯製造所モ廢毀セラレタリ本年創立五十周年ヲ迎ヘ此地ノ當テ瓦斯供給ノ本源地ニシテ且ツ我社創業ノ地タリシヲ憶ヒ當時ノ構内一隅ニ此碑ヲ建テ由来ヲ誌シテ記念トス 昭和十年(1935)十月一日 東京瓦斯株式会社 取締役社長 井坂孝 所在地 港区海岸1-5-20 (東京ガス㈱) ここに復原されている石垣は海岸1丁目特定街区建設工事の際に発堀された石垣を保存のために移築したものです。 石垣が発堀されたこの地は、旧芝離宮恩賜庭園に南接し、江戸時代前半(17世紀の後半)に埋立てられた築地で、永井佐渡守や丹波左京太夫の屋敷あるいは松平越前守陣屋として用いられたものです。 保存された築地石は、築地の北側と東側の護岸用に使われていました。 (文・東京都港区教育委員会) 案内板設置者 東京ガス株式会社 所在地 港区虎ノ門2-9-16 (日本消防会館) 元禄のころ、このあたりに大目付、仙石伯耆守の屋敷があった。大目付とは老中の配下にあって政務を監督し、諸大名の行動を監察した役職である。 元禄15年(1702)12月15日朝、大石良雄以下47名の赤穂浪士が本所吉良邸に討入り、主君浅野内匠頭の無念を晴らし武士の本懐を遂げた。 吉良邸を引きあげて芝泉岳寺にある主君の墓前に向かう途中、大石良雄は部下2名の者を仙石伯耆守邸に差し向け自首させた。その際に両名の義士は邸内の井戸で洗足して座敷にあがったと言う。 この史実をもとにこの井戸を作り、校正にあまねく伝承するものである。 昭和56年(1981)11月吉日 財団法人日本消防協会 所在地 港区虎ノ門3-10-10 (栄閑院 猿寺) 杉田玄白(1733~1817)は江戸中期の蘭方医、蘭学の祖である。若狭小浜藩の藩医過ぎた甫仙の子、名は翼、字は子鳳、号は鷧斎、九幸翁など。江戸に生まれ、西玄哲に外科、西幸作にオランダ外科を学んだ。前野良沢、桂川甫周らとオランダ語解剖書を翻訳した『解体新書』は日本医学史上画期的な文献である。文化12年(1815)に脱稿した『蘭学事始』は『解体新書』翻訳の苦心談を回想した点で有名である。このほか「形影夜話」「野叟独語」などの著書がある。 昭和43年(1968)3月1日建設 東京都教育委員会 所在地 港区虎ノ門5-10-14 (西久保八幡神社) 港区虎ノ門飯倉交差点の北側にあたる台地の先端に西久保八幡神社があります。この社殿の裏手斜面に貝塚が形成されており、都心部に良好な状態でのこる貝塚と言えます。 本貝塚が知られたのは昭和のはじめ頃に遡りますが、正式調査を経ぬまま今日にいたっていました。昭和57年(1982)度の都心部遺跡調査団による分布調査で存在が確認され、調査が行われました。 台地の縁辺から斜面にかけて、縄文時代後期前葉から後葉にかけての混土貝層が二枚発見されました。また、貝層上には縄文時代晩期の遺物包含層、貝層下には縄文時代前期の遺物包含層が確認されています。調査範囲が狭いにもかかわらず、貝層からは縄文時代後期中葉の完形の精製浅鉢土器や精製深鉢土器、粗製深鉢時が数個出土しており、E・Sモースが発掘した品川区大井の国指定史跡大森貝塚出土品(重要文化財)との比較資料として重要です。 平成22年(2010)3月 東京都教育委員会 Nishikubo Hachiman Kaizuka It is in the beginning of the Showa Era that kitchen midden under this section became known,however,it had been dubjected to no academic excavations until very recently.The site was identified as is in the framework of inbestigation on destribution conducted in 1982 by the Central metropolitan area remains investigation group,subsequently new reseatches were conducted. 2 layers of shells miwed with soil from an early to a late stage of the Late Jomon Period were found from edges to slope of the identified above the layers of shells,while a layer comprising relics from the Early Jomon Period below them.Although the range of investigation was limited,several fine-made shallow,fine-made deep and roughly made deep bowl-shaped clay vessels were excavated.These clay vessels are important as reference materials compared to excavated relics(Immportant Cultural Assets)from a state-designated historic site Omori kichen midden. Tokyo Metropolitan Board of Education 所在地 港区芝公園3-2-25 (みなと図書館) お台場(内海苔台場)は、嘉永6年(1853)黒船来航により、幕府が急きょ築造した海上砲台です。未完を含め7基の台場のうち、国の史跡指定を受けた、第3と第6の2基を残して、その他は解体、埋め立てられました。 この石は、その時、第5台場(現・港南5丁目)から移されたといわれています。 伊豆周辺から運ばれた安山岩で側面には、約100年の間、波に洗われた跡をとどめています。 所在地 港区芝公園3-2 (芝公園) 北海道大学の前身である開拓使仮学校は、北海道開拓の人材を育成するため増上寺の方丈の25棟を購入して、明治5年(1872)3月(陰暦)この地に開設されたもので、札幌に移し規模も大きくする計画であったから仮学校とよばれた。 生徒は、官費生・私費生各60名で、14歳以上20歳未満のものを普通学初級に、20歳以上25歳未満のものを普通学2級に入れ、さらに専門の科に進ませた。 明治5年(1872)9月、官費生50名の女学校を併設し、卒業後は北海道在籍の人と結婚することを誓わせた。 仮学校は明治8年(1875)7月(陽暦)札幌学校と改称、8月には女学校とともに札幌に移転し、明治9年(1876)8月14日には札幌農学校となった。 所在地 港区芝公園3-3 (東京プリンスホテル) 増上寺(徳川家菩提寺)の裏門としてつくられたが、将軍が参詣する際にもっぱら用いられたので、「御成門(おなりもん)」と呼ばれるようになった。 初め「御成門」は、現在の御成門交差点にあったが、明治25年(1892)の東京市区改正計画で、内幸町から増上寺三門を経て芝公園に至る道路が新設された際に、この市に移築された。 その後、増上寺三門や旧庫裡門・徳川家墓地の惣門・ニ天門とともに、関東大震災や太平洋戦争の戦火から難をのがれて今日に及んでいる。 昭和48年(1973)3月 東京都港区教育委員会 所在地 港区芝大門2-7-4 御祭神 倉稲魂神 大宮能賣神 太田神 抑~当社は首尾稲荷神社と称し奉る 御鎮座地は武州江戸芝中門前2丁目 昭和47年(1972)1月住居標示により芝大門2丁目に属す 御創建は古く元禄9年丙子(1696)9月にして古文書によれば難病に悩みし住民田村三郎兵衛 夢枕に立たれし 稲荷大神の御神威により助命せることを深く奉謝し稲荷大神を勧請 首尾稲荷と申し上げた 文化13年(1816)京都伏見稲荷大社より正一位の神階を授与された 爾来 災禍消除 火難除 盗難除 商売繁盛 福徳円満 町内和合の守護神と崇敬者が多かった 明治以降 伊藤 鏑木 木所の諸氏等の信仰篤くお社を奉護 大東亜戦争終結後 中門前2丁目町会にて祭祀を継承し今日に到る 此の度 御社殿損傷著しきため町会役員相議り町内有志 崇敬者の芳志により御社殿竣工す 昭和54年(1979)5月吉日 芝大神宮 宮司 山田將夫 謹記 所在地 港区芝大門2-7 港区指定文化財(旧跡) 尾崎紅葉生誕の地 昭和57年(1982)10月30日指定 『金色夜叉』などの小説で有名な作家、尾崎紅葉(本名徳太郎)は、慶応3年(1867)12月16日、芝中門前2丁目25番地(現在港区芝大門2丁目7番4号)にあった首尾稲荷神社のそばの家で、伊勢屋こと牙彫り師の尾崎谷斎(惣蔵)の長男として生れました。4歳のとき母を失い、芝神明町8番地(現在港区浜松町1丁目18番14号)母の実家荒木家に養われることになるまでこの地に住みました。 17歳の時、日本最初の文学団体「硯友社」を結成して近代文学の先駆けとなり、18歳の夏からは増上寺境内の紅葉山からとって紅葉山人と号しました。明治36年(1903)10月30日没。35歳。小説集には『芝肴』の題をつけ、また、『男心は増上寺』と題する短編もあり、終生出身地の気風をよく現した人物でした。墓も港区の青山墓地にあります。 囀りの下に小さき祠かな 紅葉 昭和57年(1982)10月30日指定 港区教育委員会 所在地 港区虎ノ門3-10-8 (興昭院) 知相山 興昭院 港区有形民俗文化財 石造閻魔王像(こんにゃく閻魔) 平成4年(1992)3月30日指定 石造閻魔王像は、天保9年(1838)刊行の『東都歳事記』正月16日の条に『閻魔参り』として真向かいの栄立院の木造閻魔(現存せず)とともに記載されている。 この閻魔は、眼病に霊験あらたかとして信仰され、祈願者の願いが成就した時には、そのお礼として「こんにゃく」を供えるならわしとなっていた。現在その風習は失われているが、当時の民間信仰を知る貴重な像である。 像高はおよそ105cm、風化が進んでいるが、筍を持ち、上方に開いた方形の冠をつけ、口を開いた忿怒の相であることはわずかにうかがい知ることができる。 平成4年(1992)3月30日 港区教育委員会 |
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