東京都港区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 港区白金2-1-7 氷川神社 御祭神 素盞鳴尊(すさのおのみこと) 日本武尊(たまとたけるのみこと) 櫛稲田姫尊(くしいなたひめのみこと) 例大祭日 9月14日 大祭式 斎行 9月15日 宮神輿渡御(隔年)町内神輿・山車巡幸 由緒 神代の昔、当社の御祭神・素盞鳴尊は出雲国(島根県)簸の川上おいて、大雨・洪水・地震・山火事・厄病等の象徴である八岐大蛇を退治し給い、国土を安穏にして、納魚を始めとする諸産業守護繁栄の神、開運・開発の神となられた。時代は下って、景行天皇の時代(1880年前)関東の経国を命ぜられた日本武尊は日夜その使命の達成に苦心しておられたが、素盞鳴尊を崇敬される尊は日々この丘に上って武蔵の国一の宮(埼玉県氷川神社)を遙拝され、その御加護を熱心にお祈りになられた。お蔭によって目出たく東国を平定されたことが求涼雑記に見える。また新編武蔵国土風土記に「武蔵国一の宮は孝昭帝の御守(約2千4百60年前)勅願として出雲国氷の川上に鎮座する杵築大社をうつし祀ったことから、氷川神社の神号を賜わる。」とあり、日本武尊御東征の時、素盞鳴尊を勧請し、大宮に対する遙拝所として当所に御鎮座された次第である。櫛稲田姫命は素盞鳴尊が八岐大蛇を退治して美しい稲田の神を娶られ「八雲立つ八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣をとうたわれて安住の天地を作られたことから家庭円満で家業繁昌を護る神として配祀し申し上げる。 沿革 白鳳年間(今より1338年前)に所謂白金邑の鎮守の氏神様として建立せられた。明和9年(1772)目黒行人坂から出た火災により類焼、その後宝暦2年(1752)大規模な権現造りの御社殿が御造営され嘉永5年(1852)には拝殿が銅葺せりと伝えられ立派な建設であったが、昭和25年(1950)4月25日大東亜の戦禍にあった。昭和32年(1957)秋、現在の御本殿・幣殿・拝殿・参道・社務所等境内整備に至る迄造営大工事が竣工した。 所在地 港区白金2-1-43 浄土宗 松宮山 三葉院 専心寺 院号ヲ三葉院山号ヲ松宮山寺号ヲ専心寺ト称シ浄土宗ナリ 創建年月ハ不詳ナレ共寛永甲子元年二月開山傳誉上人利道和尚入寂セルヲ記ス事ヲ以テ寛永以前ニ創建セルハ詳也 一心専念彌陀名号ト称シ当時ヨリ念佛寺トシテ有名ナルヲ以テ専心寺ト名付シナラン 寺内ニ観音堂 厄除大師 稲荷大明神 三葉大神宮有リ 観音堂ハ西方二十八番ノ札所トシテ有名ナリ 特ニ門前ノ老松一株有リ三鈷松ト称シ徳川三代将軍家光公鷹狩ノ折此ノ松ヲ賞愛シテ此ノ称呼ヲ與ヘタリト傳フ 三葉松ナルヲ此テ名付シナラン歟 本寺ノ前ヲ走ル坂道ハ元此ノ松ニ因ミテ三鈷坂ト呼ベルヲ後訛傳シテ三光坂ト称スルニ至リシモノ也 町名三光町モ亦此ノ松ノ称呼ニ起因スルモノ也 昭和甲子59年(1984)2月建立 第二十一世 諦誉民譲 第二十二世 法誉尭海 所在地 港区白金2-2-6 (立行寺) 大久保彦左衛門忠教頌徳碑 大久保忠教碑記 大久保忠教通称彦左衛門忠員第八子其先出於字都宮公綱子孫居三河称字津後改大久保仕徳川氏忠教幼而勇武従兄忠世轉戦各■屡立偉功天正十八年(1590)忠世受封小田原忠教亦封沼津食二萬三千石忠世子忠隣仕家康関原役秀忠後期遭家康怒頼忠隣得解家康立嗣忠隣推秀忠本多正信忌其聲望■慶長十九年(1614)褫封配近江忠教亦坐而廢更賜三千石列麾下大阪役有功家康復封忠教固辞乃特命大議必参與秀忠家光以故老敬重焉性剛直不阿權貴儉素自持扶弱挫強諸大夫皆憚之如鶴羮調君泥菘戒爲政者佳謔往往出於人意表而言必發於忠信正紀綱仰奢侈彦左衛門之名天下莫不知又能愛容拓致不遇士食客常三百人後世談史者取以資風教三河物語其著也寛永十六年(1639)二月卒壽八十葬於麻布立行寺寺後移芝白金賽者絶甚多香火不絶官表為史蹟於是有志胥謀設一亭榭建碑記事寺主高野義明來請文余常欽其大節貧廉懦立不辤而記之墓側有一心太 ■■任侠義気亦受忠教之眷者云 |
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